第4話
十六夜(いざよい)姫の屋敷は、西の京、五条大路にあった。
寝所としている塗篭(ぬりごめ)の夜具に寝かしつけ、踵(きびす)を返して立ち去ろうとする成澄。その指貫(さしぬき)を掴んで引き止めたのは姫だった。
※塗篭=窓のない部屋 ※指貫=袴
「どうか……今暫く、ここに」
薬師が来るまで不安なのだろう。成澄は納得して枕元に腰を下ろした。
ところが、肝心の薬師はおろか、呼びに走らせたという牛飼い童すら一向に戻って来る気配がない。 ※薬師=医者
屋敷の構えは豪壮ではあるが古錆びて、他に人もいないらしく森閑としていた。
厨子(ずし)や衝立障子、几帳(きちょう)に屏風……室内の設いも品が良くはあるが古風過ぎる。
多分、昔はそれなりに名のあるやんごとない家柄だったのだろうな、と成澄は周囲を見回しながら推察した。隆盛していた貴人が時流に乗れず没落するのは、当世珍しいことではない。
(それにしても──)
流石に臥せっている姫の顔ばかり見つめているわけにもいかず成澄は困った。
とはいえ、目を逸らそうとすればするほど成澄の双眸は姫の雪白の肌に引き寄せられてしまう。
それほど十六夜姫は美しかった。
(年の頃は十五、六か? 華奢で小柄だから、立ってもその背は俺の胸にも届くまい……)
そんなことをぼんやり考えていると突然、クスクスと笑う声が夜具の内から響いた。
「稲目(いなめ)は体裁を気にしておるのじゃ」
ガバッと姫が起き上がる。
「でも、私はもう嫌! そういつまでも病人の真似はできぬ!」
「はぁ……?」
検非遺使(けびいし)は腰を抜かしかけた。その昔、竹の間から照り輝く姫を見つけた竹取の翁もかくや。
一方、黒髪を肩に跳ね上げながら姫君は屈託がない。
夜具に潜っていたせいだろう、上気した頬が暁の空のようだった。
「牛飼い童はな、稲目と争うて牛ごと逃げて行ったのじゃ。『これ以上タダ働きは御免だ!』と叫んでおったぞ。往来に置き去りにされた我等は帰るに帰れず──助けてくれそうな優しい御仁が通りかかるのを待っておった」
「ああ、なるほど」
合点がいって漸く成澄も微笑んだ。
乳母の稲目は気位が高くて困る、と十六夜姫は続ける。
「我家が貴人だったのは母の父君──私の祖父の代までじゃ。何でも祖父は受領(ずりょう)を経て雲上人にまで登り詰めたとか。その富裕の祖父も、一人娘だった母もとうに亡い。今更、体裁を繕うても何にもならぬのになあ?」
※受領=諸国の長官
「ご病気でないと知って安心しました。では、私はこれで」
今度こそ立ち去ろうとする成澄。姫のたおやかな腕がまた伸びて、右腕に絡みつく。
「おや? 検非違使様も体裁が大事か? こんな落ちぶれた家の姫など相手にはせぬと?」
「まさか!」
成澄は座り直した。その様子をつくづくと眺めて姫は笑うのだ。
「本当に。『検非遺使は容貌第一』とは聞いていたが……こんなにも美しい男子おのことはなあ!」
円らな瞳に薄い唇。愛くるしい幼顔に反して、十六夜姫が思ったままを口にするのには成澄も驚いた。
だが、その率直さが新緑の風のように胸に爽やかだ。
更に、姫は可愛らしい唇を尖らせると、
「ところで、検非違使様。先刻、抱き取られた際、逞しい腕に厚い胸、それはそれは心地良かったが。でも、唯一不快な部分があったぞ? 固くてゴツゴツしていて痛かった。あれは何?」
これには成澄、思わず吹き出した。
「これは失礼した! その硬い物とは──」
おもむろに実物を取り出して、
「〝これ〟でしょう?」
使庁でも知らぬ者はない。中原成澄(なかはらなりずみ)が肌身離さず懐に入れて持ち歩いている〈朱塗りの笛〉である。
ところが──
十六夜姫はそれを見た途端、キャッと叫んで袖で顔を覆ってしまった。
「あな、恐ろしや!」
面食らって成澄は聞き返す。
「恐ろしい?」
「だって、その上古むかし、村上帝の御代、源博雅(みなもとひろまさ)様は、
〝それ〟で鬼を打ち払ったのでしょう?」
どうやらこの姫君、昔物語が大好きと見える。
笛の名手、源博雅が鬼から琵琶(びわ)を取り戻した話を思い出して成澄ははたと膝を打った。
「アハハハ……! ご安心を。私の笛は武器ではありません。だから、鬼をやっつけたりはしませんよ。私のは──今流行(はや)りの田楽を奏でるのです。お聞かせしましょうか?」
とは言うものの、成澄本人は自分の笛や、それから、ついさっきまではあれほど心ときめくと思っていた鼓や編木子(びんざさら)──田楽の調べなどよりも、眼前の姫の声をこそ、永遠に聞いていたいと思い始めていた。
(こういう感覚はいつ以来だろう?)
そうか? 俺は自分でも気付かなかったが、検非遺使として使庁に勤める殺伐とした日々の中で、内心ずっと、こんな風な……儚くて、優しくて、甘い、柔らかなものを欲していたのだな?
姫の漆黒の髪は帳(とばり)のように成澄の視界を塞いだ。
実際の夜には、まだ幾分間があるというのに。
「──」
朱塗りの笛が指から滑り落ちる。
それが転がって、部屋の隅に置かれていた貝桶にぶつかった時、成澄の指は十六夜姫の項(うなじ)にあった。唇には姫の濡れた唇が。
姫はちっとも抗わなかった──
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