第8話
「我が父なる人は東国の生まれ。院に仕えていた北面と聞く。尤も──私が父について知っているのはそれだけじゃ」
※北面=警備の武士。院の御所の北面に詰め所があったのでそう呼ばれる。
顔も知らぬ、と十六夜(いざよい)姫は笑った。
「……その昔、坂東の地から上って来た若武者があった。恋に堕ちた都のやんごとない姫に愛の証として、故郷より携えてきた花苗を贈った。若い恋人達は二人して手ずから庭に植えて、根付くのを心から祈ったそうな。さても、花は無事根付いたが、皮肉なものよ。若武者の愛の方が早くに枯れ果てたと見える」
京師(みやこ)には百花繚乱、目を惑わす美しい姫たちがいる。
心変わりした若武者の足は遠のき、遂に、再び姫の屋敷を訪れることはなかった。
一方、恋人に捨てられたことを当の姫は最後まで信じようとはしなかった。
「物心ついて後、私が父のことを問うたびに母様は言ったものじゃ。凛々しい父君に懸想した鬼が奪って行ったのだ、と」
── 鬼などいるのか、母様?
── いるとも。その証拠に、
ほら、お庭の花をご覧。皆、食い破られておるぞ。
この花は父君が私に下さった花。
それ故、私ばかり愛しがるのを憎いと言って、
嫉妬に狂った鬼めが、花が咲くたびやって来て、これ、この通り……
夜の内にすべて喰い荒らすのじゃ。
── 怖い……母様……
── おお、怖いとも!
父君はある夜、その鬼を成敗すると言って追って行かれた。
そして、それきりお戻りにならない。
きっと、囚えられてしまったのじゃ。
父君を奪い取ってもまだ鬼は気がすまないと見える。
今でも、この木が花をつけるとやって来て、
喰いちぎっていくものなあ?
本当に、この世に鬼ほど恐ろしいものはないぞ。
十六夜や、おまえも鬼には充分気をお付け。
── はい、母様……
「私が母様の言葉に本気で頷いたのは十かそこらまでじゃ。それでも、母様が死ぬまで、この話を聞くたびに頷き続けたのは、あんまり哀れに思えたから──」
本当はとっくに鬼などいないと気づいていた、と姫は哂った。
「鬼などは絵空事。物語の中だけじゃ。父に捨てられた母が自分の怨みや悲しみを紛らわすために思いついた嘘に過ぎぬ」
姫は目を伏せて、足下の、自分が庭から摘んで来た花たちを眺めやった。
再び、昂然と白い顎を上げると言った。
「私が本当に鬼がいる、と知ったのは、今年になってから……初めて、男(おのこ)に恋してから……」
あんなにもお優しかった源匡房(みなもとまさふさ)様がフッツリと来なくなった。
他の姫に心を移したのだと風の噂で知った。
「その時、私は鬼がこの世にいることを知ったのじゃ。何処に? 私の内に……私の中に……私こそ鬼じゃ!」
姫は握った小さな拳を透けて見える胸の上に置いた。
「この愛しさ……憎しみ……愛物の血肉以外では宥(なだめ)られない……!」
「十六夜姫──」
「鬼となった私は、今生無二の匡房様を蹴り殺してやった!」
見開かれた姫の瞳は皓皓として、凍った月のように煌いている。
「あんな気持ちの良いことはなかったぞ! 匡房様は血も肉も、骨まで、私のものじゃ!」
「な、ならば、せめて──」
狂乱(きょうらん)丸が乾いた声で質した。
「〝それ〟で良かったではないか! 何故、〝そこ〟で終わりにしなかった?」
婆沙(ばさら)丸も、いったん唾を飲み込んでから、兄の言葉を継いだ。
「その通りだ。姫、あなたは〝他に三人も〟襲っている。今日だって、こうして──成澄(なりずみ)の屋敷にやった来た」
「田楽師が馬鹿なことを聞くわ」
蔑んだように貴人の姫は言う。
「一度〈鬼〉になったら二度と〈人〉には戻れぬ。そんなこともわからぬか?」
唇から薄桃色の舌を零して鬼は舌舐りをした。
「あの心地良さが忘れられない。美しい男の腹を裂き、柔らかな肉の上で踊り、熱い血で足を濯ぐ……匡房様以外の男に恨みなどないわ。ただ、欲しただけじゃ。鬼になった私の心と体が」
きっぱりと十六夜姫は言い切った。
「ああ! もはや私は身も心も……あの味なしにはおさまらぬ……!」
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