第3話 仮眠室
恭輔はしばらくの間、勤め先の方は休暇を取って付き添いに専念することにした。一手に引き受けている仕事は少なくなかったが、悔いを残さないために何を優先すべきか、今の彼には明らかだった。連絡を受けた金子は、恭輔の意向を快く受け容れたが、それ以上に彼の身体を気遣ったのだった。
その晩、恭輔は茉莉子とこの病院の仮眠室に泊まった。治療室に向かって通路の左側に出入口のあるこの部屋は、仮眠室と言っても、寝具が用意されている訳ではない。畳三枚が黄ばんだクロスの壁に囲われているだけの待機部屋である。しかも、入って右の奥まった一角は、剥き出しの白壁が寒々しい空気を漂わせていた。二人がその部屋に入った時は先に男性一人が泊まっていたが、いつの間にか、人もいなければ、荷物もすっかりなくなっていた。――
姉弟だけで顔を合わせるのは久しぶりだったにもかかわらず、茉莉子の家族の近況や恭輔の勤め先のことが話題になったくらいで、茉莉子がコンビニエンスストアで買って来たおにぎりを食べた後は、無為に時間が流れた。
眠ろうにも眠れないでいた午前一時頃、二人は近づいて来る救急車のサイレンの音に耳を澄ました。音は徐々に大きくなり、間近に聞こえるや否や、鳴り止んだ。それからしばらくすると、部屋の前の通路が騒がしくなった。救急の患者が運び込まれて来たのである。通路を走る救急隊員や担架を載せた台車の通過していく様子が仮眠室から垣間見えた。
急患の付き添いと思われる女性が一人、看護師に案内されて仮眠室に入って来た。彼女は靴を脱ぐと、俯いたまま部屋の左隅に腰を下ろした。
それから三十分程して、担架を載せた台車が治療室から出て来た。部屋に入ってからずっと俯いていた女性は、靴を突っ掛けたまま急いで通路に出て行った。担架の上の男性は、右足を吊られていたが、女性からの問い掛けにはしっかり反応しているようだった。自動扉が開くと、彼らは別棟の病室に移って行った。
茉莉子と恭輔はその晩一睡もできなかった。
五人家族の茉莉子は、ひとまず家に戻らなければならない。二人は通路に出て治療室に入ると、宏則のベッドに向かった。――酸素吸入器が外されている以外は、昨日と特に変わった様子はなかった。
「また来るからね」
茉莉子は宏則に声を掛けると、治療室を出て行った。
その場に残った恭輔は、ベッドに身を乗り出し、宏則の顔を見つめながら喉に力を込めた。
「父さん、朝だよ。父さん、恭輔だよ、聞こえる?父さん……」
何度も何度も、普段は淡白な顔を見せている彼にしては、しつこいくらいに繰り返した。
するとその時、宏則に微かな変化が起こった。恭輔は目を見張った。ほんの僅かながら、宏則の瞼が動いたのである。
「恭輔だよ、ここにいるよ、……」さらに力を込めた。
宏則の瞼は確かに、恭輔の声に反応していた。必死に目を開けようとするが、上瞼が下瞼から離れた瞬間に力尽きてまた閉じてしまう、恭輔の目にはそう映った。全身に生きる力がみなぎってくるのを感じた。
この力を親父に吹き込めれば、――恭輔は本気で思った。(つづく)
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