【其の拾八】喧騒のあとの静寂に酔いながら

 翌日の地区大会本番、生徒達は学校から直接バスに乗って会場まで向かった。バスケット部員以外にも、教員を加えて応援のための生徒まで乗り込んだので、バスは満員になってしまっていた。別に電車に乗っても良いのではと八月一日ほずみは思ったのだが、纐纈こうけつがそれだと管理が難しくなるというので、わざわざバスを一台借りてまでの対応だった。しかし確かに安全かもしれないのだが、これだとどこの強豪校かと変に注目されてしまうのではと八月一日は心配した。

 会場に着くと、最初は他と区別がつかないとは言え、見知らぬ学校の集団だったのですぐに八月一日たちは注目の的になってしまった。他校の生徒達は「おい、あれ……」と、遠巻きからも分かるくらいに、こちらを見ながら耳打ちをし合っている。八月一日が生徒達の様子を見ると、やはり彼らにとってそれくらいのことは想定の範囲内だったとはいえ人々の視線に晒される緊張が顔からにじみ出ていた。さらには、地区大会だというのに誰が情報を流したのか、地方紙の新聞社の記者が待ち構えていたのだ。否応なく、彼らの参加が世間の注目を集めているという雰囲気が伝わっていた。

静蘭せいらん中学……聞いた話、去年は県大会のベスト4に入ったらしいですね」

 当日になって初めてトーナメント表を横断幕で見た八月一日が間の抜けた感じ言った。

「八月一日センセー、助詞の使い方が間違ってるよ……」

 そんな八月一日に俊二が呆れたように言った。

「え?」

「去年「は」、じゃなくて去年「も」、だから」

「ああ……。」

 その静蘭中学は選手全ての身長が八月一日よりも高く、中には巨人症のように大きく身長が中学生だというのに190近い者すらいた。蒼海学園の部員達はそんな初めて向き合う対戦相手に戸惑いを隠せず、バスまでの様子が嘘のようで、まさに借りてきた猫状態だった。その様子を察知した八月一日は、試合前に選手たちを円になって並べ、喝を入れようと試みる。しかしいざそうしようにも、ここにいる大人は門外漢の八月一日と橋元しかいなかった。

「え~と、なんというか……。」

 なので八月一日は何を言って良いのかわからなくなってしまった。四万都しまとから今朝にノートを受け継いだが、それは補欠の部員が読むようにしてあるので、八月一日本人にはどうにも言葉が出てこない。だがその時、勝手に追い詰められすぎた八月一日に、窮鼠きゅうその如き開き直りが去来した。

「うん、四万都先生のことなんですが……。」

 八月一日がそう言うと、部員達はやにわにざわめいた。

「……今は予断を許さない状況です」

 橋元が目を見開いて八月一日を見る。

「先天性……ショスタコビッチ心臓血栓という……非常に、難しい病気らしい」

 渚が「そんな……」と呟いた。

「四万都先生は……今朝、病床で僕の手を取ってだね、こう……」

 八月一日はそう言うと自分で自分の手を握った。

「『八月一日先生っ、八月一日先生っ、生徒達ばよろしくお願いしますっ、自分は悔しかです、あんなに部員達が一丸になって、夢に向かって頑張っとるとに、こげん情けなか姿になってしまった自分が、不甲斐なかです。今日の試合絶対に勝ってください、そして、そして私は、私はまたアイツ等と次の試合で、同じコートに立ちたかですっ』って、何度も何度もこう……」

 八月一日は自分で握った自分の手を力強く振り回した。

「僕の手を強く振りながら仰ったんです。『お願いします、絶対に勝ってください。アイツ等と同じコートに立つとが、私の夢なんですっ、その夢があったからこそ、今まで教師としてやってこれたとですっ、八月一日先生、お願いしますっ』って、もう……涙を流しながらね……。」

 驚く程に八月一日の博多弁は板についていた。八月一日はそこまで言うと、急に下を向いて鼻を強くすすり始め、それを見ていた橋元はこの人は深刻な病気なのではないだろうかと心配になった。

 しかし、八月一日の激は効果抜群で、八月一日に釣られるように数人が涙ぐみ、一年の変声期を迎えていない部員は女子のような泣き声を上げていた。 

 顔を上げた八月一日の目はうっすらと赤くなっていた。

「……君達にできる事はなんだろうか?四万都先生の身を案じ、不安におののきながら慎重にプレーすることだろうか?彼我の実力差に打ちひしがれ、境遇を呪いながら敗北を覚悟することだろうか?奇異の目で見られ、はぐれ者としてやさぐれながら絶望に慣れた心で戦うことだろうか?いや、断じて違う。今君達にできるのは、四万都先生の夢を引き継ぐことだ。次の試合、四万都先生と再び同じコートに立つという夢を繋ぐことだ。いつかあの彼も病に負ける時がくるかもしれない。しかし、それは今では絶対にない!君達が勝てば四万都先生は死なない、なぜなら君達が勝てば彼の見果てぬ夢は終わらず、その夢が終わらない限り人は死なないからだ!そう、今は戦うときなのだ!そして君達にはあの屈強な四万都先生の不屈の魂、それが今まさに宿っている、君達はこれから二人分の力を背負って闘うんだ、10対5だぜ?負けるわけがないだろう!」

 八月一日は胸を拳で叩きながら、「魂」というところを強調した。

 部員達はその八月一日の演説によって、瞬間的な高熱にうかれ全員が雄叫びを上げ始める。相手チームはもちろんのこと、バルコニー席で纐纈と段幕を張って応援の準備をする暦達も「何?どうしたの?」と目を凝らしてコートを見たほどだった。

「勝利の日だ!約束の日だ!」

 部員達はもう意味も分からず、拳を掲げて振り回す八月一日に続いてその言葉を絶叫した。

「見果てぬ夢へ!」

 八月一日が手を前に差し出すと、部員達は何も示し合わさずに手を重ねる。

「見果てぬ夢へ!」

「Blowiiiiiiin’The Wiiiiiiiiind!」

 何故か八月一日はボブ・ディランの名曲を叫んだ。

「ウオーーーーーッ!」

 円陣が解かれると、部員のボルテージはMAXになり、完全に野獣のように各々が雄叫びを上げ、俊二に至っては「ウヴォ!ウヴォ!」と歯を剥き出し、完全に形態模写のようになっている。八月一日はその様子を見ながら、「ちょっとやり過ぎたかなぁ……」と心配した。スタメンがポジションについた後、橋元がすれ違いざざまに八月一日を「この……ペテン師」と軽くなじる。

「……何やってんだろうね」

「さぁ、激でも入れてんじゃない?」

 四万都の病状を纐纈から聞いていたこよみ美鳩みくは、遠くからは八月一日が何を言っているのか分からないので冷静に応援の用意をし、段幕を掲げ終え、応援に来てくれた生徒達にメガホンを配った。纐纈はというと、常に何かを用心するようにせわしなく周囲を見渡し、生徒の行動に逐一過剰な心配をしていた。

「すっごいね、ドキドキする」

 試合に出ない美鳩だったが、嬉しそうに足をパタパタさせながら言う。

「初めてだもんね、みんなで学外に出るの」

 暦は遠足気分でカバンからキットカットを取り出し、「はい、美鳩ちゃん」と美鳩に渡す。

「あ、願かけたんだねコヨミン、キットカットできっと勝つぞって」

「偶然だよ」

 二人が狭い応援席でチョコを咥えながらメガホンを拍手替わりにポンポン叩いていると、少し離れた座席から「お~い、お前らそいつらヤバイからな~、ちょーのーりょくに気をつけろよ、ちょ~の~りょく~」と大声を出している男子がいた。下の対戦相手と同じジャージを来ているので恐らく静蘭中学の生徒なのだろう。美鳩は険しい顔をしている暦に気づいたので「やだね、ああいうの。無視しよう?」と、軽く暦の袖を引っ張ったが、暦の表情はすぐに「大丈夫だよ、呆れてるだけ」と落ち着いた笑顔に変わった。

「お、可愛いじゃん?何、君達蒼海学園のコ?」

 しかしそんな二人の隣に他校の男子がドカッと図々しい音を立てて座ってきた。

「ねぇ初めてでしょ?君達が地区大に出るの?」

 恐らく静蘭ではないが選手なのだろう、美鳩に向けた体は非常に大きく、頭も伸びたスポーツ刈りをワックスでところどころ角状に立てている。スポーツ部員特有の妙な自信が溢れているのが初対面でも見て取ることができた。暦はHADを使ってやっても良かったが、纐纈に余計な心配をかけるのと、何よりこんな奴の内面を覗きたくなかったので努めて無視をすることにした。

「君達みたいな普通に可愛い子が超能力とか使えんだね、意外」

 HADを使うまでもなかった。「こんな俺が可愛いって言ってあげてるんだから嬉しいよね?」という安直な考えが、口から唾が飛ぶように顔に飛び散ってきていた。一方の美鳩はというと「う~ん、そう……」と、困ったような笑顔で対応し続けている。

 コイツ、自分の笑顔には好意しか返ってこないと思ってるタイプだ、美鳩ちゃんが困ってるのも実は満更でもない気持ちの裏返しとか絶対思ってる……暦はそうウンザリしながら纐纈を見ると、纐纈は二人の様子を落ち着きのない態度でチラチラ見ていた。……あまり当てにはならないようだ。

「ねぇ君達ってさ、やっぱりスプーンとか曲げちゃうわけ?」

 そう言うと、その男子はスプーンをもって柄をしごくジェスチャーをする。美鳩が苦笑いをしながら「いやぁ」と困っていると、暦が突然「うん、そうなの、なんでも曲げちゃうのっ」と、妙な声色で暦が男子に乗ってきたのたため美鳩は驚いてしまった。

「へぇ~~マジで?」

 暦にコミュニケーションの取っ掛りを見出したのだろう男子生徒は、スイッチのように頭のトゲを軽くいじると自分と暦の間にいる美鳩にわざと接触するように身を乗り出した。

「そうスプーンぐらいなら簡単だよ。……なんならアンタの頚椎けいついも捻ってやろうか?」

「え?」

 暦が指でキュッと人形の首を捻るジェスチャーで返すと、男子は「へぇぇぇすっげぇ……、じゃあもし次の試合とかで当たることがあったらよろしくね……」と言い残し、そそくさとその場を去ってしまった。

「コヨミンだめだよ~、凄い怖がってたよ?」

 だめだよとは言いつつも美鳩も十分な笑顔だった。

「しーらない」

「オイ、どうしたんだ?あの学生に、何か言われたのか?」

 暦の対応からかなり遅れて纐纈が到着した。暦が呆れながら「ナンパされました~」と言うと、纐纈は「そうか、なんぱ……ナンパ?」やはり遅れて反応した。暦はやれやれと冷えた目で纐纈を見た。

 部員達はコートの真ん中で一列になり、相手校と挨拶を交わす。俊二の正面に立った相手校の190はあろうかという選手は「ちいせぇ奴らだな、こんなんでバスケできんのかよ?潰しちまうかも知んないから超能力使っとけよ?」と他に聞こえないように俊二に呟いた。そして昂っていた俊二も挑発的に「こっちこそテメェみてぇにでけぇ奴ONEPIECEでしか見たことねぇよ、その顔面はアレか?ブツブツの実の影響か?だとしたらこっちもHAD使わねぇとそりゃ不利だ」とラッパーのようにリズミカルに体を動かしディスり返した。

 ジャンプボールの直前には、センターラインに渚とその渚と同じくらいの身長の選手が対面していた。

「ちょっと、舐められてんじゃないですか?」

 橋元がタバコを持っていないのにタバコを持っているような仕草で言う。

「え、そうなんですか?」

 八月一日が意外そうに、間の抜けた感じで応えた。

「だってそうでしょ?向こうが本気なら、あのやたらでっかい初号機みたいなやつ出してくるはずですよ?」

「ああ、あのアンドレは実はジャンプできないとかじゃないんですかね?」

「それでもあの巨神兵が手を伸ばせば誰も届きませんよ」

 二人がそうこうやり取りしていると試合開始のホイッスルが鳴る。

 風間渚かざま なぎさはバスケ部で最も高身長というわけではなかったが、それでもジャンプボールで同じ部員に遅れを取ったことは一度もなかった。フィジカル面でも技術面でも他の部員とは頭一つ飛び抜けていて、それは他校の人間と比べても遜色のないものだとどこかで甘い期待を抱いていた。だがその渚が、身長は変わらないにも関わらず、高さもスピードも遥か上を行くジャンプで、いとも簡単にボールを奪われてしまったのだ。その一瞬で、元々器用だった渚は自分と相手の差を測り終えてしまった。時間にすると飛び上がってから着地するまでのまさに一瞬だったが、渚が敗北感を抱くには十分な時間だった。

「なにボケっとしてんだ、戻れ!」

 俊二の喝で渚はいそいで自分を取り戻し自コートに戻ったが、そのチームの要の一瞬の気後れは致命的なロスタイムだった。速攻を仕掛けてきた静蘭中の選手の速さとパスワークに蒼海学園の生徒達は何が起こっているのか分からないまま、いとも簡単にゴールを許してしまったのである。

 開始早々、5秒経過での出来事だった。

「えっと……バスケットってこんなすぐに試合が動くもんなんですか?」

「……ノーコメント」

 さっきまで生徒達に激を入れていたはずの八月一日でさえ、あまりの出来事の速さに熱が冷めてしまった。

 県大会出場の常連校だというのは分かっていたが、ここまで実力差を見せ付けられると流石に引く。だが、当の生徒達を見ると決してそんな事はないようだった。キャプテンの渚は積極的に「ドンマイ!」と周囲に声をかけると、自分自身すぐに気を持ち直し、自コートに戻ると自分達も反撃に出る。

 そうだ、生徒達がめげていないのに自分達が困惑してはいけない。八月一日は腕を組むと険しい表情で、攻撃を仕掛けている部員達に「オラオラオラオラ!」と大声で声援を入れた。

「八月一日さん、激を入れるのとガラが悪いのは違いますよ」

「橋元さんは黙っててください」

 部員達は速攻で仕掛けたかったのだが、パスワークが上手くいかなかった。スリーポイントラインに入ると、相手の硬いディフェンスに簡単に阻まれ何度も同じところをパスで回し、結局ボールを取られまた速攻で点を入れられてしまう。ここに来て、同じメンツとばかりやってきた反応の悪さが露呈していた。

 八月一日は素人目にも分かる欠点を目の当たりにしつつも、生徒達に威厳を持ったポーズを見せるためひたすら腕組みをしながら仁王立ちで立ち続けていた。もう飽きてしまった橋元は、その後ろのベンチで魔法瓶に入れた紅茶を飲んでいる。

 何度も攻撃に失敗する蒼海学園の面々だったが、決して絶望的には点が開かなかったのは龍兵の活躍にあった。途中からバスケ部に入った龍兵だったが、入った時点で部で一番の高身長を誇り(とはいえ渚とは1cmしか変わらないのだが)、さらに抜群のコントロールで龍兵は部内一のスリーポイントシュートの使い手になっていたのだ。四万都はそんな龍兵を見込んで、今から付け焼刃の練習をしても心許ないと、ひたすら特別メニューでの練習をさせていたのだが、ボールの確認等の雑用ばかりをしていた八月一日はそのことを分かっていなかった。実は生徒達が冷静なのは、龍兵を中心にした試合の組み立て方を念頭に置いていたからだった。

 時に囮になり、時に本命のシューターになり、生徒達は一方的な試合といえど何とか形になる試合を見せていた。八月一日は、自分の冒頭の演説が実は余計なことだったのではないかという反省とともに嬉し涙で目尻を濡らしていた。だが、そんな仁王立の八月一日が、ふと相手方の監督の様子がおかしい事に気づいた。どうも不審な様子でこちらを見ているのだ。

 最初はこういうことによくある監督同士のメンチの切り合いだと思っていた八月一日だったが、そうではないらしい。彼らのこちらを訝しむ様子は、何やら龍兵がフリースローやスリーポイントを決める時に特に向けられているようだった。

 まさか……八月一日は絶対にないとは言い切れなかった事態の可能性を憂慮し始めた。それは、相手がこちらがHADを使っているのではないかと勘ぐってくることである。相手にはこちらから生徒のHADの内容を教えてある(ただし教員限定で)上、手を使わず物体を自在に動かすことの出来る龍兵のHADは、解釈によってはスリーポイントを決めるためにはうってつけのものだと考えられてしまう。

 別に教師側が何と言われようがいいが、生徒達にそんな素振りを見せられたならば、彼らはゲームとは違うところで傷心してしまう。こちらから向こうに行ってきちんと釈明をした方がいいのだろうか、八月一日がそう迷っていると、応援席側のヤジが更に不信感を煽った。

「オイ、何かおかしくねーか?ソイツ絶対超能力使ってんだろ?失格にしろよ!」

 それは試合開始前にこちらをヤジっていた、バルコニー席の相手校の男子生徒だった。その声が余計に不穏な空気を蔓延させてしまっていた。

「ちょっとアイツ……」

 暦が席を立って詰め寄ろうとすると、美鳩が「コヨミン、落ち着いて」となだめようとする。

「でも、ひどいよ、みんな正々堂々と頑張ってんのに……。」

「問題起こしちゃダメだって、先生に言われたでしょ?」

 しかしそれでもその生徒は止まらなかった。

「審判ちゃんと見てろよ、絶対使ってるって、そのスリーポイント決めてる奴。卑怯な真似すんなよなっ、施設帰れよっ」

「……美鳩ちゃん、やっぱわたしいってくる」

 美鳩を振り切ってその生徒のところに行こうとした暦だったが、そこで思いもしなかった光景を目の当たりにする。

 あの纐纈が男子生徒の肩を叩き「君、失礼じゃないか」と注意をしたのだ。

「……何だよアンタ?」

「あの学校の教師だよ……。」

「ああ、アンタ、バケモノの親玉?」

 そう言われた瞬間、纐纈は弾けるように叫んでいた。

「だれがバケモノだ!」

 バルコニー席の関係者達はその一喝で応援を忘れ纐纈に注目してしまった。

「特異な個性があればバケモノか?何かができない、何かができ過ぎる、そんなもんはな、誰だって人生で持つものなんだよ。それをバケモノ呼ばわりするならバケモノで結構、それでもこの子達は君らに合わせて必死にやってんだ、私は君の言うバケモノたちを誇りに思ってるよっ」

 男子生徒は纐纈の剣幕に、「いや、あの……。」と、しどろもどろに答えるしかなかった。

 纐纈がその生徒を睨んでいると、いつの間にか暦と美鳩がその傍らに寄り添っていた。美鳩が「もういいよ、先生」と言いながらその腕を取って自分達の席に戻そうとする。纐纈は美鳩達に連れられながら振り返り「彼らはHADを使っていない、絶対にだ!」と付け加えて戻って行った。男子生徒は強がるように「こえー何アレ?」と同じ学校の生徒におどけてみせたが、同校の生徒からも不快そうにそっぽを向かれてしまった。

 纐纈は自席で顔を覆いながら何度も荒く呼吸をして、そんな纐纈の肩を美鳩が「先生、ありがとう」と軽く叩く。暦は今の纐纈に近づくと色んなものが流れ込んでくる事が分かっていたが、それでもそれを受け入れながら隣に佇んでいた。

 幸いか否か、バルコニーの騒がしさはプレー真っ最中の生徒達には聞こえていなかったが、八月一日と相手方の監督には聞こえていてくれていた。相手校の監督は気まずいようになり、もう二度とその不信感を顕にすることはなかった。

 しかしそんな疑惑の払拭の甲斐もなく、最初こそは龍兵を使った戦略で何とか食い下がっていた蒼海学園の面々だったが、流石は強豪校、チャージド・タイム・アウトの時間で作戦を練り直され、後半戦には龍兵が徹底したマークをされ、一方的なワンサイドゲームになってしまっていた。

 そのまま第4ピリオドが終わりゲームは終了した。終わってみれば110対52と二倍以上の点差をつけられての敗北だった。

「次は秋大会で会おう、多分、強くなるよお前ら……」

 終了の挨拶時、190近い男子がそう言うと、俊二は「グランドラインじゃなくて?」と鼻で笑い、そんな俊二の胸をボクシンググローブのような握り拳が軽く小突いた。

 挨拶が終わると、部員達は極度の疲労と脱力感で動けないようだった。閉会式も終わり、試合会場からトボトボと歩く生徒たち、そんな彼らを覆う空はうっすらと暗がり始め、傘がかかった月が微かに見えていた。

 駐車場に停めていたバスの前になんとか集合はできたが、やはり生徒達は終始無言だった。彼らを心配し「よくやったじゃないですか、すごいですよ?相手は県大会の常連校何だから、そんな相手によく食い下がりましたよ。それに、アメフトならそう珍しくない点数差じゃないですか」と、八月一日が最初の勢いとはうって変わって穏やかな様子で励ましても、美鳩が「みんなかっこよかったよ?」と甘い言葉で慰めてもあまり効果がなかった。

「だって、四万都先生が……」

 そう俊二が言った瞬間、八月一日は「あ」と大声を出してしまった。ゲーム開始前の八月一日の話を、生徒たちはしっかりと覚えていたのだ。

「四万都先生がどうかしたのか?」

 纐纈が妙な雰囲気を察し、部員達に聞く。

「いや、あの、纐纈先生……」

 八月一日は挙動不審になりながら助けを求めるような目で橋元を見る。しかし橋元は「しりません」とその視線を突っぱねた。

「四万都先生との約束果たせなかった……」

「約束?」

 八月一日はもうそこから逃げ出したくなっていた。

「四万都先生なら、残った生徒と打ち上げの準備してるぞ?教室でお菓子やらなんやら用意してるから、早く帰らないと」

「え?」

「え?ってどうした?尿管結石だったが、もう四万都先生は退院してる。痛み止めを服用しなければまだきついらしいがな」

「尿管結石?」

「ああ?」

 部員達が八月一日を睨むと、八月一日はそっぽを向いて空を見上げていた。

「……あ、流れ星ですね」

「信じられねぇ、騙しやがったのかよ!」

 俊二を始めとする部員達は疲れを忘れたように、一斉に立ち上がった。

「つーか何だよ、ショスタコビッチなんたらとか初めて聞いたぞ!」

「でしょうね、先生も初めて言いましたから」

「こぉのオッサン……」

「う、うるさい、おっさんとは何ですか、教師に向かって。大体君達が試合前に小動物みたいにビビってたから、それで仕方なくあんな激を飛ばさざるをえなかったんですよ?何ですか、普段はあんなに威勢のいいくせに」

 立ち上がりはしたが、すぐに部員達はへたり込み「何だよそれ~」と再び力が抜けたようだった。纐纈や暦達は、その様子から大体の八月一日がやらかしたことを理解した。

 バスに全員が乗り込んだことを確認し、纐纈が咳払いをして何かを話そうとするが、応援席での出来事をしっかりと覚えている生徒達は「先生お疲れ~」「かっこよかったよ~」と纐纈に茶々を入れ始める。

「うるさいなぁ」

 そして何より纐纈もまんざらではないようだった。

「ええっとな、今日はお疲れ。何事もなかったのが何よりだと思う……」

「何事か起こしてたのは誰ですか~?」

 すかさず美鳩がまた茶々を入れる。

「だからやめろって。うん、まあ、ああいうことがあったらだな、何か対応するのはお前達じゃなくて、私達教師の仕事なので、そういうことで引き続き無茶はしないように、な?」

 浮かれている生徒達はバラバラに「は~い」とふざけたように返事をし、やはり纐纈も「まったく……」と、半笑いのままで「じゃあ次は八月一日先生から」と次の八月一日に役目を振る。しかし八月一日に対しては、「出た詐欺師」「てめ~の血は何色だぁ?」と、纐纈とは反対に不平不満をぶつけられてしまった。

「しつこいですねぇ……。え~今日の静蘭中学との試合の敗北は、ただ勝利するよりも価値があったと思います」

 八月一日は生徒達が興ざめするくらいに、ごくありきたりで真っ当なことを口にする。しかし……

「と、言いたいところですが………ほんっっきで悔しい!かなり悔しいっ、次は絶対勝ちましょう!」

 八月一日は身をよじりながら悔しがり、生徒達は笑いながら「オオー!」と歓声を上げた。

 学校に帰ると四万都が教室で生徒達の帰りを待っていた。打ち上げのためにお菓子やデリバリーのピザを用意していた四万都だったが、そのピザが冷えていたので橋元からは「普通、こういうの逆算して頼みません?」と文句を言われてしまい、ふざけた俊二からは「先生、死んじゃ嫌っ」と抱きつかれ、「ちょ、なんや前?気持ち悪かな、あんま抱きつくなて、座薬が……出る」と、情けない声を上げながらへっぴり腰で押し倒されてしまった。

 成長期の生徒達は試合の疲れも忘れる食欲で、ひたすら夢中で四万都が用意した食べ物にがっついた。冷えてチーズの硬くなったピザも人肌くらいにぬるくなったコーラも、彼らにとって今まで食べたどんな料理よりも美味に感じられた。

 蒼海学園の生徒達にとって、その日のことは生涯忘れられない出来事になっていた。


 学校にいることが楽しいというのは当たり前なのでしょうか。少なくともあの時のわたし達は、その瞬間を逃げないように、しっかりと抱きしたくなるほどに、それくらいそれが危うく希少なもののように感じていました。それほどまでに、わたし達は自分達も楽しんでいいんだと言うことを知るための、本当に長い回り道を歩いてきたんです。そしてあの瞬間があったからこそ、今でもただ日常に起こる些細な事が、とても愛おしく大事なものだと思えるんです。大人になってHADを失い、結婚をして家族が出来て、そしてその途中にどんな困難なことがあったとしても、それでも目の前の世界が意味を持っているんです。


 バスケットボールの地区大会から数日後、未だ大会の余韻の残る朝の職員室で、教員たちが授業の準備をしている所に橋元が入室してきた。あまり職員室に顔を出さない橋元の登場に、数名の教員の視線が集まる。しかし、橋元はというと、そんなのを意に介せずまっすぐに八月一日の元へ歩いて行く。

「良いニュースと悪いニュースがありますよ?」

 低血圧知らずなのだろうか、橋元は朝だというのに随分とテンションが高い。

「……ハリウッド映画の観過ぎですよ、橋元さん」

 苦笑いする八月一日の机に橋元は地方新聞の朝刊を投げ置いた。投げ置かれた新聞にはある記事折りたたまれ見やすいようになっている。

「……T川にオットセイ出現。一躍住民たちのアイドルに。へぇ、川にオットセイって、迷い込んだんですかねぇ?」

「ボケてます?その下の記事ですよ」

 オットセイの記事の下にはそれよりもやや小さいが「政府特別指定中高一貫校・蒼海学園の挑戦 同校校長・六波羅寛至ろくはら かんじ氏に訊く」という見出しが載っていた。記事の内容は、世論の反発を受けながら、それでもHADの人間を受け入れる社会を作るため、教員たちがいかに粉骨砕身しているかというものだった。記事は大会参加の成功と好意的な専門家の意見と記者の見解で締めくくられている。

「今日の朝刊ですか?私も今朝読みましたよ」

 八月一日の斜向かいに座っている纐纈が言う。

「でもおかしくありません?八月一日さんはいいとして、四万都さんや纐纈さんすっとばして校長に話を訊きに行くなんて」

「僕は……いいんですか」

「まあまあ、こういう場合は校長に取材するのが筋じゃあありませんか」

 纐纈が仕方のない笑いを浮かべながら言う。

「でも、変なんですよねぇ」納得のいかない様子で橋元が言う。

「何がです?」

 それに対し纐纈はまだ深い興味はないようだ。

「大体、今回の大会の参加の件どうして新聞社が知ってたんですか?もう当日にいたんですよ?記者が」

「そりゃ、よその学校の誰かが……」

「騒ぎを起こしたくないような人たちがわざわざ?しかもまっすぐに校長に取材に行って……大体あの人、今回の件は大まかにしか知らないはずですよ?なのに、結構ぉ細かく内容が書かれてますけど?陸連での出来事とか……」

 そこまで話すと、橋元は八月一日の方に目をやった。八月一日は淡々と授業の準備をしていたが、視線に耐えかね「僕がやったとでも?」と、諦めて橋本を見た。

「……貴方ならやりかねないかなぁって」

「……八月一日先生」

「ちょっと待ってくださいよ、いくらなんでも……」

 しかし、八月一日がそう言おうと本格的に顔を上げた途端、意外と確信めいた疑惑の眼差しを受け口ごもってしまった。

「なぜこんなことを……」纐纈は好意的な記事を書いてもらったものの、ヘタをしたら騒ぎが大きくなっていただろう事態を引き起こした八月一日を信用を欠いた目で見ていた。

「……大丈夫ですよ」やや開き直ったように八月一日が言う。

「何が大丈夫なんです八月一日さん?」

「……この東都新聞は、度々教育欄や社会欄で卒業式で国家を歌わなかった教員を擁護する記事を載せてますし、先日話題になった特定機密保護法に関しては、真っ先に反対する立場をとってます。……要するに、なんですよ。だから、今回のような記事になることは……まぁ予想はしていました」

 八月一日の意外な腹黒さを見て橋元も黒い笑顔を浮かべながら言う。

「でも、どうして校長に話しが行くようなシナリオを?せっかくあんなに四万都さんや八月一日さんが頑張って出した結果なのに。上前をはねられるようなものじゃないですか?ほらこの校長の写真見てくださいよ。ムカつくくらい得意げですよ」

「そりゃあ、僕らがすべてを持ってくわけにも行きませんよ。」八月一日は橋元と纐纈を交互に見遣りながら言う。「僕はです。今はそれを美味しく頬張っているようですが。彼がその味の意味を知るのは、また後のことです」

 纐纈は「な……るほど」といったように、釈然としないながらも頷いた。

「八月一日さん」

「何でしょうか?」

「ハリウッド映画の見過ぎ」

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