第7話
深更、薄月夜。
とある貴人の屋敷──
さやさやと風が鳴っている。
やがて、風とは違う、幽(かそけ)き音が混じった。
衣擦(きぬず)れの音……忍びやかに裸足で縁を渡る音……
寝所と思しき東の対屋(たいのや)の蔀(しとみ)は開いていた。
風を入れるためか、唐戸もまた、細く開いている。
その僅かな隙間から滑り込んだ影には三本の角(つの)があった。
几帳(きちょう)の影、絹の夜具に包くるまれて眠っているのは美しい貴人。
室内に灯はないが、薄い月のおかげで烏帽子(えぼし)をつけた麗しい輪郭は見て取れた。
鬼は蹶然(けつぜん)と刃を振り上げるや、夜具の上から、貴人の腹に突き立てた……!
くぐもった鈍い音が奔る。
同時に、光が飛び込んで来た──
「見たか、成澄(なりずみ)! これが鬼の正体ぞっ!」
手燭を掲げているのは双子の田楽師の兄、狂乱(きょうらん)丸。
その背後に立つ、検非遺使(けびいし)、中原成澄(なかはらなりずみ)。
流石に今日は日頃の蛮絵装束ではなく、香染めの狩衣(かりぎぬ)に二藍(ふたあい)の指貫(さしぬき)というくだけた格好だったが。
鬼の顔が引き攣った。
「成澄? 馬鹿な──」
今経っても小刀で貫いた夜具の方を振り返る。
と、その夜具を払ってむっくり起き上がったのは田楽師、弟の方。頭には常にはない烏帽子が乗っていた。
「ヒヤー、危ないところだった! この役、流石にヒヤリとしたぞ?」
懐より引っ張り出した丸めた茵(しとね)には小刀が刺さっている。
「これが〈鬼〉のやり口だ。懇(ねんご)ろになった男の屋敷を、深夜訪れ、寝入っているその腹を突いてから、存分に蹴り殺すのよ。そうだな、十六夜(いざよい)姫?」
狂乱丸は改めて、手燭で姫を赤赤と照らした。
「──」
呆然として言葉も出ない検非違使。
だが、眼前にいるのは紛れもない、あの十六夜姫である。
濃紅の小袿(こうちぎ)の下は、やはり今夜も生絹(すずし)の単(ひとえ)に紅袴──
この装束は別名〈裸姿〉と呼ばれるだけあって桃色の乳首が透けて見えるほどだ。
そうして、頭には三本の角……
顔が常のまま愛くるしいだけに、一層見る者の肌を泡立たせた。
成澄は姫から目を逸らすと、掠れた声で田楽師兄弟に質した。
「おまえたちは何故……姫だとわかった?」
「まずは匂いから」
狂乱丸は言う。
「俺の鼻は人より利(き)く。先刻、藤原顕方(ふじわらあきかた)様の寝所に入ってすぐ、俺は独特の匂いを嗅いだ。貴人の屋敷特有の伽羅(きゃら)や練り香などとは全く違う匂いだった。
帰り道、通った東の市(いち)でもそれと同じ匂いを嗅いだ。その際は、直前に殺人者がそこを通ったせいかと思ったが──」
いったん言葉を切って、首を振る狂乱丸。
「違った。いや、〝同種の匂い〟という意味なら当たっていたのだが。
つまり、その匂いとは……〈飴〉だったのさ!
飴屋が飴を煮る匂いが市の中を風に乗って漂っていたのだ!」
吃驚して成澄は聞き返した。
「まさか? 日頃から飴が好物だという姫の──その残り香だとでも?」
「いや、残り香なんて、そんな半端なものじゃない」
狂乱丸は十六夜姫の頭を指差した。
「見ろ! 姫はご自分の髪を角に塗り固めるのに飴をお使いになっておられるさ!」
「!」
「それだけではない」
今度進み出たのは、双子の弟、婆沙(ばさら)丸。
「姫様、御身の内に隠し持っていらっしゃる花をお見せ下さい。そこにあるのは全て噛み跡のある花のはず」
姫の袂(たもと)に手を伸ばし素早く抜き取る。
パッと一面に花が舞った。
「成澄、よく見ろ。これは食いちぎったのではない。元々この花はこうなのだ。
俺と兄者は姫の屋敷の庭で、この花の咲く木を見つけたぞ!」
「サンショウバラと言うのさ」
いつからそこにいたものやら。
薄汚れた白装束。肩にはこれまた〝お揃い〟の白い|烏(カラス)まで止まらせて、橋下(はしした)の陰陽師の登場である。無位無冠、巷の陰陽師・|有雪(ありゆき)とはこの男のこと。いつの頃からかちゃっかり田楽屋敷に寄宿している。一見貴公子然としていて、博識が売りなのだがどこか胡散臭い。
その陰陽師が、厳かに説明し始めた。
「このサンショウバラ、元々は唐土の産なり。実は食用に、根は生薬になる。向こうでは〈刺梨〉とも書くそうだ。花びらの一部が欠けるのは持って生まれた性質だと。さても、珍しいことよ!」
陰陽師は足下の一つをつまみ上げてつくづくと見入った。
「ふむ? 我が国では東国に自生すると聞いたことがあるが──京師(みやこ)にもあったとはなあ!」
「都にはない。父が東国から持ってきた花なれば……」
三本角の花喰い鬼がとうとう口を開いた。
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