第2話 無力
職場から地下鉄で一駅の目白台に部屋を借りている恭輔は、今後の移動のことなどを考えて、一旦自宅に戻り、自分の車で病院に向かった。目白通りと靖国通りの渋滞に遭っても一時間もあれば到着するところ、江東橋と江東区とを混同してしまい、結局、倍近くの時間を掛けてしまった。院内の敷地に車を乗り捨てると、救命センターのある診療棟へ急いだ。
「今日、救急で運ばれた緋浦宏則の家族です」
受付でそう告げて中に入ろうとすると、記名や健康状態の告知、入棟証の発行などで足を止められた。この数日間、恭輔は三十八度台の熱が続いて――それでも解熱剤の服用である程度抑えている状態だったが、この場では嘘の告知をする外はなかった。ようやく煩わしい手続から解放された彼は、自動扉が人ひとり通れる程に開くまでの間を何十分にも感じた。
身を斜にして中に入った。通路の先に集中治療室の扉が目に入るのと同時に、右手に置かれた長椅子から立ち上がる茉莉子の姿を認めた。
「随分遅かったね」茉莉子は恭輔に走り寄った。
「ああ、道が混んでいて……」
「車で来たんだ?」
恭輔はそんなことより宏則の容体を早く教えろという顔をした。が、この時茉莉子の見せた目には覚えがあった。――二十一年前の深夜、入院先で慶子が息を引き取った時、高校受験を控えながらも付き添っていた彼女が、駆けつけた恭輔と正義に向けたそれである。
「中に先生がいるから、話を聴いてみる?」
恭輔は姉の言葉に従った。
二人は手洗いと着替えを済ませて看護師に声を掛け、備え付けの記録簿に時刻、本人氏名、患者氏名、続柄を記入した後に入室が許された。
恭輔の到着する前に茉莉子がこの看護師から聴いた話によれば、宏則は、掛かり付けの城東森下病院の近くの駐輪場で倒れ、そこの管理人から午後十二時五十分に一一九番通報を受けた、ということだった。火曜日の今日は人工透析を受ける日であり、自転車で通院していた宏則は、通報時刻からしてその帰りに倒れたのは間違いなかった。
茉莉子は担当医に恭輔を紹介した。
「木村」のネームプレートを白衣の左胸に付けた男性は、こうした場面を心得ているようで、何の前置きもなく、恐らく茉莉子に対して既に行ったのであろう説明を恭輔に対しても始めた。
「救急隊員が到着した時は心停止の状態で……」
こう切り出した彼の説明は意外にも短いものだった。早く患者本人に会わせるための配慮なのだろう。恭輔は、宏則に意識はなく非常に危険な状態であること、仮に意識が戻ったとしても、心停止の後遺症で所謂植物人間となる可能性が高いことを認識させられ、宏則のベッドに案内された。
酸素吸入器を口に当てられた彼の身体は、何本かの管が通され、幾つかの計測器に囲まれていた。ベッドの脇に無造作に置かれた紙袋には、救急隊員によって裂かれた彼の衣服が覗いている。患者としての両親を何度も経験している恭輔にとって、驚く光景ではない。しかし、ベッドに横たわる宏則の姿と木村の言った「植物人間」のイメージとがオーバーラップして彼の頭をもたげ出していた。
一体、今の自分に何ができる?――そう思うと、恭輔は無力感に苛まれた。
すると、木村がまるでタイミングを計ったかのように二人に言った。
「お子さん達お二人で、できるだけ声を掛けてあげてください。反応はなくてもご本人の耳にはとどいていますから」
木村は、恭輔がベッドの手すりを掴んで身を乗り出すのを見て、その場を外した。(つづく)
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