第5話 白壁

 八月初旬の暑い盛りのこと、地元では屋号で呼ばれる家の主人の葬儀は、親族だけで斎場の一室が溢れていた。

 宏則はこの五歳上の故人とは父親の相続を巡って訴訟沙汰となり、数年間は絶縁状態にあったものの、慶子の死をきっかけに以前の関係に戻っていた。当時の恭輔は、慶子のことでバタバタしているさなかになされたこの関係修復に少なからず冷ややかな感情を覚えた。だが、自分とは没交渉な事、そう割り切って特に異議を唱えなかった。

 そんな恭輔も伯父の葬儀には参列した。ところが、出棺前の宏則の挨拶に彼をはっとさせるくだりがあった。

「兄が、――自分が入院してしまうまで、車で私の通院の送り迎えを週三回、欠かさずしてくれたことが忘れられません……」

 挨拶の締め括りに来て唐突な印象を受けたこの一言は、明らかに言葉足らずだった。宏則は恭輔が家を空けた一年間のうちの何ヶ月間かの話をしたつもりなのだろう。恭輔からすれば、大学生の頃は勿論、社会人になってからも時間の許す限り車を出したつもりだった。病院前の路上では僅かな時間の停車しか許されない。せっかちな宏則と行き違いにならぬよう、迎えに出る時間にはかなり気を遣った。しかし地元の参列者や遠縁の親族は、一体、この家の長男は何をしていたのだ、そう思ったに違いなかった。

 恭輔は宏則の兄が車を出していたことなど知らされていなかったし、これは葬儀の挨拶ゆえの誇張的な麗句なのではないかと思ったくらいだった。けれども、そう思えば思う程、恭輔は周囲の目などより、父親の自分に対するこの仕打ちに、奈落の底に突き落とされた失望感を味わわされた。宏則の詞に悪意すら感じた。

 父親の息子に対する気持ちが、公の場でマイクを通して放たれた場面――恭輔の脳裏にはそう刻み込まれたのだった。……


 恭輔は気を取り直して、再び解説冊子を読み始めた。すると程なく救急車のサイレンの音が耳に入った。

「またか……」

 サイレンの音が次第に大きくなり、それが鳴り止むと、しばらくしてこのフロアの通路が騒がしくなる、この繰り返しである。

 この日、深夜の急患は三人だった。そのうち、一人は昨晩と同じように別棟に移り、二人はそのまま治療室に残されていた。――仮眠室を利用する者は、四人となった。

 恭輔は少し眠ったのだろうか、気がつくと手許の時計は午前四時を指していた。茉莉子は下を向いて腕組みをしたまま眠っている。

 するとその時、「ゴトッ」と物音がした。

 吃驚して振り返ると、つい先程まで寄り掛かることもあった白壁が外に向かって動いていた。右側にできた隙間から、長い黒髪を後ろで束ねた看護師が表情のない顔を出した。昼間とは違う看護師だった。

「川上さん、荷物を全部持って、こちらからお入りください。そう、靴も持って」

 看護師の視線は、不機嫌そうにする恭輔の顔など意に介さず、何時間か前にこの部屋のメンバーに加わった女性のうちの一人に向けられていた。彼女は、看護師に急かされるまま、まるで夜逃げでもするかのように壁の向こう側に消えて行った。

 白壁は外側から押し戻された。

 残った三人共、この川上という女性とはそれきりだった。


 (未完)

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ノブのない扉(ドロウ・ザ・ライン 第3章) one minute life @enorofaet

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