【其の拾六】光が射すとき、明らかになる路

「……またか、といった感じでうんざりかもしれませんが、今日もいじめに関しての話をしようと思います」

 次の日のHRで、今度は八月一日ほずみが教壇に立ち話を始めた。教室の隅では纐纈こうけつが不満そうにパイプ椅子に座り腕を組んで様子を見ている。

「またかよ~」

「しつけ~」

 生徒は一斉にぼやき始めたが、八月一日はそんな生徒達の様子を一人一人確認し、十分に待ってから再び話し始めた。

「まあまあ大事な話です……なぜいじめというのは起こるのか、今日は先生の体験談を通して話そうと思いましてね……。」

 そう言いながら八月一日は先日纐纈が書いたような図を、再び黒板に書いた。その八月一日の行動に対して、俊二しゅんじが「またかよ」と突っ込みを入れる。

「……先生が中学の頃ですね、クラスメイトで浜崎君ってのがいまして、まぁ先生の時代でも珍しいいわゆるヤンキーだったワケですが、彼が典型的ないじめっ子でしてね。些細でしたが、クラスメイトをパシリに使って買い物させたりなんかしてたわけですよ。ある日彼がパシリの子に夏休みの宿題を金を払うからやってくれなんて言ったものですから、クラスの大ヒンシュクを買ったわけです。別にそれまでパシリをやられていた子もクラスの人間と仲が良かったわけではなかったんですが、それから彼もクラスの輪に溶け込んで、クラスのみんなで浜崎君をハブリ始めたんですよ。それからというもの先生達はクラスみんなで仲良くなりましてね、スクールカースト何て嘘みたいに撤廃されました。……一緒に遊びに行くし学校行事なんかも頑張りましたしね。まるで映画のインデペンデンスデイみたいでした。共通の敵がいるから敵対していた者同士がまとまるというのは。それでそのまま卒業したんですが……今振り返って思うんでうすよ、あのクラスの団結は映画のように誇りうるものだったのかなって……。たった一人の人間を犠牲にしなければ成り立たない、そんな脆弱なものだったのかと思うとちょっぴり後味が悪いんですね……よくよく考えてみれば、クラス全体でのけ者にするほど悪い奴ではなかったわけだし……。」

 八月一日はそこまで言うと黒板を眺めた。

「……いじめにおいて原因のある人間ではなく、責任のある人間は誰でしょうか。……風間かざま君、どうです?」

 なぎさは分かりきった答えを言うように「みんな、ですよね?」と、頬杖を付きながら言う。

「う~ん、先生の言っているのは原因ではなく責任です。ここで責任があるのは誰だろうかと。確かにいじめる人間にも問題があるし、場合によっては浜崎君のようにいじめられている本人にも問題がある場合があります。でもそれは原因であって責任じゃないと思うんです。ここで責任というのは、使ということになるでしょう」

 八月一日はチョークを手に取り纐纈が記した図の周りに更にGHIと書き加えた。

「もしここで責任があるとしたら、それは以前西塔さいとうさんが言ってくれたように、この外枠にいる先生達大人です。ここを管理しなければならない僕達が、悪であるいじめを許したのですから。君達がクラスの人間と仲良くするということをそんなやり方でしか実現させられなかった。そのやり方で社会に出たならば、その人間はきっと大人になってもそのやり方でしか友人を作ることができなくなってしまうでしょう。誰かの陰口を叩き人と慰め合い、誰かを疎外して組織を強くする。そんなのは教育の失敗としか言い様がありません」

 八月一日はむき直り、教壇の両端に手をつき大きく。そして大きく頭を下げながら言った。

「皆さん、すみませんでした。責められるべきは僕達教師でした……。」

 大の大人が自分達に頭を下げるという事態に生徒達は戸惑った。纐纈もその八月一日の行動に「八月一日先生……」と、何かを言おうとしたが、それでもそれ以降なにも言葉が見つからなかった。謝罪とはある意味攻撃的な側面を持つのだろうか、深い気まずさが突き刺さり、沈黙が教室を支配した。

「……センセーそれ違うんじゃないかな」

 静寂を破ったのは俊二だった。

「オレらの場合、先生の中学の頃の話ほどのんびりした状況じゃなかったんだし。日村はやっぱりやりすぎだったんだよ」

「でもこの人達が何も出来なかったのには変わりないじゃん」

 俊二に釘を刺すようにこよみが言う。

「いいじゃない大祝おおほうり、この人達は自分達が悪いって言ってんだから。別にわたし達は悪くないんでしょ?じゃあこれからもわたし達はわたし達で問題を解決していくだけだよ」

 簡単に俊二は黙ってしまった。彼女は本当に以前と同じ西塔暦さいとう こよみなのだろうか?口調といいクラスメイトに対する態度といい、数日前に孤立していたのが嘘みたいじゃないか、八月一日はおどろおどろしい物を眼前に捉えているようでわずかに戦慄する。

「そうです、君達は悪くない。もしみんなが寮生活などではなく家に帰ることができたなら学校を休むことだって出来たでしょう。学校の外にだって居場所を作っていたでしょう。けれど僕達大人がそれをすることを許さなかった。どうしようもなくここでしか有り得ないような、そういう学校と社会を作ったんです。僕らは無力さを言い訳にしていいほど子供ではなかったのに、どこかでこの言葉に逃げる準備をしていたと思うんです。だから、君達がこうせざる得ない状況を作った大人を代表して謝ろうと思ったんです」

「で?」

 暦が小さいがよく透る声で言う。

「はい?」

「謝ったからどうだっての?」

「それをまず知って欲しかったというのと……日村君、僕はまず君も辛坊しんぼう君と阿久津あくつさんにやったことを謝罪しないといけないと思います。君のやったことはいじめではなくて暴力の行使です。それにケリをつけないといけないんじゃないですかね?」

 教室の視線が寿ことぶきに集中した。視線を厳しく感じた日村は机に目を落として口を歪めている。

「なぜ君達がHADを持って生まれてきたのか、その因果関係はわかりません。けれど、少なくとも人を傷つけるためにではないはずです。才能というのは常に人を救い得るものなんですから」

 透流とおるに受けた怪我がまだ治りきれていない寿の顔は、羞恥心のためだろうかより紫色にくすんでいるように見える。纐纈はというと、既に終わったことを蒸し返している八月一日のやり方に快く思わなかったようだ。「八月一日先生、いきなりそんなこと言われても日村だって困りますよ」と、注意を促す。

「日村君は自分のやったことには清算をすべきですよ、纐纈先生。彼はそれをまだやっていない。どうです、日村君?」

 寿は恨めしい顔で八月一日を睨むと、そのまま席から立ち上がり教室から出ようとした。

「日村君っ」

「センセー、俺は悪くないよ。自分の持って生まれた力を使っただけだ」

「人を傷つけることが力を使うことですか?」

「……芝庭しばにわだってそうじゃん、アイツのHADは人を殺して物を壊すことしかできないもんだったはずだ。ああやってしか有効利用なんて出来なかったろ?アイツは自分の才能を最大限に使ったんだよ。俺だってそうだ、このHADは何かを壊すことしか出来ない……」

「芝庭は!」 

 突然、八月一日は寿に向かって叫けんでしまった。八月一日の首の筋肉の硬直から、彼が感情を乱したことがそれが見て取れる。その八月一日のただならない様子が、教室から出ようとした寿の歩を止めた。

 立ち止まった寿を確認すると、八月一日は軽く深呼吸で感情を整えながら言う。

芝庭真生しばにわ まことは……不幸な男でした。彼は自分の存在そのものに耐えられなくなって自ら命を絶ったんです……。」

 纐纈はあの事を言うのではないかと肝を冷やした。八月一日の前職も芝庭真生との関わりも、生徒達に他言することは禁じられていたからだ。しかしその中で、暦が八月一日の「芝庭」という言葉に、「浜崎君」よりも更に言い慣れた様子の奇妙さを感じていた。

「僕は、君達の才能を素晴らしいと思っていました。それは、常人にはないHADを持っているからではありません。中にはHADを悪用し、あるいは悪用され普通の生活を送れない、君達と同世代の人間がいることは知っているでしょう。しかし君達はそうならなかった。もし大祝君のように瞬間移動できれば盗みだって簡単に働けたはずです、阿久津さんのように未来が見えるなら賭け事で大儲けすることだって出来たはずです。しかし君達はそうならなかったんです。人並み外れた事ができるHADを持っているからこそ、人並み以上に他者を思いやりながらこれまで生きてきたはずです」

 最初は早口だった八月一日は次第に冷静さを取り戻し、ゆっくりと自分自身を確認するような口調になっていった。寿はもう出て行く気がなくなったのだろう、教室の後ろにある黒板に背をもたれかけさせながら八月一日の話を聞いている。

「君達の才能、それは自分のもっているものの強大さに負けなかったことにあります。それは芝庭真生が持とうとしてついに持てなかった才能です。そしてその才能はどんなに強大な力を持っていても、弱い者の目線に立てることと同じなんです。そんな君達を教えることができるということを、僕は誇りに思いながらこの学校に来ました。……だから日村君、僕は君がやっていたことが本当に悲しいんです。しかし今ならまだ間に合います、君は失っていたものを取り戻さないといけないんじゃないでしょうか?」

 寿は黒板に背をもたれまま八月一日から顔を逸らした。イラついているようにも見えたが、耐えるように目を閉じると寿はきつく閉じていた口から「悪かったよ……。」という言葉をひり出した。その言葉に誰よりも寿自身が違和感を感じているのだろう、そう言った途端に項垂れてしまった。

「日村君、酷だとは思いますが、キチンと辛坊君の方を見て、聞こえるように言ってあげてください」

「……悪かったよ、辛坊。やりすぎだったと思う……。」

 寿は一応聞こえるようには言ったが、しかし謝罪の言葉を言うのがあまりにも辛かったのだろう、その声はかすれていた。

 こうなってしまうと、他の生徒達はいじめの大義名分を失ってしまう。謝罪している人間の頭を踏みつけるほどには彼らも良心が欠けているわけではなかった。

「辛坊君、君が今までやられていたことを慮れば、これだけでは気の済まないこともあるでしょう。しかし先生からのお願いです、どうか日村君を許してもらえないでしょうか?ゆっくりでいいんです。ゆっくりと、勝手なお願いですが、全てを過去に変えて共に歩み直してはもらえませんか。日村君の罪は日村君がこれから背負いますが、いじめを許してしまった大人の罪は先生が背負います。教師が生徒に頼み事をするなんて、褒められたことではないかもしれませんが、このとおりです」

 八月一日は再度深く、今度は透流の方を向いて頭を下げた。透流は憎いどころか、放課後の補習で積極的に話し打ち解けあい始めていた八月一日そうされることで寿を許しそうになった。しかし………

「背負うってさ、そんな耳ざわりの良い言葉だけで信用できないよね?政治家の記者会見じゃないんだから、具体的にどう背負うか見せてもらわないと」

 暦が八月一日に教室の流れを支配されそうになっていることを危惧し、冷静さを装いながら言う。しかし一部のクラスメイト達は、そんな暦に対し「まだやるのかよ……」という風にウンザリした態度を示した。

「背負うことで……この学校を変えていきます、そしてこの社会をです」

「なにデカい事言ってんの?またいつもの大風呂敷?」

「……そうです、とてつもない大きな風呂敷です。そしてそれを満たすための歩みは、皆さんに申し訳ありませんがとてもゆっくりなものになるでしょう。皆さんが成長し、子供を作り、その次の世代になるかもしれません。その時には皆さんは生徒ではありませんが、少なくとも僕と……纐纈先生は先生であり続けます」

 纐纈は「え、私も?」と、パイプ椅子から少し腰を浮かせる。

「これは約束です。君達の子供達が大きくなる時には、その時には、君達が素晴らしい才能を持った人間であることをこの日本中が知ることになるような、そんな学校にすることを約束しましょう」

 八月一日は教壇の隅を強く、今にもその角をへし折りそうなくらいに握り、その目には覚悟と哀願が入り混じった、悲痛な光があった。

 纐纈は自分もいきなり巻き込まれたことに異を唱えようとしたが、また深く椅子に座り直し、「まぁ、お前たちも知ってると思うが、海外留学の件も地区大会参加の件も、八月一日先生が率先して動いてくださった結果だ。まだ些細だが、一応形にはなり始めているんじゃないか?」と生徒達に思い出させるように言う。常日頃から慎重だけあって、アシストは要点を得ているのだなと八月一日は思った。

 教室は沈黙していた。その沈黙の理由は様々だったが、少なくとも暦以外は八月一日の言葉を受け入れているようだった。

「ねぇ、信用できると思う?こんなことになるまで何もしなかった人たちだよ?」

 暦はその沈黙に耐え難くなり再度流れを戻そうと試みたが、教室は暦の声など存在しなかいかのように沈黙を保つ。

「忘れてるかもしれないけど、日村、アンタがやったことは殺人未遂だからね、私は絶対許せない。阿久津さんにやったことだって……」

 美鳩の名前を言ったとき、暦は自分の口からそれを何の臆面もなく出した事に吐き気を催すほどの嫌悪感を自分自身に抱いた。視界には入っていなかったが、美鳩の濡れたような視線を感じ、暦は恐ろしくて彼女を見ることができなかった。

「もう、知らない……。」

 そう言うと、暦は机の腕組みをしたまま窓の方へ顔を向けた。

 暦が何も言わなくなったことで、教室は完全に沈黙に包まれた。1年と3年のHRの内容が、しっかりと聞き取れるくらいだった。下の階の四万都が「そうやな~」と急に大声を出していた。

 時間にすると五分もなかっただろう、しかし教室内で何人もいる人間が全く何も喋らずにいると、その時間はとても長く感じられた。結局、チャイムが鳴るまで教師達も生徒達も何も話さなかった。纐纈が思い出したように、「ああ、そうそう、来週から中間テストの期間に入るから、部活はできないぞ?」と言う。生徒達は長い沈黙で文句を言う気力も削がれ、とりあえず俊二が「マジでぇ?」と弱々しく言っただけだった。纐纈はもっとうるさく言われると思っていたので拍子抜けしたが、一応「他の学校もそうなんだから、仕方ないだろ」と事情を話しておいた。


「……八月一日先生、また何かありましたか?」

 部活動の時間、四万都がまた怪訝そうに八月一日に聞いてきた。

「え?何かというと?」

 八月一日は今度は平然としていたが、四万都の方は不満げだ。

「昨日までチームワークが取れていたのに、今日になってまた動きがぎこちないんですよ……。」

「ああ~」

 今日は寿も練習に参加していた。補欠なのでスタメンのゲームの相手だったが、寿本人だけでなく、他のメンバーもつい先程の出来事だったので、コミュニケーションの取り方がスムーズではないようだ。

 あちらを立てればあちらが立たず、そう考えながら八月一日はマネージャーの方を見た。今日は部活に出てるのが阿久津美鳩一人だったのだ。その美鳩も、物憂げに俯いたまま点数をつけている。

「お前ら~、来週から練習できんとぜ?もっと気合入れんか~」

 激を入れる四万都から隠れるように体育館を出ると八月一日は寮へ向かったが、寮の不在確認の電工掲示板を見る限り、まだ暦は部屋には戻っていないようだった。だとするとあそこかぁ、と八月一日は保健室へ向かうことにした。

「あらぁ八月一日さん、どうしたんです」

 八月一日が保健室へ入ると、橋元がノートパソコンに向かい合いながらリズミカルに何かを打ち込んでいた。きっとまた面白い無料ゲームでも見つけたのだろう。

「いやぁ、腰をやられちゃって……。部活で頑張りすぎました」

「そう、もうおっさんに片足突っ込んでるんですから気をつけてください」

「さすが経験者ですね」

「教員の医薬品は本来実費で用意してもらうんですけど?」

「ああすいません、相変わらず健康的でお美しい。やっぱりアレですか?風呂にドンペリ入れて美容を保っているとか?」

「ピンクのやつね。………塗り薬がありますけど使います?」

「お願いします」

 そう言うと、また橋元は薬入れに手を突っ込んでガサガサと中を物色し始め、「あ、これ違うわ」と言いながら数回目の挑戦で、福引のように目当ての薬を探り当てた。

「これ、CMでよくやってるヤツね」

「おお~深夜のやつですね」

 橋元は「自分でやって」とその新品の箱を放り投げた。

「……どうも」

 箱を受け取った八月一日は、スーツをたくし上げて自分で腰に塗り始める。

「その薬ね……」

 橋元は八月一日の隣に座ると、小さく「結構ぉ、高いのね?」と囁いた。

「……はあ」

 橋元は、カーテンで仕切られた後ろのベッドの部屋を気にしながら、椅子のキャスターを鳴らして近づきもっと小さく囁く。

「仮病で使ったんなら、元は取ってもらいますからね……。」

「………。」

「さぁて、ちょっとタバコ吸ってきますね?主任が出張でいないんで見といてください八月一日さん」

 おもむろに橋元は大きな声を出した。

「今日ずっと、保健室にこもりっぱなしだったから全然吸えなかったの。だから数本吸い溜めしとくわ、時間かかりそうね」

 橋元は「じゃあ」と言い残して保健室から出て行ってしまった。

 残された八月一日は掌を擦りながら、何度もカーテンの方をチラ見した。しかしカーテンの向こうの存在感が悪の組織の黒幕並みに重々しく、近寄ろうにもそれができないで、ひたすらキャスターの音をキャコキャコ鳴らすばかりだった。

「……何しに来たんです?」

 カーテンで仕切られた向こうから声が聞こえ、八月一日にはそれでカーテンが震えたように思えた。

「いや、腰が……痛かったからですかね?」

「疑問文を疑問文で返さないでください。今度のテストでわたしがそれやっても点数くださいよ」

「気の利いた答えなら是非そうします」

「何それ……大体腰が痛いとか、先生ボールの空気確認してるだけじゃないですか」

「……今日は、ちょっと頑張ったんですよ」

「部活始まって、まだ30分くらいしか経ってないですけど?」

「……濃密な、30分でした」

「………。」

 カーテンの向こうに行ったほうがいいのだろうか。暦の表情はここからでは全く見ることができない。沈黙の向こうに、いくつもの暦の表情を想像してしまう。

「……具合悪いんですか?」

「じゃなきゃ保健室なんて来ませんよ」

「ですね」

「先生と違って仮病じゃないんです」

「そうですか」

「認めるんですか?」

「すみません」

 暦はカーテン越しにもわかるくらい大きな溜息を吐いた。

「体調が悪いのに押しかけたりしてすみませんでした。どうしても西塔さんと話したかったもので……。」

「迷惑です」

 これ以上、突っ込んで話をすると逆効果な気もした。しかし黙って去ったとしても、それは単なる逃げだと暦に思われてしまうだろう。深海に沈んでいこうとする心を何とかして引きあげなければと八月一日は思う。運がよければまたそれは浮いてくるかもしれないが、一旦沈むことに慣れてしまった心は、次に浮上してくることが難しくなってしまうのだから。

「……西塔さん、辛坊君と阿久津さんの件、ありがとうございました」

「……どうしてわたしがお礼言われなきゃいけないんですか?」

「何も出来ない先生達の代わりに教室をまとめてくれたじゃないですか……。」

「……阿久津さん?」

「違いますよ、彼女からは何も聞いてません。教室の様子とか、西塔さんの口調からそうかなって思ったんです。そうですよね?」

「……そんな立派なものじゃないです」

「いえいえ、四万都先生も感心していましたよ、急にチームワークが良くなったって。僕や纐纈先生がどう頑張ってもまとめられなかったクラスを一つにまとめたんですから、凄い事ですよ、頭が下がります」

「でも結局わたしがやったのはいじめじゃないですか……。」

「それはあの時、君達がそれしか選択をしようがなかったからじゃないですか。でも選択しうる手段を最大限に活用したという点においては素晴らしい手際だったと思います。本当にたった一日でみんなまとまりましたよ、普通はできないことです。ただ、これからは手段の選択肢が広がったんで、それでより良いやり方を選択できるようになっただけじゃないですか」

「別に、まとめようとしたわけじゃないし……。」

「……そりゃあ、それは結果的なものかもしれません。でも間違いなく辛坊君と阿久津さんを守ろうとしたんですよね?それもやはり賞賛されるべきことですよ」

 話しながら、八月一日はカーテン越しの暦の様子がおかしいことに気づいた。カーテンの向こうにあった存在感が、急に弱々しいものになったような感じがする。

「西塔さん?」

 八月一日はカーテンに歩み寄りそれを開こうとしたが、暦から「来ないでっ」ときつく拒絶されてしまった。

「……西塔さん、どうかしました?」

「なんでもありません。でも来ないでください」

 暦の声からは彼女が動揺している様子が窺い知れた。

「何がしたかったのか分からないんです」

 声がくぐもっていることから、どうやら暦は布団に潜って話しているようだ。「分からない」と言った後、また暦は何も言わなくなってしまった。八月一日は新薬の箱を無意味に見つめながらカーテン越しの暦の言葉を待つ。

 待とう、申し訳ないが、橋元さんが肺癌になるくらいになっても、それでも言葉を待とう。八月一日がかつて関わった人間の待ち続けた時間に比べれば、それはとても些細なことだった。

 長い、とても長い沈黙だった。橋元の机の上に置かれた目覚まし時計がセットされた時間に針が重なり、カチリという音が部屋中に響いた。

「わたし、阿久津さんに酷い事言ったんです……。」

 八月一日は頷いた。恐らく暦には見えないのだろうが、それでも八月一日はそうするべきだと思った。

「大切な友達だったのに……なんでだろ」

「大切なものは時として、特別だからこそ扱い方が難しい場合があります。……僕と纐纈先生なんて、よくクラスの方針で対立しますが、ああいうのも僕にとっても纐纈先生にとっても君達が大切だから起こることなんですよね。壊さないように、損なわないように、慎重になりぎて感情的になって……そして別の何かを傷つけてしまうんでしょう。……とかなんとか、今の西塔さんの言葉で思いました……。」

 激しく鼻をすする音が聞こえた。八月一日も同調して強めに息を吸えば同じ音が出そうになっていた。

「……激しく怒ってる時や深い悲しみにある時は自分を見直すいい機会ですよ、西塔さん。自分の心の奥に閉じ込めていたものが浮かび上がっているということですから……。」

「自分なんて見たくありません、こんな……。」

「こんな?」

「……日村なんかの心を見る度に、何て汚いんだろうって思ってたのに、結局自分が一番汚かったんです」

 いよいよ本格的に暦の声は震えだしていた。その声が、吐息が、自分のすぐ耳の横にあるくらいに近く八月一日は感じた。

「……人はその心の弱さゆえに、どうしようもなく取らざるを得ない魂の態度があります。それを汚いとか綺麗だとか言ってもしょうがないんじゃないでしょうか?でもね、先生は西塔さんのHADは間違いなく優しいものだと思うんです。だってそうじゃないですか、人の弱さを受け入れることができるなんて、よほど強い優しさがないとできないことですよ?」

「……受け入れられるほど強くない、それに潰されそうなんだから」

「大丈夫、人がその試練を与えられるのは、きっと神様がその人ならそれを乗り越えられると知ってるからですよ」

「それ、何のパクリですか?」

「先生のオリジナルです」

「………。」

「西塔さん、。人生で失ったものは取り戻せないものばかりですが、少なくとも今西塔さんが失っているものは取り戻せますよ」

「許してくれるんですか?」

「許してくれるかどうかは問題じゃありません。大切なのは、そうしようとする心のあり方ですから」

「……それ単に結果は分からないって言ってるだけじゃないですか」

「西塔さん本当に頭の回転速いですねぇ」

「ホント適当ですよね、先生って」

「仏教用語では褒め言葉ですよ、適当というのは」

「褒めてません」

「分かってます」

 暦が後から行くというので、八月一日は先に体育館に向かうことにした。保健室を出ると扉の外には橋元がいた。

「お早いお帰りで」

 八月一日が皮肉混じりに言うと、橋元は白衣のポケットからタバコの箱を取り出してそれを握りつぶし、八月一日に「一箱全部吸ったんですけど?」と言って笑顔で拳ごと突き出した。

「失礼しました」

 八月一日は軽い謝罪をしてから廊下を早歩きで歩いて行った。

 体育館では四万都が部員達を基礎連でしごいている真っ最中だった。シャトルダッシュを何度も繰り返していたようで、スタメン以外は倒れ込んでいた。

「八月一日先生、どこ行ってたんです?」

「いえ、ちょっと野暮用で……。」

「ちょうど良かった、保健室にエアサロンパス取りに行ってもらえますか?足りなくなってしまったようで」

「……僕が予備持ってますからそれ使いましょう」

 八月一日がスプレーを一人一人にかけながら大雑把な介抱をしていると、暦が体育館に入ってきた。暦は美鳩のところへまっすぐに行くと、美鳩と言葉を数回交わした後、顔を押さえて体を震わし、そんな暦の肩を美鳩が優しく抱き寄せていた。 

 雨降って、地、固まるか……八月一日はそう言いながら満足気に二人を見ていると、「センセー、これエアサロンパスじゃなくて制汗スプレーじゃん、なんか変だと思ったよっ」と俊二に怒鳴られてしまった。八月一日は冷ややかにこちらを見る四万都を一瞥すると、大急ぎで保健室へ走っていった。


 人は暗闇の中を手探りで歩み、光がさした時に初めてそれが正しいかどうかを知ります。そして、もし自分が来た道が間違っていたことを知っていたとき、歩いてきた距離を思い打ちひしがれる事もあるかもしれません。でも、それでも誰かと一緒なら、再び手を取って立ち上がりその道を引き返すことも、勇気を出してもっと前に進むことだってできます。わたしたちがあの時この学校で学んだのは、そんな暗闇のさなか、ただ自分が決してひとりでうずくまっているのではないということでした。迷ってしまって彷徨さまようことがあっても、そばにいてくれる人は必ずどこかにいるということを、そして誰かがそうなっていたとき、自分が手を差し出すことでその人だけでなく自分も再び歩むことができるのだということを、わたしたちはあの日々で知ったのだと思います。

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