八月一日新一、六/さよなら、ほずみ先生
仕事というのは人生のあり方、生き方や死に方すらも左右するが、八月一日にとってそこはどこでもない場所として、ただ時間を経過させる場所に過ぎなくなっていた。
いつものように八月一日が刑務官の独身寮に帰宅しようとすると、その途中、見知らぬ男が「八月一日新一さん、ですか?」と声をかけてきた。髪はただ手櫛でしか整えていないかのように不潔感が有り、全体的にとりあえずスーツを着ていれば人前にでられると思っているような男だった。
「……どなたですか?」
「この、小包……。」
そう言うと、男は小包を八月一日に手渡した。
「ちょ、あんた何なんですか?」
男は八月一日が受け取ったのを確認すると、その場から走り去る。
危険物かもしれないので、八月一日が小包を地面に置き距離を取ろうとすると、男が遠巻きから「芝庭からです!」と大きな声を上げた。
「え?あ、あんた誰なんだよ!」
そう八月一日が大声で聞き返すと、男は「頼まれたんで!」とまた大声で答え、そのまま待機させていた原付に乗って走り去ってしまった。
八月一日は自室に駆け込み混乱した手つきで、落ち着いていた方が簡単に開けられただろうというくらいに、頑丈に包まれた小包を力任せに道具も使わずに破いた。
その中から出てきたのはビデオテープだった。手紙も何も同封されていない、梱包材でくるまれた一本のビデオテープのみが届けられたのだ。
異様だった。実に二年ぶりの芝庭からの音信であるにも関わらず、その簡素なビデオテープの黒さは、何か禍々しいものを八月一日に予感させた。しかし不吉さこそはあったが、そのビデオを見るわけにはいかず、八月一日はそれを自室のビデオデッキに挿入し再生させる。
画面が映ると、そこに映っていたのは間違いなくあの芝庭だった。二年経っただけだったので、ほとんどあの頃と変わりはない。八月一日は思わず聞こえるはずもないのに、「芝庭ぁ……」と語りかけてしまった。芝庭はどうもアパートの一室にいるようで、研究対象からは自由の身になったようだった。いや、もしかしたらまだ監視の目が届いているのかもしれない。そこに映っている映像はあまりにも情報量が少なすぎた。
「先生、久しぶり……。急でごめん、本当は手紙とか書きたかったんだけど……。結構できることに制限があるし、先生の居場所も合ってるかどうかわからなかったんだよね。もし届かなくてこういったの送ったのがバレたなら、アイツ等なんて言ってくるかわからないし……。もしこのビデオがちゃんと届いたら……これが最初で最後の俺の近況報告になるから」
最初で最後、その言葉だけでもう不吉な予感は的中したようなものだった。八月一日はやはり聞こえるはずもないのに、「落ち着け、芝庭、今、お前どこにいるんだ?」と身を乗り出し、画面と鼻先が数センチしか離れていない距離で問いかけていた。
しかしながら当然のことそれは聞こえることもなく、芝庭はまた一人で語り始めた。
「あれから俺、色んなとこ行ったわけ。なんかよく分かんないような、多分偉い人なんだろうね、そういう人の病気とか治したり寿命伸ばしたりするために日本各地を移動させられてさ……最近になってようやくHADが完全に安定化したって事で自由にさせてもらったんだけど……。なんていうか、本当にただの人になって放り出された感じだよ……。友達も知人もいない。養子縁組組んでくれた人もいるんだけどさ、本当に形式だけでそうやった感じでさ……。」
芝庭は大きく溜息を付きながら、多分窓の方だろう方向を目を細めて眺めていた。
「先生、俺って何なんだろうね。取り返しのつかないことやっちゃって、何かの形で償えると思ったらこんなことになるなんてさ。本当は、世界中の子供達の………やめとこう。もう、全部終わったことだから。……何もかも、本当に全部……。」
「芝庭、何言ってんだ?」
まるで会話をしているみたいに八月一日の言った後に芝庭が笑う。
「先生、もう最後だから告白しとくね、ホントもう本当にしょうもない告白。……俺さ……クラスのみんなにあんなことしたじゃん……。あれさ……本当マジどうしようもないんだけどさ、俺、クラスのみんなにハブられてたんだよ。……同じクラスの女子にさ……幼馴染だったんだけど、昔は超地味なやつでさ、でも俺は昔っから見てるからちょっと可愛いところがあるの知ってたから告白して……幼馴染って事もあったし、そいつも急いで彼氏作んなきゃって焦ってたのかな、簡単にOKしてくれたんだ。でも俺と付き合いだしてから急にちょっと可愛くなっちゃってさ、お洒落なんかにも気を使うようになってきて……なんか街歩いてたら雑誌に声掛けられちゃったりしちゃうくらいに……。そしたら友達のアドバイスとかもあったらしくて、俺からの告白覚えてないとか言い出して……そんで……その後すぐに、何か別の奴と付き合いだして……。俺スゲェ納得いかなかったから、何度も校門の前で待ってたり、あいつの家知ってるから押しかけたりしたんだけど………そしたらクラスのみんなからストーカー呼ばわりされて……そんで、HRで……そのこと言われて……。」
芝庭は顔を下げて、それ以上は言葉にできないようだった。それは彼女になったはずの女子に冷くあしらわれたからではない、それの程度で取り返しのつかない事をやってしまったことへの後悔であることが八月一日には分かった。
そして同時に、この世界中の注目を集めた芝庭事件の真相が、ただの「普通の」少年の憎しみよって引き起こされた事にも驚愕を隠せなかった。多くの犠牲とキリストの奇跡にも匹敵するだろう可能性は、誰しもが引き起こし得るだろうものによって損なわれたのだと。
「……最近さ、週刊誌立ち読みしたら俺のこと記事になってた。「芝庭真生 出所後今どこに?」みたいな感じで……。下の名前も珍しいから、割り出されるのも時間の問題かな……。それだけじゃないんだよね……前に言ったよね?勉強すればするほど人の気持ちがわかるようになるって……。時間が過ぎれば過ぎるほど……自分の罪の重さに耐えられそうになくなってきてるんだ……。俺がやったことの重さが、俺が殺した人達の苦しみがさ、日に日にのしかかってくるんだよ……。先生、苦しいよ……。」
暗闇の底から聞こえてくるような芝庭の声、八月一日にもその苦痛は聞こえていた。
「もういい、もういいよ芝庭。お前どこにいるんだ?待ってろ、すぐに行くからさっ」
八月一日は画面に手をやり指を立てた。この目の前にある邪魔な画面を取り払おうとするくらいに。しかし次の瞬間、顔を上げた芝庭に八月一日の心臓は凍てつかされた。
先生、何で俺のこと上のやつらにチクったの?
画面に対し、腰を浮かせて前のめりだった八月一日だったが、その一言で腰が抜けたように尻もちを付いた。
……信じてたんだよ?
八月一日の目は焦点を失いグルグルと小刻みに回転した。あれほど食いついていた画面からは顔を背け、まるで強い光から反射的に身を守るように体をまるめ、食後だったならば嘔吐していただろうというくらいに激しくえづいた。
何も言えなかった。あの日から引きずっていた一抹の不安、芝庭が自分を恨んでいるのではないかという、あの心の片隅に残していたしこりが、体全体を蝕む癌細胞へと一瞬で変貌していた。
八月一日は俯いたまま目を見開き、悲しみとドライアイで目からだらしなく涙を流していた。
「……先生、実はアイツ等に嘘付いてることが一つあってさ。俺のHAD、まだ安定化してないんだ、完全には」
八月一日はもう芝庭を見ることさえも叶わなかったが、それでも何とか行っていることだけは聞き取っていた。
「最後に、俺は俺を苦しめたこのHADと……そしてそれで俺が殺した百人近い人達と……それにつながる何百の人達に対するけじめをつけようと思ってさ、それを……八月一日先生に見てもらいたいんだ……。」
八月一日は顔を上げ、涙の浮かぶ瞳で芝庭を見た。
「……芝庭?」
八月一日は茫然自失の状態で芝庭を見続けた。すると、芝庭の姿が徐々にだが皺がれ始めているのが分かった。
「芝庭!何やってんだ!」
芝庭は自分にHADを使用していた。二十代半ばだった芝庭の姿はみるみる老人の姿になり、髪は抜け落ち、目からは力が失われていっていた。
「芝庭!おいっやめろ!」
いくら八月一日が叫んでもその声は芝庭に届くことは決してなかった。肌も髪もボロボロになり、目が黄色くくすむと、芝庭はそのまま椅子からずり落ちるように倒れ、画面から見えなくなる瞬間、芝庭は最期の言葉を放った。
さよなら、ほずみ先生。
そのまま八月一日は一切表情を変えることなくビデオを見続けた。瞬きを忘れ何度も目が乾いてしまうほどに。120分が経過し画面が砂嵐になり、デッキの中のテープが自動的に巻き戻される音を聞いた時、全てはもう戻らないのだと八月一日は悟った。
もう、おわりにしよう。
八月一日は誰に言うでもなく、また何の意味があるでもなくそう呟いた。
次の日、八月一日は仕事を無断欠勤した。仕事には出なかったが、幽鬼のように青ざめた表情で刑務所内に行くと、八月一日はその表情に肝を冷やす所長に一言、ここを退官する旨を告げた。
そこには、生きることも死ぬことも適わない、彷徨った魂だけがそこに突っ立っていた。
もう、おわりにしよう。
八月一日はこの言葉を、所長の前でも何度も頭の中で繰り返していた。
「そうか……いや、いつかはこの時が来るとは思っていたが……。」
ちょうど八月一日がビデオを鑑賞し終わるのを見計らうかのように芝庭の遺体が自宅で発見され、マスコミに「連続殺人鬼芝庭真生 自宅で死亡」と大々的に報道された後だったので、所長はそれが原因だと思っていた。
「そうですね、僕も芝庭がいなくなってからというもの、ここの仕事は不相応だとは思っていたので、逆に腰掛けるような形で申し訳ないと思っていましたから」
「そうか……君がそう言うなら仕方ない……。しかし、この後のあてはあるのかね?」
「取りあえずは貯金がありますので、それを切り崩しながら、職安に通って仕事を探そうと思っています」
ここに赴任してから芝庭の一件もあり、あまり八月一日とは親しく話したことがない所長だが、八月一日の敬語が不必要に柔らかいというか、妙に丁寧で他人仰々しいことに気づいた。
「……うん、そうか。実は……」
生気を全く失っていた八月一日だったが、所長はそんな彼に新しい職場の斡旋をした。それは来年開校する、HADを専門とする中高一貫校での教員としての再就職だった。
凍てついた八月一日の心臓が、ほんの僅かに、トクンと音を鳴らしていた。
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