【其の拾五】暗闇の路、彷徨う人々

「もしかして辛坊君も海外留学とか考えてるんですか?」

 ここ最近、阿久津美鳩あくつ みく以上に辛坊透流しんぼう とおるは職員室に顔を出すようになっていた。「わからないところがあるんです」と八月一日ほずみの下を度々訪れるものの、しかし透流は授業に決してついていかないわけでなく、それどころか彼の成績はクラスでもトップクラスにあり、また進学校への進学希望でもないことは以前の三者面談でも明らかだったので、これ以上成績を上げようとする必要性がなかった。

 日村ひむらたちがいないから……。

 八月一日は透流に教えながら、美鳩に以前補習で言われた事を気にしていた。

「……辛坊君」

「はい何です?」

「……いや、これだけ熱心にしてれば、次のテストは多分阿久津さんよりも点数が高そうですね……。」

 しかしその八月一日の言葉にも透流はあまり嬉しそうではなかった。

 なぜ阿久津美鳩は自分にあんなことをはなしたのだろうか。もちろん、教師に解決を求めるのは同然のことだ。しかし、それにはあまりにも直接的すぎたのではないか、一緒にいた西塔暦もそんな美鳩を止めようとしていた……。八月一日は美鳩のHADがどれほどの未来を予知できるか分からなかったが、もしかしたらあれは彼女の自分への、最大限の警句なのではないかということを懸念をしていた。悠長ゆうちょうな解決を考えていてはいけないのかもしれない……。

「辛坊君、なんか時折、日村くんが君にちょっかい出してるみたいですけど、あれはいいんですか?いやいいんですかというよりも、ああいうのが嫌なら嫌と言ったほうがいいと思いますが……。」

 八月一日はあまり生徒に近づき過ぎるのも、過去の経験から用心をしなければならないことはわかっていたし、この歳の男子にとって、学校でいじめられているというのは恥ずかしい事だという意識があるのも知っている。しかし、もしこれが透流のSOSならば、早目に受け取らなければ取り返しのつかないことになる。

「…………。」

 元々八月一日のもとに来る透流には影があったので、その言葉にも表情には全く変化がないように見られた。そんな変化のない透流とは裏腹に、透流の表情を見ている八月一日の方が動揺してしまっていた。自分が今まさに、教師としての力量を試されていると思ったからだ。これまで様々な経験をしてきた八月一日だったが、実は一般的な学校の問題に触れるのはこれが初めてだった。

 八月一日の脳裏に、様々な形で「損なわれてきた」人間たちの顔が浮かぶ。それは、人と人とは袖触れ合うだけで怪我をしてしまうのだと、それほどまでに危うい存在同士なのだと、それは八月一日が囚われ続けていた過去の一部だった。

「……せい、先生?」

「え、ええ?ああ、ごめん、ぼおっとしてました……。」

 透流の言葉に意識を戻されて驚いたのと同時に、たったこれだけのきっかけで自分の意識が遠のいてしまったことに八月一日は溜息をつきそうになった。八月一日は手の甲でかいてもいない汗を拭う。

「先生、別に俺、いじめられてるとかじゃないから……。」

 寿たちが自分のいない間にしかイジメをやっていないのであれば、それは透流を通してでしか確認しようがない、八月一日はこう言われた時点で何も言うことができないと思った。疑わしきは罰せず、とは自分が寿たちに言ったことである。

「そう、ですか……。でもあんまり酷いなら、日村君達にガツンと言ったほうがいいと思いますよ」

「……そういうのキャラじゃないし……。」

「キャラじゃないって……。」

 子供達は子供達の理屈の世界にいるのだろう、そこにはどこまで大人が介入していいものか難しいところがある。しかし、美鳩に聞いた限りでは透流がうけているのはいじめという言葉では看過できないものだった。

 少年の肌はその歳の中学生にしては恐ろしく美しく透き通っていて、恐らくそれは彼の自己再生のHADによるものなのだろうが、そのせいでいじめの証拠を残さないために寿達の格好のターゲットになっているのだとしたら、それはなんという皮肉だろうか。決してそんなことのために運命は彼にこのHADを与えたのではないはずだ、八月一日は何とか透流を救わなければと思いながら、少しだけその頬を摘んでみたくもなっていた。肌だけで言うと、阿久津美鳩のそれよりも遥かに魅惑的だった。

纐纈こうけつ先生、ご相談が……」

 中間テストの問題を作りのために、参考書の山を作った机の上で作業をしている纐纈に八月一日は申し訳無さそうに話しかけた。普通の学校なら自分の過去のテストなどで応用できるが、出来たばかりのこの学校では担任は一からテキストを作らなければならなかったのである。

 地区大会参加や留学の件には難色を示していた纐纈だったが、流石に今回は相談するべきだろうということで、八月一日は学の件を相談してみたのだが、あくまで自分が見た限りではそいういう事をやられているのではないかという推論を装うことにした。そうしないと、纐纈は美鳩が担任の自分を通り越して、まず八月一日に相談を持ちかけたことを快く思わないかもしれないからだ。

「……なるほど、確かにそれは……初めて聞く話です……。」

 纐纈は重しをのせて開きっぱなしになった参考書に目を落としながら言う。しかし、纐纈の様子から八月一日はこの事を彼が知っていたということを感じ取った。歯切れの悪さから、恐らく寿達に何も言えなかったのだ。もっと言うと、相手がどんな怪我でもすぐに再生して治す透流だから何とかなると思ったのかもしれない。だが、関係上同僚である纐纈には憤りを見せるのではなく協力をあおがなければならない。

「日村君達を職員室に呼んで話を聞くというのもありますが……」

「それはやめたほうがいい。八月一日先生にはまだ教師としての経験が短い、こういうのはあまり核心を付きすぎると生徒が反発して、より一層陰でのいじめが酷くなるんです」

 八月一日もいきなり呼び出すのが良いやり方などとは思わなかったが、こう言って自分の「足りなさ」を演出してみた方が、纐纈を「乗せる」にはちょうどいいと思ったのだ。それに纐纈は自分のことを、ほおっておくととんでもない事をしでかす人間だと見ているところがある。それだったら、それを利用して軽く暴走の兆しでも見せていたほうが彼もストッパーとして動いてくれるはずだ。

「……そうですねぇ、私達教師が近くにいるときはイジメなど見ないですし……」

「以前、ソフトボールの時間に、頭にボールをぶつけられたらしいですが?」

 八月一日は逃げ道を確保しようとしている纐纈に念を押すように言う。

「それは、誰から?」

 どうも感情が先走っているようだ、美鳩からの情報を簡単にリークしてしまったので慌てて八月一日は強引に話を進める。

「そんなことは今は問題じゃないはずです。僕も辛坊君が日村君達にちょっかいを出しているのを見ました。いじめのサインは両サイドから出ていたんじゃないでしょうか?」

「八月一日先生、いじめいじめとやたら決めつけるのは良くないです……。最近の若い子何かの間ではいじられキャラなんて言葉もありますし、貴方の世代だってのび太とジャイアンの関係はご存知でしょう?彼らはああいった関係でありながらも、実は友人関係だったりもするんです……。」

 八月一日は持っていたチョーク入れを床に叩きつけながら「劇場版限定でなぁ!」と叫びそうになったが、自分も美鳩からの情報がなければそんな事を考えそうなので、寸でのところでそれを抑えた。

「……そりゃあ慎重に越したことはないかもしれません。しかし、最近辛坊君はやたら職員室に出入りしてるんです、まるで日村君達と距離を置くみたいにですよ?」

「それは、八月一日先生のあくまで推測ですから、もちろんそれが正しいことを前提でも対策をねらなければなりません。……どうです、今度のホームルームの時にいじめに関する問題をそれとなく扱ってみては?過去に他校でもよく使われたパンフレットなども用意してありますので、授業を通していじめの愚かしさを教えるんですよ」

 果たして、纐纈は慎重が過ぎるのかそれとも寿達を信頼し過ぎているのか、いじめられっ子ではなくいじめっ子の目線に立った時、そんなものが何の役に立つというのだろうか。ゲーム感覚でいじめている人間にはそんなもの心のどこにも響かないのではないだろうか。

「それでも良いとは思いますが、しかしそれをやってしまうと、結局日村君達を呼び出しているのと変わらないような気がしますよ?」

「いえ、ちょうどと言っては良くありませんが、先日、神戸の方でいじめによる中学生の自殺がありましたから、それを題材にする形で、他の学年のホームルーム学年でもそれを扱ってもらって、特定の人物に言いたいみたいな風には悟られないようにするんです」

「なるほど……。」

 確かに悪くはない考えだが、いまいち良くもない考えにも見えてしまう。その授業を通したところで事態は決して悪くなることはないだろう。だがどう作用して物事が改善されるのかが八月一日にはさっぱりわからなかった。

「八月一日先生、私達教師は両方の立場に常に立つ必要があります」

「いじめに関しても、ですか?」

 纐纈は困ったように、「ですからまだいじめと決まったわけではありません……」とため息気味の深い呼吸を置いた。

「例えいじめであったとしても、いじめている人間もまた被害者なのです。ただでさえあのあの時期の子供達は学校という閉鎖的な空間に不満を感じます。さらにこの学校は生徒を閉じ込めているようなものですから、その鬱屈は普通の学校以上に強いはずなんです……。」

 確かにそれは正論で、八月一日も以前から感じていたことだ。けれども、その中立というのは時と場合によっては何もしないということにならないだろうか。今回の場合は明らかに被害者は透流であり、加害者は寿達なのだから。

「それでは私は中間テストの準備がありますので……。」

 そう言うと纐纈は満足そうに、机に向かい始めた。どうやら人仕事を終えたように考えているようだ。八月一日にはそれが単なる物事の保留にしか思えなかった。まるで、欠陥だらけの沈みかけの船に乗っているというのに、その対策に「設備の見回りを強化しています」と言っているような、自分達自身に対する気休めのようだった。


「平成1X年、新潟県で篠山孝太郎君が自室で首を吊っているのが発見されました。そして彼の机には自分をいじめたクラスメイトの名を記した遺書が見つかり、その中にはこう書いてありました。……僕はこの3年間、毎日毎日蹴られ、殴られ、お金を要求されました。お金がないというとまた殴られます。この間は「5万円」と書かれた紙を小切手だと渡されて、これで新作のゲームを買ってこいと言われました。そんなもので買えるわけがなかったから、自分のお金でゲームを買ってのだけれど、彼らはさらにその買ったお釣りを出せと言われました。お母さんごめんなさい。この前財布のお金がなかった言っていたけれど、あれを盗んだのは僕でした。でもお母さんは僕が盗んだと本当は知ってたにも関わらず、それ以上何も言わなかったね。僕はお母さんに申し訳ないと思う以上に、本当に悔しくて悲しくて、自分が情けなかったです。彼らは家に来た時、お姉ちゃんの部屋から下着を盗んで来いそうじゃないとお姉ちゃんに手を出すぞとまで言いました。僕が逆らうと、お姉ちゃん隣の部屋にいるのに彼らは僕を殴り、でも僕はお姉ちゃんに心配をかけたくないから声を上げずにずっとこらえていました。けれどもう限界です。死んでしまう僕をみんな許してください。僕はこうするしか解決することができなかったんです。弱い僕を許してください。家族のみんな大好きです……」

 HRの時間、纐纈が厳粛な態度でプリントを読み上げると、その読み方が真に迫っていたのか、一部の女子は鼻をすすっていた。その中で西塔暦さいとう こよみは悲しみながらもしかしどこか不満げで、阿久津美鳩は不満というよりも何か不安がっているものがあった。

 八月一日は教室全体を見わたすフリをしながら時々寿ことぶき達の様子を伺うと、寿は俯いたままじっと何かを堪えているように見えた。彼らは悲しみに打ち震えていたのだろうか、自分の愚かしさがどのような結果を招きうるのか恐ろしく思っていたのだろうか。そうであるならば纐纈の試みは成功したものだと言えるだろう、しかし八月一日は一瞬の寿のサインを見逃さなかった。

 ……笑ってるな、これ

「……いじめというのは誰がやるものだろうか?」

 生徒の反応から手応えを感じた纐纈は黒板に円を「A」と「B」を書き、BからAの方向に矢印を書いた。さらに纐纈はそのAとBを大きく円で囲い、そのAの中にC、D、E、Fと書き加えた。

「例えば……ABCDEF、とクラスにいる中で、Bという生徒がAという生徒に危害を加えていたとする。この場合AをいじめているのはBということになるだろうか?西塔、どうだ?いじめというのは誰がやっているものだと思う?」

 いつもは暦を意識的に避ける纐纈だったが、今日は率先して暦を指名した。しかし暦は突然の指名にも眉一つ動かさなかった。彼女の不満げな表情は更に深い陰影を顔に刻む。

「……どうだ、西塔?この場合、いじめに加担しているのは誰だ」

 ある程度の理解力があれば小学校低学年でも答えられそうな質問だった。暦はこんな、「どう答えて欲しいのか」あからさまな質問にうんざりしたのだが、纐纈はそれを答えがわからないのだと思い話し始める。

「まあ、普通に考えたらAをBがいじめているのだと考えがちだろう。しかしそうじゃないんだ。いいか?いじめというのは、この……AとBを含むすべて、つまりCDEF彼らも加担して初めていじめというのが始まるんだ。この中にはそれを面白がって見ていたクラスメイト、そしていじめを見て見ぬふりをしていた人間も含まれる。もし、篠山君のクラスの人間が、いじめをやめるべきだという雰囲気を作っていたら、最低でも一人でも篠山君にに手を差し伸べていたならば、いじめはが無くならないとしても、篠山君が自殺することはなかったはずなんだ。いじめというのは個人と個人の関係ではなく、クラス全体で起きる問題なんだよ。……わかるか、西塔?」

 おそらく、暦の性格から彼女ががいじめに関わっていないことは予想できるので、安全策として纐纈は彼女に話を振ったのだろう。下手に関わっている人間を指名したならば邪推を招きかねない。だが、暦はそんな纐纈に対してゆっくりと向き直るように体を動かした。暦が背筋を伸ばしたことで光に当たる面積は増えたはずなのに、その表情にはより一層の陰が生まれたように見える。

「……Cは、誰ですか?」

 おもむろに暦が言う。

「Cは、生徒の一人だ」

「……じゃあ、DEFは?」

「DEFも、生徒だが?」

「……なんだ、先生かと思った」

 それはか細くも鋭い針のような声だった。

 纐纈は手にしていたチョークを落としそうになったが、慌てながら何とか持ち直そうとする。

「いや、まあ、先生達も知っていながらそれをほっといたんなら、そうだな……いじめに加担していたということになるんだが……。」

 しどろもどろに答える纐纈を無視して、暦の視線は教室の隅にいる八月一日に飛んでいた。HADは使えないはずなのに、その暦の瞳は八月一日の耳元で「何やってんですか?」とはっきり呟く。まるで激しく糾弾されているようなとてつもない罪悪感で胸が縛られ八月一日の心臓は悲鳴を上げた。纐纈を始めとする他の教員達が、彼女を恐れる理由をその時八月一日は初めて知った。

「つかさー纐纈センセー『みんないじめに加担してた』とか強引すぎじゃねー?」

 暦の発言によって、それまで空気を読んで黙っていた男子が出し抜けに話し始めた。

「そーだよねー、みんないじめてたとかさ~犯罪で言うと殺人鬼の周りにいたやつが何もしなかったら犯罪者ってことじゃん」

 重々しさと痛々しさが支配して居た空気が一転、途端に歯を見せ笑う生徒が出てくる。

「なっ、お前ら、犯罪といじめは違うだろ?」纐纈が慌てて反論する。

「そんなことないよ、もっと言うとさ、それって犯罪者する奴がいたなら、それは犯罪者を作った社会が悪いって理屈にならない?」

「そーそー、そんなん単に問題はぐらかしてるだけじゃん」

 纐纈は教室の様子に戸惑い、テンパりながらプリントに目を落とし何かを探そうとする。そこに答えなど書いてあるはずもないのに、筋書きを失った纐纈はプリント並みに薄っぺらくなってしまっていた。その間にも生徒達からは笑い声混じりのヤジが教室を飛びかっていた。

「先生の話突き詰めるとさ、西塔が言うみたいに、教師も悪いってことになるよな、だってさ、自分のクラスのいじめに気づかないくらい無能ってことなんだから」

「誰が無能だっ」

 混乱した纐纈は自分のコントロールすら効かなくなっていた。青ざめているにも関わらず額に血管が浮き出て、呂律ろれつの回らなくなった口からは唾の飛沫が飛んで、少年の遺書の内容を印刷したプリントに飛び散った。

「これ例え話でしょ?先生のことじゃないし、なにマジになってんの?」

 もはやクラスは収拾がつかず、どの生徒が何を話しているのかわからなくなっていた。纐纈は怒りを示そうにも、相手が教室の全てだったのでただ周りを必死に、しかし最後の意地なのか、八月一日の方は決して向かないようにしながら見渡していた。笑いを堪えていた寿は、今では完全に腕を組んでふんぞり返りながら教壇の方を嘲っている。

「纐纈先生……」

 八月一日は纐纈に話しかけようとしたが、纐纈は必死な形相でプリントをめくり終わると、「静かに!」と大声で生徒達を黙らせた。

「確かに、一律にかつ構造的にモノを考え過ぎてしまったようだったな。あまり良い言い方ではないが、十人十色、十人いれば十人のいじめが存在する。しかし、いじめている人間の心理というのは実に単純だ。大体のケースにおいて自己顕示欲の強さ、ストレス発散、そしていじめっ子同士で仲間意識を高めるために使われる。しかしだ、こんなやり方で自己顕示欲を満たしたりストレスを発散させるなんて実に情けないことだとは思わないか?」

 教室は再び静かになった。心当たりのある寿達が見せていた笑顔は、すぐに消え去り叱られたように元気がなくなっていた。

「そういうことでしか人と繋がることができない、そんな奴は哀れとしか言い様がない。さっきまで笑っていたやつは、そんな哀れなものを自分の中に抱えているってことじゃないのか?」

 静まり返る教室、それは纐纈の話が生徒達の心に響いたと言ってよかったのだろうか。八月一日は思う、響いた事はどう反響するかまで評価を下してはならない、正しい行動が正しい結果を引き起こすとは限らないのだと。

「……纐纈先生」

 HRが終わった後、胸騒ぎの止まらない八月一日は職員室に向かう纐纈を追うようにしながら話しかける。

「何でしょうか?」

「いえ、気になったんですけど、こういう場合、うちはスクールカウンセラーとかに協力を求めたりしないんですか?」

「……八月一日先生はまた保健室に行かれるおつもりで?」

 とはどういうことだろうか、八月一日はこれまでに一回しか保健室に顔を出したことがなかった。

「いえ、必要とあればですが……どうしてです?」

 纐纈は少し困りながら唸ると、周囲を見渡しながら他の人間に聞かれる事を恐れるように八月一日に耳打ちした。

「……貴方はここの設立時にいなかったから知らないでしょうが、保険の主任の瑠璃川るりかわ氏は人権擁護団体のメンバーです、それもかつて学生運動をやってた人間が中枢にいるような団体のね……。当初は、事あるごとにここの方針に反発していましてね。彼ら保険医が職員会議に呼ばれなくなったのもその為なんですよ。だから……」

「生徒達に余計なことを吹き込むんじゃないかと心配なさってるんですか?」

「いえ、そうは言いませんが、彼らはあくまでカウンセラー、生徒個人の相談に乗るのは何も問題ありませんが、学校の運営方針に関してはこちらが決めることですから……。」

「はぁ……。」

 八月一日は、去っていく纐纈に大人特有の愚かしさを感じながらも、あの瑠璃川の笑顔が、何らかの引き金で自分の想像もできない顔になるのだということに複雑な思いを抱いた。纐纈がそもそも陰口を叩くくらい歪んでいる可能性もあるが、職員会議を出禁になるくらいなのだから、それは他の職員も同じことを考えているということになる。八月一日は改めて自分が新参者なのだということを感じさせられた。

 八月一日達が去った後、教室では教師が離れたことを確認するとすぐに寿達が透流を取り囲んでいた。寿が透流の髪をひっつかみ、その頭を振り回しながら言う。

「おいチンボ、お前なにセンコーにチクってんの?」

「チクってなんかないよぉ……。」

「チ、チクってなんかまいよぉ~」

 寿は透流の口調を真似をしてるつもりで繰り返した後、「嘘ついてんじゃねぇよ!じゃ何でアイツ等がイジメの話とかしだすんだよ?」と叫びながら更に強く透流の髪を握った。掴まれた透流の髪の毛からは煙が出ていた。

「知ってんだぞ?お前がやたら職員室に出入りしてんの、お前以外の誰がチクってんだよ?センコーにクラスメイト売りやがって、この裏切り者が」

「そんな、裏切りって……」

「裏切りだろうが?お前は俺たちここに閉じ込めてる腐った奴らの味方してんだからな、俺だけじゃねぇぞ?クラスに対する裏切りだからな、お前のやったことは」

 クラスを勝手に代表した気になっている寿に教室は顔をしかめたが、八月一日がいなくなったこの場所では、率先してまで寿に逆らおうとする者はいなかった。暦はただ教師達の軽率さに呆れ、それ以外の、寿に対抗できるようなHADを持っている龍兵であっても、寿とことを構えるのは自分にとってもリスクの高いことだということが分かっていたので、覚悟を決めてまで動くことができなかった。いつもどおり、誰もが寿には何も言えないと思っていた。しかし…………

「やめなよ日村君達、辛坊君じゃない、わたしが八月一日先生に相談したの」

 そう言って寿に立ちはだかったのは美鳩だった。

 教室がざわめいた。今まで危険があると真っ先に逃げていた美鳩が、今は自らに危険に身を投じている。寿さえも、何が起こっているのか一瞬分からなかった。

「……阿久津?」

「そう、だから辛坊君をはなして」

 生徒達は最初、美鳩が既に自分が安全だという未来を予知しているからあんなことができるのだろうと思っていたが、凛として対峙していた美鳩の顔には恐怖がにじみ出ていた。いつも涼しげだった彼女の目が、強い光を反射することからそこには涙が溜まっているのが分かる。……あの美鳩が恐れている、それは生徒達に予想できない結末を予感させた。

 美鳩から漏れてくる恐怖を受け取った暦は我関せずの態度から一転、美鳩を助けるために歩を進めようとした。だが、暦が何をしようとしているのか感じ取った美鳩は(コヨミン、大丈夫だから……)と暦へメッセージを送りそれを止めようとする。暦には美鳩が勝算があってそういうことをやっているのだと信じたかったが、彼女から飛んでくる感情は決して余裕のあるものではない。

「阿久津……どいういうことだよ?なんで……」

「あなたたちのやってることがあんまりだったから」

 透流がそうするのと違って、美鳩が八月一日に相談したというのは、寿達にとって結構な衝撃だった。しかしそれがより一層、寿の怒りに油を注ぐことになってしまった。寿達は美鳩を取り囲むようにして並び、寿が美鳩の正面に立つ。後ろめたさが行きどころを失い、寿の戸惑いはすぐに怒りに変わった。

「お前が裏切り者だとはな、未来見ながら大人しくしてりゃいいものを……」

「裏切り者?勝手にクラスの代表ぶらないでよ、日村君達のやってることなんて誰も認めてないから」

 美鳩に言われ寿はクラスメイト達を見渡すが、うち数人が寿から顔をそらした。

「……味方はいないみたいだな阿久津?」

「味方?いないのはお互い様でしょ?岡本君と浜田君があなたの味方だと思ってるの?ただ怖くて従ってるだけなのに……アッ!」

 美鳩は話している途中、突然顔を押さえてうずくまった。寿がHADを使用したのだ。急速再生できる透流に使うものに比べると微弱なものだが、それでも周りの生徒達にとっては効果が大きかった。それは寿は相手が透流でなくてもHADを使用するということを意味したからだ。

「……何見てんだお前ら?コイツに味方するってことは、お前らも同罪だからな?」

 教室を睨みまわしてから、再び寿はうずくまっている美鳩に歩み寄った。

「なぁ阿久津?やっぱりお前には味方いないみたいだな?」

「……日村君、もうこんなことやめなよ……。」

 うずくまって顔を押さえたまま美鳩が言う。泣いているのだろうか、声が少し震えていた。

 あまりにも耐え難い光景だったので、大丈夫だと伝えられたものの見ていられなかった暦は八月一日を呼ぶために教室を出ようとしたが、その暦の動きを寿に見られてしまった。

「何やってんだ西塔!お前らもだ、この教室から出んじゃねぇ!」

「……命令とかしないでよ」

「は?いつもより威勢が悪いぞ?お前もこうなりたいか?」

 そう言いながら寿は足蹴にするように、つま先で美鳩を指す。暦は歯をくいしばりながら手にかけたドアから手を離した。

「……それでいいんだよ」

 自分のやったことに恐怖しながら虚勢をはっている、そんなしょうもない寿の内面を見通すと同時に、そんな寿に何もできない無力な自分を暦は激しく憎悪した。

「阿久津、お前からちゃんと謝罪の言葉を聞かないとな。お前の裏切りで、どんだけ周りに迷惑がかかってると思ってんだ?」

「ちょっと日村……」

 暦がたまらずに口を出す。

「うっせえよ!オメェ俺がビビってできないと思ってんのか?一人やろうが二人やろうが一緒なんだからな!阿久津どうなんだ?反省してんだろうな?」

「……ごめんなさい」

 顔を押さえたまま美鳩が言う。

「あ?聞こえねぇよ?」

「ごめんなさい」

「あのなぁ、謝る時はちゃんと人の目を見て言うもんだろ?親にどういう教育受けたんだ?」

 寿に促されるように美鳩は顔を塞いでいた手をどけてその顔を上げた。低温やけどのせいか、その顔はうっすらと赤くなっている。

「日村君、ごめんなさい。わたしが悪かったわ……。」

 そう言って日村の望み通りに謝罪の言葉を口にする美鳩の頬からは、痛みのせいだろうかそれとも屈辱のためだろうか、うっすらと涙が伝っていた。

「そうだよ、それでいいんだ、なぁお前ら?」

 まるで助けを、いや共犯者を求めるように寿は岡本と浜田に同意を求める。二人は共犯になることの恐怖と罪悪感があったものの、寿の剣幕に押され、「あ、ああ、そう。うんこれでいい」と、口に出した途端に後悔するような同意をしてしまった。

 暦は自分のHADを憎んだ。自分に対して脅しをかけてきたこと以上に、美鳩にそうすることで寿から発させられているサディスティックな愉悦に、久しぶりにうんざりするほどの人間の醜悪な部分を見たからだ。

 暦は寿の気が済んだところを感じ取って美鳩のもとへ駆け寄る。

「……阿久津さん、保健室行こう」

「何勝手なことやってんだよ西塔」

「ひょっとしたら跡が残っちゃうかもしれないでしょ。早く行かないと」

 暦の思惑どおり、美鳩の顔に「跡が残る」ということを強調すると、寿の中には自分のやったことへの恐怖が支配的になった。しかし例え読み通りにならなくても、暦は自分が同じ目にあってでも美鳩を保健室に連れて行くつもりだったのだが。

 美鳩に肩を貸しながら去っていく二人を、クラスメイト達は複雑な思いで見送っていた。

「ひどいよこんなの……。」

 教室を出ようとしながら暦は言う。口ぶりから暦が少し泣いていることが美鳩にもわかった。

「大丈夫だよ、多分……」

「大丈夫って……全然大丈夫じゃないよ」

「そんなことより辛坊君が……」

 美鳩の言うように、寿達のターゲットはまた透流に戻っていた。透流を再度取り囲みながら、寿が透流のみぞおちに前蹴りを入れて無理矢理に席に座らせる。

「チンボ、裁判は終わってないんだぜ?阿久津はああ言ったけど、お前も疑わしいよなぁ?なんでお前やたら職員室に行ってんだ?」

 そんな脅しをかけている寿に再び美鳩が言う。

「もういいでしょ?辛坊君は関係ないんだからっ」

「ああ?」

 しかし今度は暦が身を呈して間に立ち美鳩を守る。

「西塔、早く保健室に連れていけよ!」

 暦ももちろんそうしたかったが、しかし美鳩が何故か軽く抵抗をしていてそうできなかったのだ。

「どうしたの?阿久津さん?」

「止めないと……じゃないと辛坊君が……。」

 美鳩の様子からただ事じゃないことが起こるのではないかということを暦は感じ取った。どうも美鳩は何かを

 寿は透流の制服の襟を掴み上げ「おい、どうだって聞いてんだよ?なんで職員室に行ってんだ?」

 しかし、透流はブツブツ言いながらうまく答えられないようだった。

「あ?聞こえねぇよ?何なんだよお前気持ちわりぃな。あ、分かったお前、アレだろ?ホモなんだろ?」

 透流は呟きを止め目を見開いて寿を見た。

「図星だろ?そっか~お前ホモだったんだ~、だから職員室でやたら八月一日にベタベタしてたんだぁ……キモッ!なあお前ら、コイツホモなんだってよぉ?」

 寿のなじりを聞きながら透流の様子が変化していっていた。しかし、表情に乏しい透流のそれを寿以外の、他のクラスメイトも理解していなかった。唯一、この結末を知っていた美鳩はそれに恐怖し、そして美鳩の体を支えている暦は美鳩の恐怖をHADで共有する。

「……阿久津さん、何が起こるの?」

「コヨミン、止めないと、そうしないと……」

 美鳩から感じるただ事ではない逃げ出したくなるような恐怖、思わず暦も美鳩の心配ではなく透流の方へ視線をやり始めた。美鳩と共鳴するように暦の心臓も激しく鼓動する。

「キモいな~お前。じゃあアレだ、八月一日のチンポしゃぶりたいとか思ってるわけ?ありえねー。ほら言えよ?ぼ、僕はホモなんです、八月一日センセーでオナニーしてますってなぁ」

「……じゃない」

「あ?」

 透流が辛うじて聞こえるくらいの声で何かを言った。

「……そんなわけないだろ」

「んだと?」

 透流に本気で口答えをされ寿が怒り、それを見た美鳩が「辛坊君ダメッ」と、赤くなった顔を抑えることもせずに叫んだ。

「……なに?」

 寿が美鳩の方を向いた瞬間、その隙をついた透流が弾けるように両手で勢いよく寿を突き飛ばした。

「うおっ!」

 不意をつかれたことに加えて、元々透流に対してさほど体格の優れていなかった寿は簡単に吹き飛ばされ、大きな音を立てながら机をなぎ倒し、自身も床に倒れ込んだ。寿の周りには、倒された机にしまわれていた教科書や文房具が散乱する。

「テメェ!何すん……」

 寿がそう言うや否や、教室はさらに目を疑う光景を目にする。透流が寿に飛びかかり馬乗りになって寿を殴り始めたのだ。それは遊びでやる程度のものではなかった。思春期の少年の本気の殺意を孕んだ拳が、いや殺意というよりも相手の純粋な破壊を願うような殴打が絶え間なく寿の顔面に降り注ぐ。濡れたタオルをコンクリートに叩きつけるような音が鋭く生徒達の耳に響き渡っていた。それはアクション映画などでよく聞く爽快感のある音では決してなかった。聞くだけで体の一部が張り裂けるような、神経にこたえる音だった。

「やっ!おまっ、やめっ、いたっ!」

 殴打の度に寿の声は力がなくなっていく。寿は両手で辛うじてそれを防御しながらいつも従えていた岡本と浜田を哀願するように見たが、彼らは自分を助けるどころか心配する顔すらしていない。

――つかお前調子乗りすぎ!

 その時、友人を、そして家族を、自分が全てを失った、あの日の忌まわしい感覚が寿に突然の噴火のように去来した。

「ざっけんな!」

 その感覚が引き金になって、弱気になっていた寿はHADを発現させた。あの日のような激情だったが、さらに不安定化したHADは可視化できる程の炎をつくり、そしてそれがが透流の体を包み込んだ。透流の体の輪郭すらもおぼろげになる強烈な炎だった。その熱さは女子のみならず男子にも悲鳴を上げさせた。

「殺す、マジで殺す!」

 流石に見ていられない光景だった。面倒に巻き込まれたくなかった龍兵も、HADを使い二人を引き離そうと試みたが、しかし………

「ちょ、あ、くそ、痛っ!」

 それでも透流は殴ることをやめなかった。体が炎上しながらも、その炎の塊となった透流はより一層激しく寿を殴り続けたのだ。

 先に根負けしたのは寿だった。何度も何度も繰り返される殴打が、寿の鼻を捉えたのだ。

「ひぎゅっ!」

 人間にとって絶対的な痛みの衝撃は、寿の戦意を完全に喪失させた。集中力の切れた寿はHADをそれ以上使えなくなったため透流を覆っていた炎は完全に消え去ったのだが、その時クラスメイト達は驚嘆すべき光景を目にした。

 寿の上に乗っている学の制服は燃焼してボロボロになり、肌が露出している部分は火傷どころか焼き爛れ、さらに酷い部分では黒い焦げになっていた。普通に考えて人が動いていられるレベルの怪我ではない。生徒達は言葉を失った。凄惨な有様に、膝から崩れ落ちながら泣き声とともに嘔吐する女子さえいた。

 しかし言葉を失っているクラスメイトなど視界に入らない透流は、その攻撃の手を休めることなく寿の人中あたりを殴り続ける。もはやどちらが被害者かわからない状態だった。変声期を終えたばかりの寿は、声を裏返しながら小動物のような泣き声を上げ、透流に殴られるままになっていた。明らかにダメージの大きいはずだった透流は、馬乗りになっているその間にも再生を繰り返し、ものの十数秒で重度の火傷部分はかさぶた状になり、そしてそのかさぶたも剥がれ始め、かさぶたの剥がれた所にはいつもの男子にしては綺麗すぎる透き通った肌が覗いていた。

 透流の再生が終わるのと同時に、冷静さを取り戻したクラスメイトはようやく二人を引き離した。透流はアドレナリンが大量に出たせいか、離されると自分で立つことも出来ないようで、膝が震え何度も何度もその場に倒れこんだ。寿はというと顔を抑えながらうずくまり、聞き苦しい裏声で延々とただ泣いていた。

 何をどうしていいのか分からなかった。しかし暦は美鳩の怪我の事を思い出し、「阿久津さん……行こう」と困惑したまま美鳩を保健室に連れて行く。最初は肩を貸していたものの、美鳩の方はそこまでダメージがなかったようだ。今では足取りはしっかりとしている。

「ねぇ阿久津さん、ああなることがわかってたの?」

「……うん」

「……でも変えられなかったんだ」

「……悔しいよね」

 そこまで言うと、美鳩は自分の足で歩けるくらいには回復したようで、暦の肩にかけた手をゆっくりと離した。

「でも、未来が変えられないなら、やっぱり阿久津さんがやることなかったよ……。結局こんなことになって……。」

「前に言ったじゃない、本当はみんなでやらないけないことをコヨミン一人に押し付けてるって。だからね、わたしもちょっとくらいはコヨミんみたいになりたかったんだよ。それに八月一日先生もさ、なるかならないかは問題じゃないって前に言ってたし……。」

「………。」

「ありがとう、嬉しかったよ。助けようとしてくれたんだよね?でもそれをやっちゃうと、日村君はあの時自分をもっと抑えられなくなってたから……。頑張ってあの結果を変えたかったんだけど……難しいよね……。」

 暦は「そうだね」と言いたかったが、先が見えてしまう人間に容易に同意ができなかった。

「そんな顔しないで、わたし一人があそこで犠牲になるなら、結構安いかなって思ったの……。コヨミン、泣かないでよっ」

 暦は無言で泣いていた。HADが見せる変えられない未来に苦しみながら、それでも何とかしようとした美鳩に対して、自分唯一人がHADに苦しんでいると思っていたことを恥ずかしく思ったからだ。

 二人の声が思いの外廊下に響いていたのだろう、橋元が保健室から様子を伺いに出てきていた。

「どおしたの二人共?なに、怪我?」

 二人は橋元に連れられて保健室で治療を受けた。瑠璃川が心配するのを尻目に、橋元がテキパキと氷嚢ひょうのうを用意して美鳩の顔を冷やす。

「……何があったの?」

 しかし二人は黙ったままだった。

「火傷ってことは日村?……まったく、女の子の顔を……。」

 橋元は氷嚢で濡れた美鳩の顔を奇麗に拭くと、その顔に手をかざした。橋元がそうすると、美鳩は痛みが少し引くのがわかった。

「先生には言ったの?………どうしたの西塔さん?」

「……先生達に言っても無駄ですから」

 美鳩以上に涙で顔を赤くした暦が、怒るようにして言う。

「そぉんな事ないわよぉ、向こうは大人なんだから、そういう時はきちんと頼らないと……」

「大人だからできないことだってあります」

 橋元は教師達には見せない笑顔でそれを受け止めると、落ち着いた様子で床に目を落とした。

「……そうね、大人ってのはあなた達が思ってる以上に無力かもね。……でもね、大人を諦めちゃったら、それって世間を諦めちゃうことだよ?あなた達だっていずれは大人になるんだから」

「じゃあどうすればいいんです?元はといえば、先生たちが下らない授業したのが原因なんですよ?」

 橋元は暦から教室で起きたことを聞きながら、何度も深く頷いた。それは解決策を講じているというよりも、暦の不満を受け止めているような聞き方だった。暦の言い分を笑顔で何度も肯定し、タイミングを見計らいながら何度も暦の目を見つめ続けた。そして暦の話を聞き終わった後、橋元は「そうねぇ」と改めて思案し始める。

「日村達を指導室行きにしてくださいよ」

「西塔さん、私達保険医の権限じゃあそこまでは難しいよ。それに「指導室」は本来学校にはあってはならない場所なんだ……。」

 ようやく口を開いた瑠璃川だったが、そんな瑠璃川に対して暦は激しく睨みをきかせた。

「口でどうにか言って何とかなるヤツラなんですか?辛坊君はHADがなければ死んでたんですよ?」

 暦に糾弾され瑠璃川は何も言えなくなってしまった。そんな険悪な雰囲気の中にある保健室に、生徒の報告を受けた八月一日が駆け込んできた。

「阿久津さん、大丈夫ですか?」

 八月一日は美鳩に駆け寄り、顔の様子を確認する。怪我が大したことではないことが分かると、「よかったぁ……」と大きく息をしながら自分でパイプ椅子を開きそこに座る。

「何が良かったんです?先生達のせいでこうなったんですよ?」

 暦は今度は胸をなでおろす八月一日にきつい言葉を向けた。そんな暦を美鳩が「コヨミン……。」と諌めようとする。

「……すみません」

「前に言いましたよね?期待は裏切るけど予想は裏切らないって、これがその結果ですか?改めて先生って何も出来ないって事なんですね?」

「………。」

 八月一日は項垂うなだれたまま何も言い返せなかった。

「期待したわたしたちが馬鹿でした。もう何も先生達には望みませんから」

「ちょっとちょっと西塔さん、八月一日さんの言い分も聞きましょうよ……。」

「いえ、橋元さん。西塔さんの言うとおりです。本当にロクなことができてない……。分かりました、ここまできたら日村君達に僕が直接話します。あわよくば指導室行きにも……」

「八月一日先生まで……ちょっと待ってくださいよ、ここは刑務所じゃないんですから。彼らを囚人扱いするのは良くありません……。」瑠璃川が割って入ってくる。

「しかし、もう彼らのやってることはそのレベルまで来てます。むしろ、辛坊君に対する仕打ちを考えたら、早期にそうすべきだった」

「そんなことをやってしまったら、彼らはいよいよ立ち直れなくなる。辛坊君だけでなく、日村君達の今後も考えなければいけないんですよ?」

 過度の寛容など何も出来ないという点では不寛容と変わりはしない、一瞬纐纈の言葉が八月一日の脳裏ををよぎったが、八月一日は冷静になろうと努めた。しかし、興奮していたのは暦の方だった。

「職員室で話してもらえませんか?そういうことっ」

「西塔さん……。」

「もういいです。先生達には頼りません。これからは教室のことは自分達で何とかしますから」

「自分達って……。」

「阿久津さん、先に帰ってるから」

 そう言うと暦は保健室から出て行ってしまった。残された美鳩からは、新しい涙がこぼれる。

「すみません……。」

「先生、謝ってばかりですね」

 涙を流しながらも、美鳩が笑いながら言う。

「……すみません、阿久津さんに教えてもらった時に、もっと積極的な対策を取るべきでした。今日に至っては阿久津さんが辛坊君を守ろうとしてくれたらしいですね。本来は僕達教師の仕事なのに……。」

「いいえ、全部を知っていたわたしがやるべきだったんです。先生達は普通の人なんだから……。」

 美鳩は何気なく言ったつもりだったのだろう。しかし、その「普通の人たち」という言われ方は、必要以上に八月一日を含む大人たちに突き刺さった。

「先生……」

「何です?」

「まだ終わってないです。せっかく大会に出れることになって、みんながまとまろうとしてるんです。お願いです、ここでダメにしないでください」

「……もちろんです。普通の人だからこそできることがあります」

 笑うとともに美鳩は下を向いた。彼女には一体何が見えているのだろうか、教えてほしいところもあるが、それをやってしまったらいよいよ自分達の無力を認めてしまうようなものだ。

 結局その日の部活動に寿は来なかった。八月一日はてっきり気まずいだけだからと思ったが、その異変に本格的に気づくのは次の日の授業からだった。いつもは偉そうにふんぞり返っていた寿の様子がどうもおかしい。HRでも授業中でも、寿は直接透流ではなくとも少なくても誰かにはちょっかいを出していたはずだ。絆創膏が貼られた顔は熟しすぎたトマトのように晴れ上がっていたが、誰もその事を全く触れようとしない。八月一日は教室の異変を纐纈に相談したものの、纐纈は自分の放課後のHRでの授業が効いたのだということで相手にならなかった。纐纈にしてみれば、教室で起こったことはいじめではなく喧嘩だということで、彼のやったことといえば透流に対する口頭注意にとどまるのみだった。確かに、怪我が完全に回復している透流からはあの教室の凄惨な光景は想像するのが難しいといえるだろう。しかし八月一日には、暦の「自分達で何とかします」という言葉が気にかかっていたし、なにより美鳩の「まだ終わっていない」という訴えのこともあった。あれはどういう意味だろうか、透流がちょっかいを出されていないのなら、それは終わったという意味ではないのか。だが、八月一日には悪い予感がして仕方がなかった。

 その予感を決定づけるのは翌日の給食の時間でのことだった。席を自由に移動することを認めていたので、生徒達は各々好きな相手と机を並べて食事を取るのだが、その日、いつもは岡村や浜田と三人一組みで給食を食べている寿が一人、教室の隅で食べていたのだ。別に、一人で食べている生徒が珍しいわけではない。一時前の西塔暦も一人で給食を食べていた。しかし常に誰かとつるんでいる寿が、今日になって急にそうしているのはあまりにも変だった。まさか………八月一日は暦の言っていた言葉を最悪の状況で解釈した。

 そこにあった違和感、それは日村寿に対するクラス全体での無視だった。この短期間でそれを結論づけるのは早計かもしれなかったが、そう考えて見てみると、寿が動こうとするとクラスの人間は微妙に寿を避けるように体を技とずらしているなところなど、以前は怖がっているとして見ることのできた動作は嫌悪感に置き換えられていることがわかる。決してぶつかる距離などではないのに、生徒達は寿を悪臭を放つゴミを嫌がるようにわざとらしく避けているのだ。無言の報復が寿に対して始まっていた。どうやらそれにはかつて寿の子分だった岡本と浜田も加担しているらしく、彼らに至っては寿との決別を主張するかのように、二人共教室の最も遠いところに座っていた。

「おかわりかよ」

 寿が給食の酢豚をおかわりするために配膳台まで行くと、誰かがそう漏らした。以前の寿なら声の主をいきりだって探していたはずなのに、今日の寿はその言葉に耐えるようにして食器に酢豚を盛り始めた。

「自称金持ちが酢豚って……」

 また誰かが後ろから寿に向かって言う。八月一日には距離的に具体的に何を言われたのか聞こえなかったが、寿が酢豚をすくい入れようとするのをやめ食器を片付け始めたことから、何かキツイ事を言われたのがわかった。

「……君達、どうしたんだい?日村君、別におかわりしたっていいじゃないですか?」

 そう言った八月一日だったが、そこにはまるで教室全体を敵に回しているような圧迫感があった。

 寿はというと、八月一日の促しを無視してやはり食器を片付け終えてしまっていた。

「日村君……。」

 八月一日にそう話しかけられても、寿は「うっせぇな……」とぶっきらぼうにそのまま席に戻ってしまった。席に戻る時にはやはりクラスメイトは寿を汚れ物のように避けていた。

「え~っと、君達、どうしたんだい?先生はよく分かりませんが、何か険悪じゃないかい?」

 しかし生徒達の誰もその八月一日の言葉に反応せず、言葉はただ教室の宙を舞っていた。その時、八月一日は教室の本当の違和感に気づいた。無視されているのは寿だけではない。それは自分に対しても向けられているものだった。昨日今日の出来事だったが、あの時教室にいた人間といなかった人間とではまるでここにいるスタンスが違った。

 八月一日は透流に視線をやったが、透流はそれに気付くとすぐに夢中で給食を食べるふりをする。なんとも攻撃的な無視である。大人としての意地があるとはいえ、ちょっぴり八月一日は傷ついてしまった。

(まいったなぁ……)

 八月一日は問題は解決どころか、より一層悪化したことを知った。

 給食が終わり休み時間に入ると、生徒達は寿を省くようにグループで遊び始めた。他愛のない話をする者や体育館でバスケットボールをしに行こうとする者、彼らはこれまで以上に彼らは固い絆で結ばれていた。それは寿という外敵を追い出すために必然的にそういう仕組みになったといえる。まるで、自分達の仲睦まじさを寿にあてつけているようでもあった。

 掃除の時間にはその疎外の輪はさらに顕著に姿を現した。寿一人にゴミの処理をやらせ、他の生徒達はただ駄弁るだけで全く掃除をしようとしない。汚れているところがあれば「日村ぁ、ここ汚れてんだけど?」と命令するように寿にそこの清掃をやらせていた。

 ほんの二日でそこまでの立場の逆転を許したのは、いじめられっ子だった透流に喧嘩で負けたことに加え、クラスで嫌いな人間がいなかった美鳩に対する仕打ちがあまりにも度を過ぎていたことに起因する。更になりふりを構わなくなった暦によって、これまで考えていた事を個人情報保護の概念など意味をなさないほどに暴かれてしまい、いじられキャラを通り越し、完全な汚れキャラにまで寿は落ちたのだった。

「日村、何してんの?」

 暦が腕組みをしながら高圧的に、雑巾がけをしていた寿に言い放つ。

「何って汚れ落としてんだよ、お前らがやれって言ったんだろ?」

「……そうじゃなくて、何でアンタが学校の備品使ってんのって聞いてんの」

「はぁ?」

 暦は雑巾を取り上げると、寿で汚れたそれを「キモチ悪い……」と水を張ったバケツに投げ入れ、「雑巾が汚れるからさ、アンタ手で拭きなよ?」と寿を顎でしゃくった。

「何言ってんだ?あんま調子にのんなよ?」

 流石に寿も立ち上がり暦に対峙した。しかし………

「調子に乗る?アンタに言われたくないんだけど?」

 そう言う暦の後ろには数名のクラスメイトが控えていた。寿の周りにはコンパスやカッターナイフといった文房具が宙に浮いたまま、いつでも寿に突き刺されるように宙に浮いていた。いつでも暦を援護できるように、龍兵がHADを使用していたのだ。

「……大人しくしてりゃあいい気になりやがって、お前らなんか……」

 だがそう話している最中、突然寿が教室からフィルムのコマを切り取ったように消失した。急なことで暦達も驚いたが、俊二が「スカイダイビングやってもらってる」というと、そのユニークな反撃に一堂が声を上げて笑った。俊二は遥か上空に寿を飛ばしたのだ。その数秒後にまた教室に寿が現れた時、このたった数秒で筆舌にし難い恐怖を味わったようで、寿は崩れ落ちるようにうずくまり、過呼吸気味に体と一緒に声帯を震わせながら必死に呼吸していた。

「空の旅はどうだった?そんな震えながら感動しなくていいよ」

 俊二にしてみれば簡単なパフォーマンスだったが効果は抜群で、寿は完全に抵抗する意志を失ってしまっていた。

「ねぇ日村、八月一日先生の言ってたとおりだよね、行動には反動が伴うって……。」

 丸まって教室の真ん中で倒れこむ寿を見下すように暦が言う。

「んで、それを受け入れる根気が必要っても言ってたな。日村ぁ、俺たちはお前を鍛えてやってんだからな?感謝しろよ?」

 そしてそれに便乗するように俊二がせせら笑う。

「ん?ちょっとどうしたんです?日村君、大丈夫ですか?」

 八月一日が教室に入ってくると生徒達は何事もなかったかのように、日村を中心にしてそっぽを向いた。

「みんな、日村君の様子が変ですよ。何かあったんですか?」

 しかし生徒達は「掃除しよ~っと」と、言いながらバラバラにはけてしまった。

「日村君……。」

 八月一日がそう手を差し伸べると、「なんでもねぇから……」と立ち上がり、極度の恐怖のためだろう、足をカクカク言わせながらその場を去ってしまった。

「阿久津さん……」

 八月一日はたまたま目にとまった美鳩を呼んだが、美鳩は周囲を気にすると他の生徒と同じように「掃除があるから」と小声で言ってやはり教室から出て行ってしまった。

 元々ここの生徒達が本気でHADを使用したならば、寿に抵抗することなど造作もないことだった。しかし少年少女達はそれ以上に、自分達のHADが使い方を誤れば取り返しのつかないほどに人を傷つけてしまうことも知っていたのである。彼らはそれを凶器として人に使用するほどに無神経でも性悪でもなかった。だが、彼らはここで日村寿という共通の敵を見出し、そのためHADの使用を何の遠慮もなく、遊び感覚で使用する理由付けを得てしまったのだ。「ストレス発散」「仲間意識を高める」、それは皮肉にも、纐纈がHRで言っていた通りで、その違いはそれが自覚的なものであるどうかくらいだった。

 八月一日がいなければHADで寿をなぶり、いたらいたらで完全な無視を決め込む。多くの生徒達はただ遊びで、透流はこれまでの復讐で、そして暦はあの時の冷めやらぬ憎悪を込めて、寿を

 掃除が終わった後の職員室で、八月一日は一人この問題を解決するにはどうすべきか考えていた。四万都にも相談してみたかったが、当の本人は部活の練習に忙しいようで、あまり負担をかけたくないところがあった。保健室に言おうにも、今の加害者側はクラスの全員であって、必要なのは一人一人のカウンセリングではない。また瑠璃川に授業を受けもってもらうにも、以前の纐纈の物の言い方からことがスムーズに運ぶとは思えなかった。中間テストの作成も程々に、八月一日は文部省の交付資料を職員室の棚から取り出しガイドラインに目を通す。いま教室で起こっているのはクラスの寿に対する無視なので、いじめの内容で「無視」の項目を開くと、「発見が難しく、問いだたしてもシラを切られることが多い」と書かれてあった。

 八月一日はその一部を破りとって裏に夢を書いて紙飛行機にして窓から飛ばそうかと思っていた最中、その本を読んでいるのを纐纈に見られてしまい怪訝そうに話しかけられてしまった。

「八月一日先生、まだやってるんですか?」

「ええ、、まあ……。」

「あの問題は解決したと言ったでしょう?日村のいじめは辛坊のやり返しによって収束したんです。あの喧嘩で、日村は辛坊にも痛みを感じる心が、そして自分自身もやり過ぎると仕返しがあることを学んだんです。……あまり大きな声では言えませんが、私は昔気質かたぎの人間ですから、男の子が喧嘩をするのは、ある意味いいことだと思ってるんですよ」

 別に八月一日も取り立てて男子が喧嘩をするのは若さゆえの必然だとは思うが、だからといって喧嘩の後に二人がライバルと認め合って仲良くシェイクハンドというのもちょっとした幻想が過ぎるんじゃないかと思った。

「あまりいじめいじめと言ってしまうのは、生徒達にも不満が募ります。警察とは違いますが、具体的な問題が出てきてからではないとあまり積極的にも動けませんよ。まずは、生徒達を信じましょう」

 まさか纐纈の口から「生徒達を信じる」などという青い言葉が出るとは思わなかったが、とりあえず八月一日は纐纈の顔を立てるために、資料だけは閉じといた。

「それより八月一日先生、ご指名ですよ……。」

 そう纐纈が親指で指すと、職員室の入口に美鳩が立っていた。

「阿久津さん、補習ですか?教室で待っててくれれば……」

「教室、もう誰もいないんです……。」

「そう、ですか……。」

 透流はもう既にいじめの対象ではなくなったため、八月一日のところに通う必要はない。しかし、あれほどマネージャーまで美鳩と一緒に務めていた暦までもが補習にでなくなったというのはどういうことだろうか。

「……じゃあ阿久津さん、NHKラジオのおさらいやりますか。先生もここ最近聞くようにしましたから。あとあれです、テキストも本屋で買ったんですよ」

 美鳩はうっすらと悲しみに貼り付けたような笑顔で八月一日の隣に座った。恐らく彼女が求めていることは、本当はそんなことじゃないのだろうと思いながらも、八月一日にはそれ以上の言葉をかけることができなかった。

「今回は主人公の……」

「スティーブン」

「そう、スティーブンがオーディションを受けるシーンでしたね。授業でやった慣用表現が出ていますが、発音などは恥ずかしい話、先生のより全然参考になります………」

 美鳩との補習を終え二人で体育館に向かうと、やはり寿はそこにはいなかった。点数係をやっている暦は二人に気付きながらも、あえて無視をするようにボードに点数を書き込んでいた。

「……どうです、四万都しまと先生。生徒達の動きは?」

 伺うように八月一日が言うと、四万都は「むぅ」と唸るように腕を組んだ。

「……八月一日先生、教室で何かありました?」

 深刻な顔でそう言う四万都に八月一日は心臓に冷水を浴びせられたように驚かされ、「何か、ありましたか?」と、必要以上に小声で逆に聞き返した。すると四万都は急に笑顔になり、「すごいですよ八月一日先生、この間まで全然チームワーク何て取れてなかったのに、今日になって突然見違えるようです」と、生徒達の動きを絶賛し始めた。

「あああ、そうなんですか。何かあったんでしょうかねぇ……。」

 なるほど、確かに特に俊二と渚の連携が良くなっていた。二人のコンタクトで上手くシュートが決まった時などは、拳を軽くぶつけ合い握手替わりにまでしている。もし彼らの連携が、寿に対するいじめによって成立しているのだとしたら、なんという皮肉だろうか。八月一日はうっかり、寿を犠牲にしてこの生徒達の連携が成り立つのであるならば、寿は自業自得ということで我慢してもらったほうがいいのかもしれないと考えてしまった。だが八月一日のその甘い期待は、暦と美鳩の様子で打ち砕かれた。

 美鳩が暦に何か話しかけようとすると暦は嫌悪感を示してそっぽを向き、点数係を任せて体育館から出て行ってしまったのである。美鳩の様子から「待って!」と言っているようだ。美鳩までも跡を追うように出て行ってしまったため、仕方なく八月一日が点数係を務めることになったが、八月一日は二人の様子ばかりが気になってしまい、点数を入れられてもまるで気づかず四万都にも部員達にも文句を言われてしまった。

「待ってよコヨミンっ」

 運動場を使う部員は野球部だけで、しかも部員が5人しかいないので照明は一部しか使われておらず、そのため薄暗いグランドの中で美鳩は暦を追いかけた。

「誤解だから、告げ口なんてしてないよ」

「………。」

「だってそうじゃなことくらい、一番コヨミンがわかるでしょ?」

 暦は先を歩く速度を次第に落とし、ようやく立ち止まってから言った。

「阿久津さんはどっちの味方なの?」

「……どっちって?」

 振り返り暦が言う。

「先生達とわたし達、どっちの味方なのか聞いてるのっ」

「そんな、味方とかなくない?」

 美鳩のそんな言葉に対し、暦は鼻で笑いながら言う。

「あっちにフラフラこっちにフラフラ、阿久津さんってコウモリみたいだね」

「そんな……本気でそう思ってるの?わかるでしょ?そんなことないって、見てよわたしの……」

「やめてよ、キモチ悪いの、わかんない?クラスのみんなに教えてあげようか?阿久津さんがレズだって」

 そう言った瞬間、暦は激しく自分の言葉を後悔した。うす暗い中でもわかるくらい美鳩の目が光っていた。

「そうやって泣いてればみんな許してくれると思ってるんだ?そんな風にちやほやされて生きてきたんだろうね、阿久津さんって」

 暦は突き飛ばしたかった、美鳩ではなく自分自身を。突き飛ばすことが叶わないのなら自分で自分を叩きつけるしかない。肺が空気を吐き出し声帯が震える度に心が張り裂けそうになる。それでも暦は止まらなかった。

「あなたのそう言うところが大ッ嫌いなの、何でも先回りして逃げ込んで、力のない被害者みたいな顔して……そうだよね、被害者になれば楽だもんね?そうすれば同情もされるし不満言っても許されるから」

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?認めないでよ!」

 息を切らせながら暦は「もう知らない!」と走り去ってしまった。それ以上、美鳩の顔を見るのも、自分の顔を見せることもできなかったからだ。

 美鳩はただ薄暗いグラウンドに取り残され、他にやることのない野球部員のノックの音で彼らの存在に気づき、見られないように顔を背けた。そこへ二人のやり取りにかなり遅れて「お~い」と八月一日が駆けつけてきたが、八月一日がどうしたのか訪ねても、「なんでもないんです……」と泣いていることが悟られないよう顔を隠しながら、美鳩も体育館の方へ走って行ってしまった。

 一人は寮へ、一人は体育館へ、交互に生徒を見ながら「無力ですねぇ……」と、八月一日は最後に空を見上げるように呟く。そしてポツリと「」と付け加えて漏らした。八月一日が背にする、暖色の明かりが漏れる体育館からは生徒達の歓声が聞こえていた。まぁ無力ってのもねぇ、そんな言い訳は子供に用意された大人からの逃げ道なわけで……そう考えながら八月一日も体育館へと戻っていった。

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