【其の拾七】導くという欺瞞

 中間テストを終え、地区大会大会出場を前日に迎えた職員朝礼の前、八月一日ほずみ纐纈こうけつに連れられて学校の外壁のとある場所に連れて行かれた。そこには既に四万都しまとと用務員、そして警備の主務の男が到着していた。

「四万都先生、何があったん……なんだこれ?」

 外壁には赤のラッカースプレーで大きく文字が書かれてあった。

 

 大会に来るんじゃねぇ バケモノども

 税金のムダ使いすんな


 四万都は八月一日を一瞥すると、また落書きを険しく睨んだ。

「これは……酷い……。」

 初夏を迎えた強烈な日差しの中、男達は汗をかきながら並んで落書きを見つめた。

「……誰が一体?」

 八月一日が訊いたが、誰も何も言わなかった。

 信じたくはなかった。自分達が歓迎されざる存在だということは、世論を鑑みれば分かることだが、それでもどこか、人間の善なる物をどこかに期待しながら彼らはここまで来たのだから。

「これは、まずいですな……。」

 四万都が重量感のある声で呟いた。

「そうですよ、早く消しましょう。生徒達に見られたら……もうすぐ地区大会だというのに……。」

「いえ、うちの警備がこんなザルだということ、それが外部に知れ渡るのが非常にまずいんです」

「ああ……。」

 どうも四万都とは視点が違うようだった。その四万都の言葉を受けて、警備員は申し訳無さそうに無言で頭を下げた。

「……防犯カメラには何も残っとらんかったとですか?」

「いえ、あの、記録には一応、夜の11時頃に何者かがここでいたずらをしている光景が残っています……。」

「どんな奴ですか?」

「それが……暗視カメラといえど暗がりで……。」

「巡回は?定線巡回とそれ以外ではどれくらいの頻度で?」

「あの、ちゃんとやってました。いつもどおり、警備報告書にある通りに、ちゃんといつもどおりにやってたんです」

「後で記録を見せてください。それと、昨日勤務していた警備員とも直接話をさせてもらえんですかね?」

 四万都の詰問のようなもの言いに、警備員は暑さ以上の汗をかき、何度も警防を取っては袖で汗を拭う。

「ちょっと四万都先生、警備員さんをそんな責めないでもいいじゃないですか。身内の人間なのに……」

「八月一日先生、事態の深刻さが分かりませんか?これだけのセキュリティシステムを使いながら、こげん簡単に落書きができるちう事は、内部情報を漏らした人間がおるか、もしくは内部の人間そのものだっていう可能性もあるとですよ?」

「いや、そりゃあいぶかしがり過ぎなんじゃ……」

 博多弁の割合が多くなった四万都に圧倒されながら八月一日は言う。

「用心してし過ぎるという事はありません。特に安全保障に関しては」

 警備員は四万都の言葉に何度も「そうですね、そうですね」と繰り返していた。

「確かにそれも大事だとは思いますが、まずもう、この落書きを消しましょうよ。生徒達に見られたら大変なショックを受けてしまいますよっ」

「そうですね、八月一日先生の言うとおりです。生徒達に見られるのも良くありませんし、あと付近の住民に見られても何か余計な邪推をされてしまうかもしれない。すぐに消すべきですな」

 纐纈が顎と首を撫でながら、参ったように言う。

「……業者はもう手配しとります。で、警備員さん、後でデジカメで写真撮っといてください。あと、塗料の一部を削って成分をサンプルとして残すようにお願いします」

 警備員はまるで上官を思わせるような高圧的な四万都に、ひたすら恐縮しながら「はい、はい、分かりました」と頭を下げ続けた。

「最悪のケースは内部の情報の漏れ、最良はただ単に運良く犯行がうまくいったか……。どちらにしても、いい結果ではありませんが」

 四万都はそう言ったが、八月一日はやはり別の視点で考えていた。

 生徒達にとって最良のケース、それはこの落書きが、本当に良識も常識もなく、誰からも支持を得られない極々少数の人間による、日頃の憂さ晴らし代わりの、全く関係のない感情からなされたものであった場合で、最悪のケースは、この落書きがこの学校が地区大会に出ることによる世論の不安や不満を代弁したもの、その氷山の一角である場合だ。

 芝庭事件からはもう間もなく十年が過ぎようとしている。それでもなお、彼らは自分達を許しはしないのだろうか……。

「八月一日先生、生徒達にはこの事を言わないように。また彼らの前では努めて冷静にするようにお願いします……。私はこの件を後ほど校長に上げておきますので……。」

「いや、僕は平気なんですけど、纐纈先生こそ大丈夫ですか?変に意識して西塔さんとかにバレやしませんかね?」

 纐纈は余計なことを……と言う顔で、八月一日を呆れたように見遣った。

「あ、すいません……。大丈夫ですよ、西塔さいとうさんも自分からそんな積極的に人の心見てるわけじゃないんですから……。」

「そりゃあなたはいいですよ……。」


 テストが終わり気が抜けたのだろう、生徒達はだらけたように授業を受け、幸い生徒達は八月一日の呆けた様子も、ただ気の抜けているだけなのだと解釈していた。しかし部員達となると、不必要に気合の入っているのだろう終始落ち着きがなく、俊二に至っては堂々とバスケットボールを指の力でキープする練習を授業中に繰り返している。纐纈は授業中に準備が多からという理由で八月一日をクラスに留まらせ、こよみに不安感がバレないよう策を講じていた。

 放課後になると、この時間こそが学校の始まりなのだと言わんばかりに部員達は活気を戻す。別に大会が近いからいいけど、と八月一日は思うが、あまりこれが続くようなら、ある種の説教を入れなければならないのだとも思い、その役目を四万都に降るかどうか悩んでいた。遠くでは暦と美鳩みくがひたすらに義務的に黄色い声を上げながら声援を送っている。

「……そういえば四万都先生、警備の方はどうでした?」

「まぁ、恐らくは偶然に警備の穴の時間をやられた感じですかね、しかし、改めて話を聞くと本当にひどい……。」

「何がです?」

「うちの警備員、ほとんどが六十近い年寄りなんですよ。報告に来る主務と副主務が四十代というくらいで、職安で募集かけたようなもんなんでしょうな、うちは何だかんだいって公共施設ですから」

「そうなんですか……。」

 八月一日は「むぅん」と唸りながら四万都の話を聞いた。そんな四万都が油汗をかきながら話しているのを見て、最初は警備の不甲斐なさに苛立っているのだと思っていたが、どうも違うらしい。

「……ちょっと座ってもよろしいでしょうか?」

「どうぞどうぞ、そんな僕が決めることじゃありませんから」

 四万都は「失礼……。」と言うと、体育館のベンチに座り込んだが、その後も険しく生徒達のプレーを見続けている。生徒達の動きに不満があるのだろうか。しかし彼らの動きはあのいじめの件以来からまた格段に良くなっている。部員達は基礎トレにも慣れてきて、ちょっとやそっとのことでは息切れなどしないし、些細なミスも反復トレーニングで劇的に減ったのだ。マネージャー達、特に暦は男心をくすぐる声援のやり方をしかと心得ていて、節々に「ちょ、今のすごい!」等と徹底した褒めて伸ばすやり方を実践している。一時のぎこちなさは皆無だった。八月一日は、てっきり四万都には警備の件もあって完全主義なところがあるのではないかと思った。だが、再び八月一日が四万都に視線を戻すと、四万都はベンチでうずくまって悶絶していたのである。

「……四万都先生?」

 近づくと四万都の呼吸が乱れているのがわかった。

「四万都先生、お体の具合、どこか悪いんですか?」

 四万都は歯の間で「スーッ」と息を吸うと、「大丈夫です、ちょっと腹痛が……。」と言って、膝に爪を立て痛みを堪えていた。

「保健室、行きましょうか?」

 しかしその八月一日の言葉にも、四万都は手で制して「大丈夫」という意思表示をする。四万都は気合を入れて再度顔を上げ普通に座ろうとしたが、やはり痛みに耐え切れずにまた蹲ってしまった。

「四万都先生っ?」

 ただならない様子を察知した八月一日は、四万都に「橋元さん呼んできますね」と言って体育館の事務室に走っていく。四万都は微かに「大丈夫ですから」とは言ったが、どう見ても大丈夫ではない。

 八月一日が事務室で文庫本を読んでいた橋元を呼んでコートに戻ると、四万都の異常な痛がり方を心配した生徒達が彼の周りに集まっているところだった。

「どうしました?四万都さん?」

 いつもは斜めに構えている橋元だったが、四万都の様子を見るなり「大変……。」と言って、「八月一日さん救急車をっ」と八月一日に携帯電話で救急車の手配をさせた。

 救急車はすぐに到着し、四万都はキャスターで隊員達に運ばれ橋元がそれに付き添い救急車に乗り込んだ。四万都は運ばれながら「生徒達をよろしくお願いします……」と、呻き声とともに八月一日に伝え病院に運ばれていってしまった。

 大の大人があそこまで痛がるのは普通のことではない。部員達は「ヤバくない?」と口々に言い合い不安を見せていた。大会は明日なので八月一日は何とか部員達の気を静めようと、「大丈夫、何より当の四万都先生本人が大丈夫だと仰られてるんです。みんな明日に備えて、今日は軽い基礎練と後は反復練習を、マネージャーの二人は明日の用意を始めてください」と、考えうる対応を部員たちに促した。だが、八月一日もやはり部員達と同じくらいに戸惑っていた。確かに、あの屈強そうな四万都があそこまで苦しむのは異常だ。もしかしたらとんでもない病気なのかもしれない、八月一日は自分に明日生徒達を指導できるだろうかと頭を抱えてしまった。

 部活が終わると八月一日は四万都が運ばれた病院にタクシーで急行した。搬送された病院の病室では、四万都は病室で点滴もうたれず、微妙な表情でうつ伏せになって寝ている。

「四万都先生、大丈夫なんですか?」

「え、ああ……。」

 うつ伏せになっているせいもあって、四万都は若干間が抜けた感じで返事をした。八月一日は四万都のベッドの横に座るとまっすぐに四万都を見たが、四万都は申し訳無さそうに目をそらす。

「その、結局何だったんですか?」

「あ、まあ、心配はいりませんよ……。」

「いや、心配ないって、あんだけ痛そうにしてたのに……。」

 それでもやはり四万都は口ごもる。

「尿管結石ですよ、八月一日さん」

 後ろから橋元が病室に入ってきた。どうもカップのコーヒーを自販機に買いに行っていたようだ。

「にょうかん……?」

「おしっこの管んところに石ができたんです。不摂生が祟って」

「ああ……。」

 四万都は枕に顔をうずめた。

「命に危険はない病気ですよ。……ま、世界三大疼痛とうつうって言われるくらい痛い病気で、中には泣いて気絶しちゃう大人もいるみたいですから、相当痛かったのは確かですよね」

 橋元は笑いながらコーヒーを啜る。

「で、どうしてうつ伏せになってるんです?」

「そうしないと、座薬が出てきちゃうんですよね?」

「皆まで言わんといてください……。」

 八月一日は「よかったぁ……。」と言うと、改めて深く椅子に座り直した。

「で……明日の大会は大丈夫なんですか?出れます?」

 八月一日は一応の病人に対して結構酷なことを言う。

「大丈夫ですよね?別に入院しとかなきゃってわけじゃないんだから、痛み止めの座薬を打ちながら行けば?」

 橋元がカップに半分口をつけながら言った。

「アンタら無茶言わんといてくださいよ……。痛み止めは2時間で切れるし、それなのにさらに数時間開けないと薬使えないんですから」

 流石の四万都も弱気になるくらい痛いようだ。今朝とはうって変わって自身の心配事を口にする。

「例え行ったとしても、まず指示なんか出せませんし……。」

「じゃあ、何かノートに戦略とかメッセージをまとめといてもらえますか?じゃないと僕だけだともっと部員に指示は出せませんので」

「いいですねそれ、ノートは書けますもんね?四万都さん?」

 「名案!」といった感じで橋本が賛同する。

「………。」

 八月一日はカバンから大学ノートと筆記用具を取り出し、「お願いします」と言いながらそれを病室の机の上にそれを置く。

「明日朝に取りに来ますね?で、生徒達に何か伝えておくことがあれば……」

 四万都は枕の中で深く溜息をつく。

「生徒達も四万都先生のこと心配してると思うんですよ。で、その心配を引きずったまま試合に望むのも良くないと思います。……お願いしますよ」

 四万都は顔を上げ八月一日を見た。その顔はいつもどおり日に焼けているのだが、一応黒いなりに蒼白しているようだった。

「病名は言ってもらっても構いません。余計な心配をさせたらいかんので。で、私の事は一切心配せずに、そして決して気負わずに、いつもどおりのパフォーマンスで頑張ってくれと……それだけで結構です」

「わっかりました」

 八月一日は「お大事に」と付け加えると、颯爽と病室を後にした。

「……橋元さんはまだいらっしゃるんですか?」

「コーヒー飲み終わるまで」

「………。」

「八月一日さんって、パッと見常識的で真面目に見えるんだけど、何か根本的にずれてますよね」

 まるで病床の四万都をさかなにしてコーヒをのんでいるみたく橋元は言う。

 四万都は「アンタはパッと見も根本もずれとるやないですか」と言いたかったが、その気力ももう失われていた。

 一方の八月一日は病院から出た後、急いでまっすぐに駅に向かい券売機で切符を買おうとしていたが、そんな八月一日を橋元が大声で呼びとめる。

「ああ、橋元さん。どうしたんです?そんな急いで息切らして?ゆっくりコーヒー飲んでればいいのに」

「八月一日さんこそ速いですよ。どうしてそんなに急ぐんですか?」

「いや、明日試合ですから……」

「ええ?まだ7時にもなってないですよ?」

「用心に越したことはないかなって……。」

 そうは言ったが、あまり橋元と電車をともにしたくなかったのが八月一日の本心だった。

「明日も昼過ぎじゃないですかぁ。八月一日さん、ちょっと付き合ってくださらない?」

 妙に、芝居がかった言い回しだった。

「はぁ、でも自分飲めませんよ?」

「お酒じゃなくっていいからっ」

 自分だけは飲むつもりなのだろう橋元は、飲めないという八月一日を駅ビルにあるチェーンの居酒屋に引っ張られ、個室に案内された二人の距離が必然的に短くなってしまっていた。

「生ジョッキで一つ、八月一日さんは?」

「ウーロン茶で……」

「ウーロンハイねっ」

「茶ですっ」

「ほぉんとに一滴も飲めないの?」

「飲んだら倒れます」

 橋元は店員に「ごめんなさいね」と注文を訂正した。

「ねぇ、八月一日さんって、もしかしてゲイだったりする?」

 店員が去ったのを確認すると、橋元が顔を近づけ出し抜けに聞いてきた。

「え?なんですか急に?いきなりそんなこと言うなんて失礼じゃないですか?」

「同性愛者であるってことは悪いことじゃないじゃない?それを失礼だなんて言う方が偏見ありますよ?」

 人権を人質にとるような橋元の言い方に八月一日は「むぐ」と声を詰まらせた。

「違いますよ……どうしてそんなことを訊くんですか?」

「い~え~、なぁんかわたし避けられてんじゃないかなぁって思ってぇ」

「そんなこと、無いですよ」

 同性愛者であることは歯切れよく否定した八月一日だったが、それに対しては歯切れが悪かった。同時に、自分を避けているような人間に同性愛者の気を見出すという橋元の自信に、改めて八月一日は苦手意識を持つ。

「今日は、そんなことを訊きに誘ったんですか?」

「まっさかぁ」

「じゃあどうして?」

「ちょっと待って」

 橋元は思わせぶりに八月一日を見ながら愛飲のピアニッシモを取り出し火をつけゆっくりと煙を味わった後、店員がグラスを運んでくるまで沈黙を保った。店員が去ったのをまた確認するとそのジョッキを持ち、「HAD同士の親睦を図って……」と笑顔で首を傾けた。

「え?」

「ほぅら」

 困惑している八月一日に橋元がグラスを持つよう促す。

「あ、はい」

「かんぱ~い」

 困惑したままの八月一日を無視しながら橋元がジョッキを半分飲み干した。

「ぷっは~っ、やっぱいいわ~。八月一日さん飲めないなんてかわいそ~」

 八月一日はそんな橋元を見ながらチビチビとウーロン茶を飲んでいた。

「どうしたの?びっくりした?わたしがHADだったってのに」

「いえ、まぁ初耳です……」

「まぁ、言ってないからね。……何より、もうかなり安定してますけど」

 笑顔の橋元だったが、そこには何らかの虚勢が見られた。

「……それじゃあ、「元」キャリアってことであの学校に?」

「そうですね。単純な話、その方がキャリアの気持ちが分かってカウンセリングしやすいってことなんでしょうね。確認してないけど、キョーイクイーンカイの人たちはそう判断したと思ってますよ」

「じゃあ四万都先生みたいに、特殊な経歴ということで……」

「アナタのようにね」

 四万都とみたいに、という言葉に橋元は過剰に反応し打ち消すように言った。八月一日はあそこの教師達の間に流れる微妙な雰囲気の一端に触れた気がした。確かに、四万都の拳の傷跡は尋常ならざるものを伺わせるが。

「で、どういうHADだったんです?」

 話をそらすために八月一日が言った。

「怪我を治せるHAD……」

「そりゃ凄いっ」

「今じゃもう、「痛いの痛いの飛んでいけ」くらいのことしかできませんけどね」

「それでもたいしたもんですよ、多くの人を救えたんじゃないですか?」

 その八月一日の言葉を聞くと、橋元は初めて攻撃的ではない笑顔を八月一日に向けた。

「そ、すごい力だった……。世界中のいろぉんな人が助けられるってね……」

 八月一日は普通に笑顔で頷いた。

「子供のころから思ってたの……こんなことができるわたしはきっと特別な人間に違いないって。……だからね、HADが安定していくほど、ただの普通の人間になろうとしていく自分が怖かった……」

 ほんの少し、橋元の言葉がたどたどしくなったが、それでも八月一日は笑顔で頷いた。

「素晴らしいもののはずでしょ?でもどうして後ろめたい気持ちにならなきゃいけないんだろ?これは才能じゃないの?わたしは特別なのよ?」

 橋元の様子が変わったことが分かった八月一日は、もう笑顔ではなかった。

「自己評価ばっかり強くなって……幼い夢から覚めた途端、何でもない自分っていう現実が待ってたんです……」

 八月一日は橋元の顔を見ることができず、ジョッキのウーロン茶の水面を眺めながらそれを飲んだ。

「結局ぅ、もしわたしが彼らに何かを教えることがあるとするなら、普通の人のなり方くらいなんですけどね。でも大事ですよ?そういったところでも、社会復帰できないHADの人って結構いるんですから」

 八月一日は「なるほど」と言いたかったがうまく言葉が発せられず、再度ウーロン茶を飲み込んだ。

「だから明日のあの子たちの試合、すごい期待してるんです。いつも一人でいると、人って自分がその他大勢じゃない特別な人間みたいに思えてきちゃいますけど、ホントのところはその他大勢になれないってだけなんですよね。だけど「外」を知ることで、社会に出たあの子たちが正確に自分を認識して適応できる力が身につくようになりますから」

 橋元のタバコは話している間一度も口をつけられず、限界までに長くつながった灰が灰皿に挟まっていた。

「なんだか特別な人間じゃないって叩き込むみたいで、残酷な解釈ですね……」

「いまさら?」

 そう言った橋元の笑顔が、突然寒気がするくらいに攻撃的になった。

「彼らを、HADを特別で貴重な存在だと受け入れる社会だってあったはずです。でもここはそういう社会じゃない。そんな社会の都合で最大公約数の幸せを求めたなら……これが答えですよ?八月一日さん、ご自身で分かってらっしゃったんじゃありません?あの子たちをどこに導こうとしているのか」

「……それは、なんとも」

「で、やっぱりわたしが疑問に思ってるのは、どうして八月一日さんはHADを失わないのかって事です。普通あなたの歳になればかなり安定するはずなのに。まるであなたがHADを無いことにしたい願望があるみたいに見えちゃうんですよね」

 友好的なふり、あるいは天然かもしれない。橋元は突然鋭利な牙を八月一日に突き立てていた。いやもしかしたら彼女は出会ったときからこうだったのではないか、八月一日はなぜこの女性に苦手意識を持つのか分かった気がした。

「……斜めに構えすぎですよ」

「そうですか?」

「……生きる力というのは、そんな特別な力がなくても皆平等に備わってるものです。愛情を受けて友情を与え、世界に感動し社会に感謝しながら今の人生を生きる。物を壊す力よりも、野に咲く花に感動してそれを人に伝えることのできる方がずっと素晴らしい。そしてそれは誰にだって備わっているし、その力は常に発揮されるチャンスを待っているんです。僕のHADは、そのためのゼロのスタートラインを子供達に用意するためのものだと思っています」

 橋元の方を見ずに一気に話した八月一日だったが、ふと橋元を見ると覗き込む以上に、観察するように八月一日を凝視していた。

「すごぉい……」

「はい?」

「理想を語ってるときのあなたの目、すっごい濁ってる……」

 八月一日は特に驚かなかった。

「……なんだか、攻撃されてるみたいで愉快じゃないですね」

「気を悪くしたならごめんなさい。信じてもらえないと思うけど、八月一日のやってることは賛成なんですよ?」

「あなたの言い方からすれば、消去法的に、ですよね?」

「消去法的にだって、あの子達の笑顔は本物ですから。本当にごめんなさい、きっと八月一日さんに甘えちゃったんですよ。同じHADってこともあってね」

 確かに橋元は社会復帰に人一倍時間がかかったようだ。しかしもう何が彼女の本心か分からない八月一日は、これ見よがしに携帯で時間を確認する。

「あした、頑張りましょう。本当に本気ですよ?あの子達のためのスタートライン、その気持ちは八月一日さんと一緒です」

「ワカッテマスヨ、僕もホントウに明日朝四万都先生のところ寄らなくちゃいけないんで早いんです。これで失礼します」

 八月一日はテーブルの上に二人分の料金を素早く置くと、鞄を引っつかんで出て行ってしまった。

 八月一日が去った後、橋元は灰皿の中の白蛇のような灰を指でつついて壊し、しばらく何かを考えたあと、携帯電話を取り出した。

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