第4話 伯母
仮眠室に戻ると、鞄から資格試験予備校の通信教材とシャープ・ペンシルを取り出し、通路の長椅子に腰掛けた。二年程前から法曹を目指していた恭輔は、時間を無駄にできなかった。今の勤め先に赴任した当初は、毎日のように帰宅が深夜に及び、以前にも増して試験の準備に充てられる時間が限られた。目白台に部屋を借りたのも、時間の捻出のためだった。旧家で生まれ育ち、「家」を重んずる宏則からすれば、長男が一時的にでも実家を出ることはその倫理に悖るものだった。しかし、恭輔の置かれている状況を見ると、慶子との離婚を棚に上げる訳にもいかず、内心は不承不承であるが息子の考えを小言もなく認めたのだった。
とは言え、今の恭輔には、この十数頁の演習冊子は単なる気休めか、あるいは暇潰しの道具に過ぎなかった。同じ頁を一時間以上も眺めたり、見るともなく頁を行ったり来たりさせたり、決して捗りはしなかった。ようやく半分くらいの所まで解き終えた頃には午後一時を回っていた。
恭輔は今朝起きてから顔も洗っていなかったことに気づいた。気晴らしに洗面所へ行こうと立ち上がった。するとちょうどその時、自動扉が開き、毛布のはみ出した大きな紙袋を抱えた茉莉子が入って来た。
「どこへ行くの?」
「ちょっと顔を洗ってくるよ」
恭輔はそう応えながら、洗った顔を拭く物がないな、と思った。そこで、茉莉子と交代して一旦自宅に戻り、必要な物を取って来ることにした。昨日足止めされた受付を過ぎ、建物の外に出た。携帯電話の電源を入れてそれを懐中に収めると、車に乗り込み、国道十四号線を目指した。
二時間程で恭輔は病院に戻った。
所定の駐車場に車を入れ、携帯電話の電源を切って診療棟に入った。自動扉が開くと、宏則の義姉サヨと茉莉子が長椅子に座っているのが目に入った。茉莉子は、今朝自宅に戻った際、本家と里方に今の宏則のことを連絡したのである。サヨは本家の嫁で、ちょうど二ヶ月前に宏則の実兄でもある夫を亡くしたばかりだった。
「ついこの前、告別式で親戚代表の挨拶をしてもらったのに、こんなことになって……」
サヨの言葉に、恭輔は葬儀場で参列者を前にマイクを持った宏則の姿が目に浮かんだ。
「じゃあ、大変だろうけれど……自分達が身体を壊したら何にもならないから。――気をつけなよ」
サヨは噛み締めるようにそう言って一人で出て行った。彼女は恭輔が戻って来るのを待っていたのだった。この場を茉莉子一人にしないために。……
恭輔はサヨの後姿を思い出していた。
「伯母さんも一人で大変だよね」
「でも、あそこは息子達がよく家に集まってるみたいだし、孫達にも囲まれているから、寂しくはないんじゃない?お金にも困らないだろうし……」
「確かに皆、近くに住んでるしね」
恭輔は茉莉子の言葉に下世話さを感じると共に、やや自虐的な気分になった。
「伯母さんは中に入ったの?」
「うん、父さんを見て驚いてたよ。声は掛けてくれたけれど……」
恭輔は、茉莉子に今朝の宏則の話をした。――
「本当?さっき伯母さんと一緒に声を掛けた時は全然、……」
無理もない――実際にその場に居合わせていない茉莉子の半信半疑な表情に、恭輔はそれ以上の話はしなかった。
恭輔は仮眠室で昼間の演習冊子の続きを始めた。
少し前まで目を閉じていた茉莉子がそれに気づくと、徐に身を乗り出して冊子を覗き込んだ。
「何かいやらしい選択肢だね」
そこには、ア.1個、イ.2個、ウ.3個、……というように、設問に挙げられた五つの記述のうち、内容の誤っているものの個数を答えさせる問題が載っていた。
「ああ、これね。受験生の間じゃ個数問題っていって、正答率が低いんだよ。これが多いと平均点が下がる――」
「だろうね、……でも、こんな所で頭に入るの?」
「やれる時にやっておかないと、どんどん溜まっちゃうから」
恭輔が突き放すように言うと、茉莉子は再び目を閉じた。最後の問題まで解き終えると、鞄から別の冊子を取り出し、全二十問の答え合わせをひと通り済ませてから解説を読み始めた。が、いつの間にか、昼間サヨの言った告別式のことを思い出していた。――(つづく)
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