第3話

 検死や家人からの聞き取り、穢が出たことを告げる立札たてふだの設置等々、流石に忙しい成澄(なりずみ)を残して兄弟は先に屋敷を出た。

 いかにも田楽師らしい艶やかな装束、萩模様の濃紫の腕を組んだままずっと黙り込んでいた兄が、弟の、同じ模様ながら色目が違う、これは白と縹(はなだ)色の袂(たもと)に目を止めた。

「婆沙(ばさら)丸、そんなもの、捨てろ」

 弟は亡骸(なきがら)の周囲に落ちていた花をこっそり隠し持っていたのだ。

「でも、証拠の品だぞ? 帰って有雪(ありゆき)にも見せてみよう」

「それはただの花じゃ。何の変哲もない。それより──」

 狂乱(きょうらん)丸は一段声を低めた。

「おまえ、気づかなかったか?」

 兄の問いに弟は眉を寄せた。

「気づくって……何を?」

「〝匂い〟じゃ」

 公達(きんだち)が殺されていた部屋に独特の匂いが篭っていた、と狂乱丸は言う。

「そりゃ、貴人の部屋だもの! 香唐櫃には伽羅(キャラ)の香り。むくごに炊き込めた香の香り。几帳に残るのは誰(た)が袖の香か……なんてね。それこそ色々匂って当然じゃ。おっと、それから、今日ばかりは死臭……血の匂い……」

 そのどれとも違う。全く別の──〝異質の匂い〟がした、と兄は言い張った。

「まあ、兄者がそう言うのなら……」

 弟は頷く。

 鏡のようにそっくりなこの双子、狂乱丸と婆沙丸に違うところがあるとしたら、それこそ、右手小指の赤い指輪の有無と、嗅覚だった。

 子供の頃から兄が匂いに敏感なことを婆沙丸は重々承知していた。

「あ!」

 その兄が突然叫んで足を止める。

「同じ匂いがしたぞ、今!」

「何だと?」

 兄弟は垂髪を揺らして左右を見渡した。

 ちょうど二人は堀川小路を上がって東の市を歩いていたところだ。

「俺にはわからぬが──それは、つまり、市(いち)の匂いか? 市で嗅ぐ匂いということか?」

 婆沙丸は合点がいったとばかり手を叩いた。

「なるほど! それなら貴人の屋敷の中の臭いとしては珍しかろうよ?」

 鬼が市にいても全く不思議はない、と婆沙丸は思った。朱雀大路の果て、羅城門(らじょうもん)はとうに倒れてしまって今はないが。もしあれが残っていたなら、その階上に今回の〈花喰い鬼〉も潜んでいるかも知れないぞ?

 一方、狂乱丸はもどかしげに唇を噛んだ。

「クソッ、どっちだ? 紛れてしまった……」

 行き交う牛車(ぎっしゃ)、軒を連ねた棚店、それでも足らず地面に直接筵(むしろ)を敷いて商品を並べている数多(あまた)の露店……

 今日も東の市は花の賑わいである。

「むむ……風向きが変わったのか? だが、確かに一瞬、貴人の寝所で嗅いだのと〝同じ匂い〟がしたぞ?」





「やれやれ、今日も田楽には縁のない一日だったな?」

 独りごちつつ帰路についた成澄だった。

 いつもながら従者も付けずの一騎駆けで、八条から東洞院に至る。

 四方は既に黄昏に暮れ泥(なず)んでいた。

「ん?」

 ふと駒を止めた。

 辻に、途方に暮れた体で女が一人佇んでいる。

 葡萄染(えびぞめ)の被衣(かづき)姿で、人品卑しからぬどこぞの女房風。

 ※女房=女官・侍女

「どうかしたのか? 何か困り事でも?」

「あ!」

 女は成澄の蛮絵から慌てて目を逸らした。

「い、いえ、検非違使(けびいし)様を煩わせるつもりは毛頭ございません。どうぞ、お行きください」

「?」

 見れば、辻の端にうっそりと牛車が留め置かれている。あえかな女車だが、轅(ながえ)は空のままで牛の姿はなかった。

「御主人に何か仔細あったと見えるが?」

 気さくな身ごなしで成澄は馬を下りた。

「遠慮することはない。私でよければ力になろう」

 女房は袖を振って懸命に押し止めた。

「いえ、その……外出の途上、姫様の具合が悪くなって……それで、薬師を呼びに牛飼い童をやったのですが、これが中々戻って来ず……こうして待っている次第」

「おう! それは心細かろう。私が屋敷までお送りしよう。病人をいつまでもこんな場所に置いておいては良くない」

「そ、それには及びません! どうぞ捨て置きください。ここは私たちだけで大丈夫でございます」

 恐縮する女房を遮って牛車の内より声がした。

「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」

「十六夜姫(いざよいひめ)……」

「ほら! 姫御自身もああ言っているではないか? 女房殿、心配なさるな。俺は鬼ではないから大事の姫を獲って喰いはせぬよ!」

 病とあっては急を要する。

 剛毅で聞こえた成澄、挨拶もそこそこに簾(すだれ)を跳ね上げ、牛車から姫を抱き取った。

 困惑する伴の女とは反対に姫は逆らうことなく屈強な検非違使の腕に躰を預けた。

「おっと……」

 その儚さ、軽さ、が、却って成澄の足を蹌踉(よろめ)かせた。

 紅梅の袿(うちぎ)、紅の打衣(うちぎぬ)。両腕の中に毀(こぼれ)てしまいそうだ。

 成澄は力を抜き、細心の注意を払ってそうっと柔らかく抱き直した。

 甘い香りが鼻腔を擽(くすぐ)る。馬に跨ると叫んだ。

「屋敷はどっちだ? さあ、女房殿、案内しろ!」




 

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