ノブのない扉(ドロウ・ザ・ライン 第3章)
one minute life
第1話 携帯電話
秋の連休明けの昼下がり、恭輔は職場の会議の席上にいた。
「経営執行会議」と称するこの会議は、会社の事業上の重要事項について審議するため、毎月二回、全役員と経営管理部所属の管理職数名を招集する。
同部の管理職補佐である恭輔は、そもそもこの会議のメンバーではなかったが、先月、自己都合で退職した元メンバーの管理職を一時的に引き継いだのである。あまりに急な退職だったために、補充人員の手当てもなく、恭輔は数日前、上司の金子から相談を持ち掛けられた。
「緋浦さんの外に頼める人もいないし、できれば……」
恭輔は一年半前に親会社から法務全般を担当職務としてこの会社に出向を命ぜられた。実際にはIT分野の管理業務や総務もこなしている。従業員百名程度の子会社は、業績こそ順調に伸ばしていたものの、内部管理の業務には課題を抱え、適当な人材も不足していた。そんな状況にある恭輔を知る金子の依頼は、常務取締役のそれとは思えない程、遠慮がちなものだった。
三十四歳、自ら志願してこの会社に来た恭輔は、これを快諾した。
この日、恭輔は遅い時刻の帰宅を覚悟していた。午後一時に始まるこの会議の終了は、決まって午後八時を過ぎる。役員連中が、ああでもない、こうでもない、と脈絡のない議論を繰り広げ、結局、どの議題についても何ら意思決定されず、徒に検討事項を山積みにしていく。しかも、恭輔はその議論の内容を記録しなければならない。会議終了後、議事録を作成して会議メンバーに配布するのも彼の仕事である。
例によって最初の議題で既に一時間が経過した頃だった。メモ帳にペンを走らせる恭輔の懐中で携帯電話が震えた。右手にペンを持ったまま、会議机の下で開いた液晶ディスプレイには、茉莉子の名字である「大野」が表示されていた。彼女が電話してくることなど滅多にない。それに平日のこんな時刻――仕事中なのを分かっていてのことである。
休憩時間にでも折り返すか……
そう思ってディスプレイを閉じようとした時、表示が「伝言メモ録音中」に変わった。――五年前のことが恭輔の脳裏をかすめた。録音が終了するのを待って、会議机に背を向け、左の頬と肩で端末を隠して伝言を聴いた。
「お父さんが倒れて江東橋の墨田川病院に運ばれました。救命センターにいます」
百貨店のアナウンスを思わせる茉莉子の声だった。
来年六十五歳を迎える父親の宏則は腎臓を患い、二十年前に始めた週一度の人工透析は今では週三度必要となっていた。通院で一度につき四、五時間を要するこの血液透析は、長年続けるうちに心臓への負担が大きくなる。五年前、彼が透析中に不整脈を起こして意識を失った時、冠動脈を内側から広げるためのステント治療が施され、一応の成功を見たものの、石灰化が進行した彼の冠動脈にはかなりの危険を伴う処置だった。
「もう、次はないと思ってください」――その時の執刀医の言葉である。
それ以来、恭輔は元々電話嫌いだったにもかかわらず、携帯電話を肌身離さず持ち歩くようにしていたのだった。
恭輔は隣の席の金子に事情を耳打ちし、会議室を後にした。(つづく)
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