第6話


 狂乱(きょうらん)丸と婆沙(ばさら)丸はいったん屋敷へ戻って、田楽舞いの装束に着替え、それぞれ得意の楽器を携えると、成澄(なりずみ)に乞われるまま十六夜(いざよい)姫の屋敷へ赴いた。

 昨日の今日、引き続いての検非遺使(けびいし)の来訪に乳母(めのと)の稲目(いなめ)は狼狽(うろたえ)るばかり。

「いきなりでは大したお持て成しも出来かねます。何卒(なにとぞ)、日を改めてお越しください」

 簀子(すのこ)に指を突いて訴える乳母を弾き飛ばす勢いで、成澄はズンズン奥へ入って行く。

「何の! 持て成しなど不要! 気を遣われるな、乳母殿。これは姫との約束じゃ! おーい、十六夜姫……? 噂の田楽師を連れて来たぞ! 当代一の田楽を御覧ぜよ!」


 〈花喰い鬼〉騒ぎで遠ざかっていた田楽を久々に舞い歌うせいもあって、成澄は大いに乗っていた。笛の音もいつもより冴え渡っている。

 片や、狂乱丸は歌も編木子(びんざさら)も湿りがちである。

 十六夜姫は、成澄が恋したほどのことはあった。

 美しいばかりでなくて、その大胆さに兄弟も正直、驚かされた。

 いかに零落したとはいえ、貴人の姫が、御簾(みす)を下ろすでもなく几帳(きちょう)を引き回すでもなく、直(じ)かに田楽に興じたのだ。

 しかも、生絹(すずし)の単(ひとえ)に紅袴(べにばかま)という姿。

 流石に夏虫色の袿(うちぎ)を肩に掛けているものの貴人の姫としては、これは考えられない〝薄着〟である。

「なるほど! こりゃ成澄がイカレるはずだ! なあ? あの姫ときたら──いかにも成澄好みじゃないか!」

 鼓を打ちつつ婆沙丸は感嘆の声を漏らした。

 兄は気のない返事を返す。

「そうか?」

「だって、ほら! 成澄は気取り屋や体裁家……七面倒臭い輩(やから)が大嫌いだろ? その点、あの姫を見ろよ。モノに拘らない大らかさと言うか、貴人の姫らしからぬ突き抜けたところがある。

 いや、全く、〈十六夜姫〉とはよく名付けたものだ! かの夜の月の如く、待って待って、待ち焦がれるだけの価値はある。完璧だよ!」

「そうかな?」

 狂乱丸はそっと呟いた。

(そうかな? 完璧だと?)

 弟は手放しで誉めそやすが、俺にはそうは思えない。

 だって、〈完璧〉どころか、あの姫には〈欠けた処〉があるもの。

 おや? そういう意味じゃあ〈十六夜姫〉はまさにピッタリな名だぞ?

 狂乱丸はこっそりと北叟笑(ほくそえ)んだ。

 十六夜は、十五夜とは違う。

 既に欠け始めているから。

 月の欠けた処とは、翳(かげ)だ。暗い穴、穿たれた深淵……


 十六夜姫は、その身に翳りを有している。


 そのことに誰も気がつかないとは不思議だ。

 俺は日頃から冷徹と言われる性分だから? 〝それ〟が見えるのか? それとも──

 狂乱丸は籣笠(らんがさ)の陰でキリリと唇を噛んだ。

 これは弟の言う通り〝悋気(りんき)〟なのか?

 田楽狂いの良き仲間、成澄を姫に盗られて口惜しいのか?

 だとしたら──

  姫の纏っている翳りとやらを、今の自分もまた、纏っているに違いない。

  田楽を舞いながら狂乱丸がそんなことを考えていると、一瞬、十六夜姫と目が合った。

「──……」

 薄らと微笑む十六夜姫。

 片膝を立てて田楽を眺めているその瞳の奥に、今度こそはっきりと狂乱丸は深淵を見て取った。

「!」

 あの翳の正体が哀しみや憎しみなら──

 狂乱丸は身震いした。

 深淵(あれ)は、それを覚えた人間にしか察知できないのかも知れない。

 豪放な成澄や単純明朗な弟には金輪際見えない類のものなのかもな?






「何処へ行く? おい、兄者、待てったら……」

 弟は、漸く庭の端で兄の袖を捕まえた。

「成澄も呼んでいるぞ。ほら、せっかく乳母殿が狂奔して用意してくれた膳に着こうではないか?」

「約束したのは田楽だけじゃ。舞い終わった後は、俺は帰る」

 毒気を抜かれた検非遺使をこれ以上見るのはうんざりだ。

 そのまま庭を突っ切って去ろうとする狂乱丸だった。

「あ!」

 追おうとして、次の瞬間、婆沙丸の足が止まった。

「何と珍しい! 見てみろ、狂乱丸! あそこ……山椒(さんしょ)に花が咲いているぞ!」

「まさか──」

 見ると、ちょうど西の門の手前、籬(まがき)に沿って低木が繁っている。それが、今、花盛りだ。

「馬鹿、あれはイバラだ。花を見ればわかる」

「いや、山椒だよ、あの葉の形!」

 田楽の先代師匠・犬王に五つの歳に買い取られたこの兄弟は、元々は山国育ちである。

 両親の顔は忘れたが遊び回った野山の風景は不思議と眼裡に刻まれていて、樹木のことには詳しかった。

「それじゃあ、どっちが正しいか確かめてみよう」

 傍に近づいてみて、すぐに狂乱丸が勝ち誇って叫んだ。

「見ろ! 俺の言う通り──これはイバラじゃ!」

「確かにな」

 婆沙丸も渋々納得した。

「葉は山椒に似ているが、山椒ではないな。ふうん? それにしても変わったイバラじゃ。こんなのは初めて──」

 そこまで言って婆沙丸は言葉を切った。口を引き結び兄を振り返る。

 ほとんど同時に兄も目を花から弟へ転じた。

「おい、これは──」



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