第5話
「なあ、兄者? 少し休もう……」
婆沙(ばさら)丸はとうとう音を上げた。
京師(みやこ)は東の市(いち)。
先刻より右往左往して駆け回っているの田楽師兄弟だった。
昨日、狂乱(きょうらん)丸は〈花喰い鬼〉に蹴り殺された貴人の寝所に篭っていたのと同じ匂いを市で嗅いだ。それで、どうしてもその匂いの出処を突き止めたいと、今日は朝から繰り出して来たのだ。
兄に付き合ってついて来たはいいが婆沙丸の方は流石に疲れ果ててしまった。
しかし、弟の哀訴の声など一向に耳に入らぬ体(てい)の兄。
「こっちも違う。だめだな? 一瞬にせよ、昨日はあんなに鮮明だったのに……」
市の内にいればいるほど却って匂いがわからなくなってしまったと零すこと頻りである。
確かに、市は雑多な匂いに満ちている。
魚や貝、猪に兎、雉の肉。煮物や惣菜もあれば、豆、栗、胡桃に雑穀。昆布に若布などの海藻類。まだ露に濡れた瑞々しい葉物、土のついた根菜、山椒の束や、ただ美しいだけの花もある。
果ては、団子に餅、得体の知れない揚げ物……
そのどれもが其々の香りを漂わせているのだ。散々っぱら連れ回されて、婆沙丸は今や胃袋を擽(くすぐ)る美味そうな匂いにばかり吸い寄せられる。
「兄者の言うのも尤もだ。それは、つまり、匂いを嗅ぎ過ぎて自慢の鼻が麻痺してしまったのさ。ここはいったん休んで、だな、気分を変えたほうが良いぞ」
「うむ?」
渋る兄を引っ張って弟が飛び込んだのは都で人気の飴屋だった。
「おい、婆沙丸、この匂いは──」
「ああ、ウットリするだろ? ここの飴は絶品と評判だぞ。何でも幽霊さえ買いに来るとか。だが、今日は俺はこれじゃ!」
糖蜜をたらりとかけた餅を選んだ婆沙丸。と、そこへ意外な人物が入って来た。
「主(あるじ)! 水飴をくれ!」
「これはこれは検非違使(けびいし)様! ご贔屓のほどありがとうございます」
「あれ、成澄(なりずみ)?」
「おう、婆沙? 狂乱丸も?」
「ひょんな所で会うな?」
狂乱丸の目が鋭く光った。
「成澄の酒好きは大いに承知しているが……よもや、甘党とは今の今まで知らなんだ」
実際、強装束の検非違使が、太刀を振り弓を引くその手に水飴の壺を捧げ盛っている姿は何とも滑稽極まる。当の成澄は空いた方の手を烏帽子(えぼし)にやって、
「い、いや、こ、こ、これは、俺のではない。その、ほら、土産、土産じゃ」
この男がこういう仕草をするのは、悩んでいる時か困った時だということを田楽師兄弟はとうの昔に知っていた。
「いやあ! それにしても、会えてよかった! どの道、これから田楽屋敷へ寄るつもりだったからな!」
飴屋の店先で、昨夜の十六夜(いざよい)姫とのあらましを洗い浚い白状してしまった成澄だった。
「ふん、わざわざその新しい女の話を惚気(のろけ)にかよ?」
「まあまあ、兄者。そう成澄を苛(いじめ)るなよ。成澄だって天下の検非違使だぞ。田楽ばかりでなくて浮いた話の一つや二つあって当然だ」
餅を頬張りながら兄を宥(なだ)める婆沙丸。
「しかし、してみると今回に限っては橋下(はしした)の陰陽師の卜占(ぼくせん)が当たったってわけだ! 『成澄は恋に堕ちる』か? それにしても──」
笑いを噛み殺す弟を兄は横目で睨んで、
「何が可笑しい、婆沙丸?」
「いや、いかにも成澄らしいと思ってさ。だって、懇(ねんご)ろになった女に贈るのが水飴とはな! 普通は歌とか花とか絹とかだろう?」
「これは痛い!」
またしても検非違使は烏帽子に手をやった。
「後朝(きぬぎぬ)の朝、目を醒ますと、姫の屋敷中、何やら甘い匂いが立ち込めている。帰り際、乳母(めのと)殿にそっと訊くと、姫は無類の飴好きだとか。他の物は切り詰めても飴を切らすことはないそうで、鍋で飴を煮るのが乳母殿の日課だと。そんなにして作ってもすぐなくなると零しておった。そういうわけで、とりあえず今日は俺も……」 ※後朝の朝=男女が共寝をした翌朝
狂乱丸は鼻を鳴らして歩き出している。
「けっ、この際、おまえ自身を壺に入れて贈ったらどうだ? そんな飴なんぞより遥かに甘いだろうよ。ったく、デレデレしおって」
「兄者、悋気(りんき)はよせと言うに」 ※悋気=ヤキモチ
「あ、待て、狂乱丸!」
成澄も慌てて後を追った。水飴を下げ、愛馬を引っ張りながら双子の背に叫ぶ。
「姫にな、田楽を見せると約束したのだ! 喜べ! 今、都で評判の田楽師、狂乱・婆沙の名を姫も知っておったぞ! 勿論、これから俺と一緒に……行ってくれるだろう?」
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