八月一日新一、伍/損なわれた奇跡
「アンタ中学校の先生なんだろ?俺、もう高校生なんだけど?」
「中学校の基礎を完璧にすれば、高校の授業なんて簡単についていけるものなんだよ」
所長達の頼みを聞き入れ、
「少しはまじめに授業を受けろ、元々出来が悪いくせに」
少し厳しい言葉をかけただけで、芝庭は心を奥に閉じ込めてしまう。八月一日の教育実習の時にもそんな生徒はいたのかもしれない。大人数の教室ではそれにいちいち構っていられなかったが、今回は状況が違った。ただ一方的に話す授業に終始した八月一日は、一人相撲を取らされたようで勝手に疲弊してしまっていた。
「どうだい?芝庭は?」
一日目の授業を終えて所長室に報告をしに行った八月一日は、芝庭を教えることの前途多難さを口にした。
「そうか……、しかしまぁそこが八月一日刑務官の本領発揮ということになるんじゃないかね?何てったって教師なんだから」
うるせぇな、そんなことはこっちだって分かってんだよ。だがこんな刑務所で何かを教えるなんて、俺だって予想してなかったんだ。八月一日は悪態をつきたかったが、部下であるという立場とピッチリとまるで三日に一度床屋に行っているかのごとく整った所長のスポーツ刈りが、それをすることを許さなかった。
「まぁ壁があるだろうがね。生徒と教師でもないし、何より君はホラ、芝庭をぶん殴って逮捕した人間だから」
「そうですね、普通の関係ではありませんから……。」
うん、と所長は頷くと立ったままで湯呑からお茶を啜った。
「まぁ君に関しては特例として、君の思うようにやってみたらどうだい?」
「自分の思うように、ですか?」
「そう。刑務官という立場が障害なら、他の刑務官とは違う態度でアプローチしてみても結構だよ」
「はぁ……。検討してみます」
確かに、刑務官然としていては教師になれないなとは思っていた。しかしそれからどうすればいいのだろうか。八月一日はそれから芝庭を教えつつ様々な本を読み漁ってみた。教育論はもちろんのこと、教師モノのテレビドラマや果ては育児書にも手を出し、芝庭と接する際はどういう話しかけ方で芝庭が話しやすそうにしているかつぶさに観察した。しかし、それでも芝庭は八月一日に打ち解けようとしなかった。
「全然ダメだね、アイツ完全にこっちを無視してやがる……。」
金曜日の夜、習慣になった
「そっか……やっぱり難しいんだ?」
「難しいどころの騒ぎじゃないよ。もうあれはアレだ、親の教育から見直すレベルなんじゃないかな」
「そうなんだ……。」
「やっぱり教師と生徒の関係なんて作れないだろ、俺もかなり勉強したんだぜ?」
「先生ならイケルと思ったんだけどなぁ、結構人気あったし」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、現実アイツとのコミュニケーションが上手くいってないからなぁ……。大体アイツ根暗なんだよ、いつもボーっとしてるし他の受刑者とも話さないしな、ホントにとっつきづらい」
「でもそこは先生なんだからしっかり向き合わないと」
「身も蓋もないこと言うなよ……。」
「………あのさ、先生」
「ん?」
「八月一日先生って結構人気あったと思うのね、でもさ先生のこと、嫌ってるって言ったら言い過ぎだけど、嫌がってる生徒もいたんだけど、そういうの知ってた?」
「本当?衝撃の事実だなソレ、ショックだよ」
「……うん。でね、嫌ってた人達の理由ってのが……何ていうのかな、八月一日先生はなれなれしすぎるところがあったと思うんだよね」
「そうか?」
「だってほら、女子はなかったけど、男子のこととか簡単に下の名前で呼んだりしてたじゃない。辻村君のこと「雅之」とか……」
「ああ、まぁあれは親しい男子にだけどね……。」
「そういうのって、自分がやられてなくても躊躇する人結構いると思うよ。辻村君とか私のグループはそうでもなかったけど、嫌がってる女子もいたし、うざがってる男子もいたんだよ」
「きついな……。ていうか、今になってそんな告白しなくたっていいじゃないか」
「ごめん。でもね、もしかしたらアイツもさ、そういったグループの子なんじゃないかなって……。」
「そうか……、ちょっと接し方を根本から考え直さなきゃな」
「そだね。あと、何か親しくしてくる割には先生って壁がない?」
「え、そんなことないだろ?ある?壁とか?」
「う~ん何ていうのかな、……先生さ、実家どこだっけ?」
「……え、どうしてそんな事聞くんだよ?」
「ホラ、先生そう言う自分のこと聞かれたときに、すぐに答えずにワンテンポ置くんだよね、いっつも」
笑って口の中が乾燥したのだろうか、陽香が数回咳をした後何かを飲んでいる音が聞こえた。「大丈夫か?」と聞こうとしたが、しかしその問に対する陽香の答えはいつも決まっている。
「自分のこと何か隠そうとしてるように感じちゃうんだよ、いっつも。それが壁みたいになってて……何か真面目に接してもらってないんじゃないかって気分になっちゃうんだよね」
「いやぁ……お前達、そんな目で俺を見ていたのか……。」
「もちろん、みんながそうってわけじゃないし、わたしも何となく今そう思っただけなんだけどね。ただ、先生ってちょっと良い意味でも悪い意味でもミステリアスなところがあったから」
「ミステリアスねぇ……。」
八月一日がそう言ったところで電話口から、「ちょっと夏目さんっ」と口調も声色も年配の女性の声が聞こえてきた。安静にしていなければならない陽香が、立ちっぱなしで病室から離れた場所にある電話を使っているのが看護師に見つかったのだ。
「あ、ヤバイ。じゃあね先生また来週っ」
「お、おう。じゃあ……」
最後まで言う前に電話は切れてしまった。八月一日は、もう繋がっていない電話の向こうで、年配の看護師にこっぴどい説教を受けている陽香の姿を想像した。
八月一日は安物のクッションに寝っころがりながら陽香との会話を反芻する。八月一日は仲の良い生徒は仲良くなってそれ以外の生徒はそれなりにやっていれば良いと思っていたし、実際にそれでクラス内でうまくやっていたように思っていただけでなく、不覚にもそこそこ自分は良い教師なのではないかと思い始めてしまっていた。教育実習の最後の日、生徒達から花束を渡された時には、教師としての階段の踊り場に立ったような錯覚すらあった。だが、陽香の言葉が頭の中で反響し、八月一日のバランス感覚を揺さぶる。考えてみると、八月一日はクラスの生徒の顔が全員思い出せなかった。30人いるはずなのに、一人一人の顔と名前を出していても22人以上が何度やっても出てこない。というよりも、自分に花束を渡そうと集まった生徒しか鮮明に思い浮かべられない。なんだ、結局俺は教師としてスタートラインにすら立っていなかったんじゃないか……。
どうして自分は教師になろうとしたのだろうか、記憶を辿ろうとするが八月一日は過去を思い出す時、いつものところでそれ以上の回想が不可能になる。暗闇の中、一本筋の道の途中に頑丈なバリケードが張ってあるのである。そしてそのバリケードの前には、その向こうに戻ろうとして柵に手をかけている子供が背中を向けている。
次の休日、八月一日は死亡した生徒達の家を訪問し仏壇に線香を捧げ、あの日「自分のせい」で命を落とした生徒達の両親に改めて謝罪をした。戸根木愛奈の両親は葬式の時ほど取り乱してはいなかったし、愛奈の母親はあの時の夫の言葉を言い過ぎだったと詫びさえしたが、八月一日は改めて、自分の軽率な行動が招いた結果だったと彼らに話し、そしてそれを受け入れた。
「今日はとりあえず授業は置いとこうかと思う」
芝庭の個別教師を初めて1ヶ月が過ぎようとした頃、八月一日は教壇に立たずに芝庭の隣の席に着席した。
「………。」
八月一日は「まぁ、そんな顔しないでくれよ」と言ったが、芝庭は全くの無表情だった。
「というのも、最近思ったんだけど、君と俺との間にはどうしようもない壁がある。しかし、それじゃあ何も前進しないんだよね。君はいずれここを出て行くし、その時のためには勉強をしてもらっておかないと、世のため人のため、何より君のためにならない。何で、まずお互いのことをもっと知ることから始めようと思うんだ」
「……いまさら」
芝庭が頬杖を付きながら、八月一日の逆の方を向いて呟いた。
「そう、今更だが、それをやらないとこれからも話が進まない。どうだい何か先生に要望やら質問があれば……」
「ここから出たい」
「うぅん、それは無理だな。権限を超えることはできないし。大体、出てどうする?」
「家に……帰る」
「確かに、家に帰りたいだろうな。こんなところ一刻も早く出たいでてそうしたいだろう。……だから君は早く出られるように模範的に振舞う必要があるし、出たら出たらで社会に適応できる人間になっておく必要があるんじゃないだろうか。そう思わないか?」
芝庭は下唇を少し突き出すようにして考え込んだ。
「出た後の事を考えよう。俺達にはスタートラインが必要だ」
「俺たちって、アンタも?」
「そう、俺達はまだスタートラインに向かって歩き出してすらいない。まずそこに向かって歩きだそう。俺も君も、HADが安定すればここを出ることになるわけだから」
芝庭が、八月一日を見た。いや、芝庭が八月一日を積極的に知覚しようとしたのはこれが初めてではなかっただろうか。二人が座る、季節はずれの強い日差しが差し込んだ部屋は、鉄格子の影が落なければただの教室のように見えたことだろう。どんなところでも窓があれば、何らかの形で明かりが入るのである。
「でも出られても、もうどうしようもないし……。」
「どうしようもないって?」
「………。」
「もしかして、自分はもう人並みの人生を送れないとか思ってる?」
「だって俺、もうあんだけ……。」
「確かに、君は人とは違う人生を歩むことにはなるだろう。でも、その前に人並みの人生というのが何かという事を考えないとけない。例えば……」
八月一日は日の差し込む窓を見た。鳥が何かを
「……例えば普通だとかそういう話をするなら、俺は養護施設で育ってるんだ。本当だぞ?生まれてすぐ捨てられたわけじゃなくて、ひどい話、離婚した親が両方共面倒を見きれないということで施設に預けられたんだ。普通子供を取り合うもんなんだけど、ウチの場合子供の押し付け合いだったよ。……何というか、全く親の顔を知らない方がよっぽど幸せだったかもしれない……。」
何かに背中を押されたように八月一日は喋り出していた。もう一人の自分が必死に止めようとしているが、駆け出した舌と唇はもう止まらなかった。
「別に荒れてたわけじゃないんだけど、身寄りのない俺みたいなのが付き合おうとすると、どうしても世間的には不良って言われる人たちと付き合ってしまうんだよね。それで、まぁ簡単な万引きとかで捕まっちゃったりして、そんな……みなしごで前科持ちって、就職でも結婚でも絶対不利なわけだろう?……で、少しでも真っ当になろうと教師になろうとしわけなんだ。ぶっちゃけて言うと、社会的信用がかなりあるからさ、教師って。だから、俺にとって教員というのは非常に都合の良い就職口だったんだよ」
芝庭は辛そうな顔で八月一日の話を聞く。だが渋い顔であっても、何の手応えの話よりも随分と話している分には救われるものがあった。
「けれどその道も当面は絶たれてしまった。……けどね、決してそのことに関しては俺は君を恨んでいはいなんだ。それどころか、いい機会だとも思っててね。正直、俺はさっき言ったように体の良い就職口としか思ってなかったから、あのまま教師になってもあまりいい教師になってなかったんじゃないかなって思うんだ。こういうと無理やりなポジティブシンキングのようにも聞こえるけど、一つの道を見出したようにも思っててね」
まるで飲み屋で駄弁っている、話の方向音痴の女性みたく、八月一日の話はヨロヨロと寄り道をしながらも一つの方向を目指す。これでいいのだ、今まで自分はまとまろうとし過ぎていた。八月一日は過去の自分の足取りを辿りながらそう思った。ガラス張りの教室の外では、坊主頭の青年たちが資格の本を読みながら時折八月一日と芝庭を気にしていた。この二人がただ話しているというだけでも、他の囚人達には特別の意味があった。
「……随分と遠回りだけど、俺は一つ一つ獲得していこうと思う。HADの安定化を待ち、君が社会に復帰する手助けをする、それらを獲得する過程で俺は失ったものを取り戻せるんじゃないかと思うんだ。遠回りだけど、どうしようもなく生まれ持ったものが違う俺にはそれが最も近道なんだから。そしてそれは、君も同じだと思うんだよ。芝庭、君は多くの人の人生だけでなく、自分自身の人生も損なわせてしまった。君も多くの物を拾い集めてる最中で回復できるんじゃないかな?」
芝庭はやはりしょげたような顔つきで八月一日を見ていた。
「できるかな……。」
「できるできないじゃなくて、やり続けることが答えなんじゃないかな?」
八月一日は「じゃあ授業始めるか」と、教壇ではなく芝庭の真ん前に座って教科書を開いた。
それから7年間、八月一日は芝庭を教え続けた。芝庭ももう出会った時の八月一日と同じ年齢になり、中学校の授業を受けるような年齢ではなかったが、二人は英語以外の勉強会や読書会を開き、豊富に本を読む機会のあった芝庭は、古い文豪の著作や哲学書にも進んで食指を動かした。一度、八月一日がよくそんなに難しい本読めるね、と冗談めかして言うと、芝庭はあまり分からずに読んでも後で経験がついてくるはずだと言い、それはもう外の世界に出た後の人生を考えているようだった。事実、模範囚だった芝庭は、少年法によりあと三年で仮出所が予定されていたのである。
「……先生、教養ってのは優しさのことなのかもね」
「どうした急に?」
「いやさ、色んな本読んでると思うんだけど、本当に分かるってことは、その場所に立てるってことだと思うんだ。もし色んな本を読んで色んな場所に立てるようになったなら、人はどんな人の立場にも立てるってことじゃないかな。それを何かきちんとした言葉にするなら優しさになるのかなって……先生耳掻かないでよ」
「ああ、ごめん全くその通りなんだけど、ちょっとびっくりしちゃってね」
八月一日は君は良い教師になれるんじゃないかなと言いたかったが、それはあまりにも芝庭に残酷過ぎた。
「色んな人のことがきちんと分かるようになったら……」
「その時こそ、君の本当の償いが始まるのかもしれないな」
芝庭は落ち着いた表情で頷いた。しかし、それはどういうことなのだろうか。本当に芝庭が被害者たちのことを理解し生きていくならば、その優しさというものは彼自身にとっては決して優しくはない試練を与えるのではないだろうか。一緒に読んだ『カラマーゾフの兄弟』の中に、無知の中にあった犯罪者が自分の罪を学んで知ることで、進んで死刑台に歩むというくだりがあった。恐らく多くの被害者が芝庭に求めるのは、そういった結末ではないだろうか。
「……ところで芝庭、あの花何か特別なケアでもしてるのかい?」
「ああアレ?ポインセチアだよ、あの赤さがキリストの血に例えられるんだって、何かイカすよね……」
「へぇ……いや確かあの花は冬がシーズンだったはずなんだけど、どうも一向に萎れる気配がないもので……。」
「………俺のHADさ……」
「はい?」
「物を元に戻すこともできるみたいなんだよね……」
「……え?」
「最近気づいたんだけど、ていうか、最近できるようになったのかな……」
「それは……」
「誰にも言ってない、だってもう、花を枯れないようにするぐらいしかできないし……。でも、もしこれを正しく使えることが出来たなら……。」
仕方ない感じで笑う芝庭だったが、しかしそのHADの意味の大きさに八月一日は驚愕していた。芝庭のPHADが、これまで知られているものと全く逆に作用させることができるならば、まさにそれはキリストの奇跡そのものではないだろうか、彼はこの世のあらゆる損なわれたものを回復できるのだから。それが本当の彼のHADのあるべき姿ならば、彼のHADは世界で最も祝福されるべきだ。八月一日はこの事をすぐに上に報告すべきだと考えた。芝庭のHADを使えば、多くの人間の命が救われる。そうすれば、彼の償いは誰しもが認めるところになるのではないだろうか。八月一日は眼前に現れた素晴らしい可能性に目を奪われてしまっていた。
しかしその可能性と思われたものは、八月一日が背負うものが戸根木愛奈ではなく、芝庭真生へと変えるきっかけでしかなかった。
上司への芝庭のHADの報告から五日後の休日明けに、八月一日は芝庭真生の教育係を外されることになった。何の前振りもない突然の通達だった。
「どうしてですか所長?彼には自分のHADが必要なはずです」
「説明した通り、理由は言えんといっただろう。君を芝庭の教育係から外す。これはもう決定したことだ」
八月一日がこの刑務所に赴任してから三人目の所長は、一旦丸刈りにした頭をただ伸ばしただけのような髪型の、一見するとどちらが囚人かわからないような男だった。その所長は赴任したばかりで、一切の八月一日への部下としての情がなかったのだろう、全くの冷徹な物言いだった。
「……では、アイツには、芝庭には何と説明すれば良いんですか?分からないじゃ通らないですよね?」
しかし、その八月一日の質問に対して所長は一旦目を落として沈黙した。
「所長?」
「……芝庭真生は、もうこの刑務所にはいない」
「………どういうことですか?」
「……そもそも、原因は君の報告だからな?」
「自分の?」
「そうだ、君が芝庭のHADを報告にあげたからだ。大変な可能性を持ったHADだと。しかし研究者や上の人間は、君以上に芝庭のHADが重大なものだと判断したんだ。あの報告を研究所に挙げた後、彼らから即座に、それこそ一時間後に詳しく研究をしたいと連絡してきたんだ。……よって、芝庭はそのまま研究所預かりとすることに決定した」
「自分は決して、彼を研究対象にしてくれなんて言った覚えはありません。多くの人間を救えるとは言いましたが……」
「正しいことをやって正しい結果が出てくるもんじゃないだよ、八月一日刑務官。私だってそんなつもりで情報を送ったんじゃない、しかし彼らはそう取らなかったんだ」
「大体、芝庭の意思はどうなるんです」
「………。」
「それに何故自分に何も言ってくれなかったんですか?」
「落ち着け……君は単なる一刑務官に過ぎないんだ、施設全体の問題を逐一報告する必要もあるまい」
業務に熱心というわけではなかったが、上の人間には歯向かわない八月一日だった。だが、その時初めて彼は上官に、いや年上に対して牙を剥いた。
「ふざけんなっ、俺がいない時じゃないと反対されるって分かってたんだろ、こんなの騙し討ちじゃないかっ」
「……口に気をつけろ八月一日刑務官」
「はっ、気をつけろだ?そもそも好き好んでやってる仕事じゃないんだ。今更怖いものなんかないんですがね?」
そう言いながら八月一日が自分のもとへ近づいてきたので、所長は部下の反抗に額の血管をミミズのように蠢かせて怒り、執務用の机に置いた電話機に手を伸ばそうとした。
「騙し打ちの次は頼れる子分を呼び出すつもりですかい。その受話器を取ってみるといい、ここは刑務所なんだ話が早い、このまま服役してやるのも悪くありませんねっ」
「貴様ぁ……」
「芝庭をアンタどこやったんだっ、言えよ!服役してやるってのは脅しじゃあない!」
「たかだか刑務官の補助に過ぎんお前が、今ここで跳ね回ったとしても状況はピクリとも動かんぞ?」
「そうですかい、最低でもアンタに一生もんの怪我くらいはさせられるつもりですが?」
所長の体が一瞬、怒りでパンプアップしたようになったが、すぐに平静を取り戻すと受話器にかけた手を離し、体を落とすように執務椅子に座り込んだ。何年も前から使っている椅子だったので、ミシリと椅子全体が鈍い音を立てる。足を組んで深く座り込み、その上で掌を組みながら八月一日を睨んで言う。
「場所は私も正確に知らない、本当だ、遥か上の決定なんだ。もう我々の手に、届かない所に行ったんだよ、芝庭は」
「そんな……あまりにも勝手すぎます」
「私だってそう思うさ、人間をなんだと思ってるんだと言いたい。しかし私の、私達の力ではどうしようもないことなんだ。」
「……この事をマスコミに発表します、納得がいきません」
「そんなことをしてどうする?」
「そりゃあ……芝庭を取り戻すんですよ」
「HADの受刑者が研究施設に送られたことくらいで、マスコミが味方して世論が騒ぐと思うか?それにあの芝庭だぞ、日本中がアイツを悪魔か何かかと考えてるんだ。大体、研究施設に行ったからといって解剖されるわけじゃあるまい、刑務所より人道的だとか言う奴らもいるだろう」
「以前のように、薬物を投与されたり、常に銃を構えた人間がそばにいる状況が異常じゃなくてなんだというんです?少しでも改善される見込みがあるならそれを利用します」
「……それが芝庭のためになると思ってるのか?」
「……え?」
「何年もかけて芝庭を教育し、HADも安定化の兆しが出始めて、あと数年で苗字を変えて仮出所も叶うところだったんだぞ?そのアイツをまた世間の注目に晒すのか?八月一日刑務官、進むも引くもアイツのためにはならんのだぞ」
「……しかし、じゃあ、どうしろってんです?」
「……せめて、その研究所では、彼がここより良い生活を送ることを祈るより他仕方ない……。」
善意だと思っていたことがまるで真逆の、芝庭への裏切り同然のものになっていた。そもそも、報告に上げる前に芝庭へ相談するべきだったのではないか。きっと芝庭は自分を恨んでいるに違いない……七年間の関係が、たった一つの踏み外しで粉々に瓦解してしまったように八月一日は感じていた。
「……自分の無力さを恥じるな。ことが大きすぎるのだからな」
その何気ない所長の慰めはしかし、八月一日にあと数十年消えることのない焼印を残した。
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