八月一日新一、四/石壁の中の憂鬱
八月一日はそのために配属されたので仕方ないといえば仕方ないのだが、つい先日に一〇〇人近い市民を虐殺し、さらに自分の教え子を殺した人間と同じ部屋にいなければならないというのはかなりのストレスだった。八月一日が入室すると職員たちは「頼みますよ……」と八月一日に囁き、芝庭を拘束具から開放して彼を一般の拘置所へと移送させた。八月一日がいるからなのかそれとも元々使おうとしなかったからなのか、移送中は特に大きなトラブルもなかった。
「………。」
芝庭は移送中の車の中、八月一日がショッピングモールで自分を殴り倒した人間だということに気づいたのだろうか、
「何を睨んでいるんだ」
「山下さん、ちょっと……。」
八月一日と一緒に移送の車に乗り込んだ先輩の刑務官が芝庭を叱りつけた。芝庭がHADを使えないということを知ってのことだろうが、正直、事前に川上以外のHADとの実験をふまえた後とはいえ、八月一日自身も自分のHADに未だ確信がない状態だったので、八月一日はその同僚の態度に肝を冷やしていた。
意味深な笑顔を浮かべてが数秒すると、芝庭は自分の変化に気づき改めて八月一日を見た。その表情で、八月一日は芝庭がHADを使おうとしたのだということが分かり改めて芝庭に恐怖したが、それと同時に、自分のHADが芝庭に有効だということが確信に変わると、その恐怖は怒りに変わっていった。こいつ、これだけのことで人を殺そうとしたのか……、自分の教え子を殺したこともあり、今にも掴みかからん程の憎悪を感じ始めた。
「……気づいたか?」
八月一日が言うと芝庭は顔を背けた。先程まで不敵だった芝庭の顔は、いつの間にか自信を失ったただの15歳のものになっていた。
「八月一日刑務官?」
「山下さん、こいつ、自分に気づいたみたいです……。」
「おお、そうか。芝庭ぁ、流石のお前も成す術がないようだな。彼はなぁ、お前のためにわざわざ引き抜いてきた人なんだ。HADを使えなくするっていう、お前らの天敵みたいなもんさ。……以前お前は彼と会ったことがあるんだが、覚えているか?ショッピングモールでお前を現行犯逮捕した人だよ」
芝庭は、まるで空気を抜いたバルーンのように一瞬で小さくなった。空気が抜ける音がしたのではないかというくらいだった。首が座っていないかのようにだらしなく首をもたげ、その頭は車の振動でフラフラと揺れ始めている。
コイツに思い知らせてやろう、自分がどれほどのことをやったのか、HADを持ってるからって周りにビビられて調子に乗ってるようだが、俺がいればお前なんざ単なるガキなんだよ、しっかり刑務所で後悔しやがれ、その前に日本中の見世物だがな、八月一日は教え子達の仇であることと自分の境遇への怒りも相まって、移送されている間、ずっと芝庭を睨み続けていた。
三ヶ月後、芝庭に対する判決が下り、HAD専用の少年刑務所にHADが安定化するまで、そして安定化した後に一般の刑務所に送られる事が決定した直後、八月一日が所長室に呼び出された。そこには所長と一緒に、八月一日を刑務官に引き抜いた千堂が控えていた。自分の人生を狂わせた人間でもあるので、最初の頃ははあまりこの男に会うのは快くなかったものの、裁判を通した今ではもう顔を合わせることに何の抵抗もなくなっていた。
「お久しぶりです、千堂室長」
「久しぶり、というよりも裁判で顔を合わせていたから、話すのが久しぶりといったところか……。」
「そうですね……本日はどうしてまたこちらまで?」
「いや、今日は君に用があってきたんだよ」
「自分にですか?」
千堂が自分に用がある、それはあまり八月一日にとっていい響きではなかった。彼が自分に用があるということは、また人生のコース変更を強いられる可能性が非常に高いからだ。しかしこれ以上に自分が落ちるなどとはもう考えられない、自分は教育者から一番遠いところに行ってしまったのだから……。八月一日は若干開き直っていたが、千堂の話は意外なものだった。
「実は、君をここの刑務官に推挙しておきながらなんだが、君の力が常に必要になるのは正直芝庭に関してだけなんだよ。そもそも、HADの人間の犯罪者自体が少ないことに加えて、そこからさらに君の力が必要となってくるのはよほど希なケースだ……。」
人をここまで巻き込んどいてこのおっさんは何言ってんだ?ここまで来てお役御免となったら、ただ単に自分は教職をただ捨てただけになるじゃないか、八月一日は軽く作り笑いをしていたが、その目には苛立ちがあった。
「で、そこで相談なんだが……君は確か教職志望だったね」
「ええ、まぁ……。」
「そこを考慮してだ、君を芝庭の刑務所内における教育係になってもらおうというのだが、どうだろうか?」
「はい?」
千堂も所長も至って真面目な笑顔だったが、そもそもあんなシリアルキラーに教育など必要あるのだろうかと、八月一日には全くの悪い冗談にしか聞こえなかった。
「あの、おっしゃってる意味が少し……」
「いや、急なことだしそうだろうね、いささか混乱するのも無理はない。ただね、ここは特殊刑務所とはいえ、メインは少年が服役する場所だ。受刑者たちの更生も考えなければならないんだよ。そしてあの芝庭は、大量殺人を犯したとはいえまだ十五歳だ、死刑は執行されない。だから、法律上彼は保護更生されるべき存在となるわけだよ。そこで、君の教師としての力を貸して欲しいわけだが……」
「冗談じゃない。彼は自分の教え子を殺した奴ですよ?生き残った子も未だ病院生活だ。正直彼を殺しても殺したりないんです。その自分に教育係ですか?いい加減にしてください。自分はただでさえ教職の道を捨ててここで勤務してるんです。これ以上僕に望まないでくださいよ」
HADを貸せと言われと思ったら次は教師になれ、あまりにも勝手に人の人生を弄ぶ千堂に、自分の上司ではあったが八月一日は声を荒げ噛み付いた。
「しかし教員に比べたら、現状かなり待遇はいいはずだが……」
「給料の問題じゃないでしょう、こういう場合」
千堂は「そうか……」とだけ言うと、所長と顔を見合わせた。
「お話の方が以上でしたら失礼させてただきます」
八月一日は所長室の戸を閉めるなり、「馬鹿にしやがって」と毒づいた。
八月一日が腹を立てる理由に行動の制限もあった。刑務所の近くの寮に住まわされ、その上休みも長期は取れず、取ったとしてもあまり旅行などの遠出ができないという、まるで自分自身が囚人のような生活だったからだ。もちろん、何度かやけを起こしてやめようとは思った。だが、実際に芝庭事件の被害者遺族たちを裁判で目の当たりにして、そして裁判で事件の全貌を聞くにあたり、事件の大きさと深刻さを実感したがため、八月一日はこの事件を収束させるためには「自分の力こそ」が必要なのだという大きな、しかし「しょうがなく自分でしかありえない」という消極的な相反する義務感に突き動かされていたのである。
その日勤務が終了した八月一日は、1Kの寮に帰ると電話を待っていた。決まった曜日の時間に、決まった相手からかかってくる電話だ。
「もしもし、八月一日です……。」
「先生わたし、元気してた?」
電話の主はあの事件の時生き残って、そして唯一回復して生きていこうとしている
「先生はいつでも元気だよ。君こそどうだい、容態は?」
「うんそこそこ……。少しづつ回復してるけど、先生はもう「これ以上」はないんだって……。」
「そうか……。」
「……テレビで見たよ。裁判、終わったみたいだね、お疲れ」
「先生、ほとんど何もしてないけどな……。」
「そんなことないよ。先生のおかげじゃない、無事に裁判できたの」
「そうかな……。」
「そうだよ」
陽香は声こそは明るいが、話すのもかなりしんどいようだった。体を死の一歩手前まで老化させられ、一命こそは取り留めたものの、体は老人のもののようになり歩くのも指の一部が損壊してしまったため病院の手すり伝いにしか出来ないほど弱ったままだった。そんな彼女の気丈な声を聞く度に、八月一日の耳には過去の業が響わたり、自分の行動の結果がどれほど人間を苦しめているのか改めて痛感させられていた。事件直後は陽香の病室を訪れていた八月一日だったが、やはり戸根木愛奈の両親と同じように、彼女の両親も八月一日にあまりいい顔をしなかったので、積極的には足を運びづらくなっていた。
「これからは、その、やっぱり刑務官続けるのやるの?」
「うん、ああ、そうだね。裁判は終わったけど、逆にこれからが刑務官としての本番になるからね」
「先生はこれからも大変なんだね……。」
「まぁ……な……。」
先生という言葉を陽香が出す度に、本当はそこが自分の居場所だったのだと八月一日は思う。生徒の名を呼び生徒達から「先生」呼ばれる。高い志があったわけではなかったが、こう遠くにいると、そこがとても暖かく明るい場所に見えてきてしまう。八月一日は昼のことを思い出した。
「それがさふざけててさ、今日所長室に呼ばれたんだけどなんて言われたと思う?」
「なに?」
「芝庭の先生になってくれってさ、教員免許とってるからね。よりによってアイツだよ、その、宮崎や綾瀬達を殺したさ。ありえないよね」
「そう、なんだ……。」
同意してくれると思ったのに、陽香はあまりにも微妙な返事をする。もしかして刺激が強過ぎたのだろうか、八月一日は「どうかしたか夏目?」と様子を伺った。
「先生はどうするの?その話、受けるの?」
「そんなわけ無いだろ?」
「そっか……。そうだよね」
「……そうだよ」
陽香が何を気にしているのか気になったが、あまり無理をしてはいけないということで八月一日は電話を切ることにした。電話は週に二回、決まって火曜日と金曜日だった。共に、陽香の好きなゴールデンのテレビ番組がない日だった。
刑務所に収監された芝庭を八月一日が迎えると、芝庭は「またアンタか」という顔をした。それはこっちもだよ、と無表情で一瞥すると八月一日はそのまま無言で芝庭の身体検査と牢屋の移動まで付き添っていった。もちろん四六時中芝庭と一緒にいることは不可能なので、芝庭は刑務所内でも特別に、彼のHADでも簡単に破壊されない強固に作られた部屋に入れられ、監視はカメラでなされていた。そして八月一日はそれ以外の、移動、食事、入浴、運動、授業や作業の時に、HADを使用して役目を果たすことになっていた。
「アンタ、俺の介護係なわけ?」
収監されて一週間が過ぎた頃、運動場のベンチで遠巻きに他の受刑者たちを眺めていた芝庭が言った。八月一日のHADの範囲を計測した結果、有効範囲は芝庭のHADの効果範囲を凌ぐ広いものだということがわかっていたため、そこまで密着する必要もなかったのだが、用心のためということで八月一日の配置は常に芝庭と会話ができるほどに近くに定められていた。
「そうだ、光栄だろ?専属の人間つけてつきっきりで「お守り」をしてもらえるんだから」
芝庭が鼻で笑った。裁判で彼が犯した具体的な罪を聞き、何よりも自身がその事件現場に居合わせたのだが、こう接していると単なる普通の、どこにでもいるひねた中学生という印象しか受けない。
「大変だね、四六時中俺みたいなのと一緒にいなきゃいけないなんて」
「私しかできないからな……。しょうがない」
「……俺が安定期迎えるまで一緒にいるつもり?」
「つもりも何も実際そう決まってる。お前のHADが安定化するまで、私もここの職員だ」
「うへぇ」
「えずきたいのはこっちだ……。」
遠くで金属バットが打球を捉える音がした。白球が空に吸い込まれていく。塀の中でなければ随分とのどかな光景だ。八月一日は大きく深呼吸をし、体の緊張を緩めた。
「俺も運が悪い……。」
「どうしてだ?」
「アンタがいなければ、俺はこんな所にいなかった」
「……悪が世にはびこるものか。天罰だ、人間の行動ってのは必ず反動として返ってくるもんなんだ」
八月一日がそう言うと、芝庭はそれを鼻で笑って言う。
「百人近く殺して死刑にならないなら、神様とやらは随分と気まぐれなんだな……。」
「勘違いするなよ、お前の償いはこれから始まるんだ。お前の言う神様とやらがお前を生かしてるのは、お前にその償いを試練として与えてんだよ」
また芝庭は不服そうに黙り込んでしまった。
「……野球、やらないのか?」
「……どうやって」
「どうやって?簡単だろ?ボールが来たらバット振ったりキャッチしたりして、たまに投げ返せばいいんだ」
「そうじゃなくて……」
「どうやって一緒に遊べばいいか分からないのか?」
「………。」
「……私が言ってきて口をきいてやるよ」
「いいよ、そんあダッサイ真似しなくて……。」
「一緒に遊びたいのがダサいと思うなら別にいいさ」
「俺は他とは違うし、行くと他の奴らがビビるだろ」
「ここでは単なる受刑者の一人だ」
妙に芝庭が物欲しそうな顔をしてるので、少し揺さぶってやろうかと八月一日は「言ってくるぞ、私が言えば向こうも無下には断れないだろうし……」と、野球をやっているメンツの方まで思わせぶりに行こうとすると、芝庭は焦って「いいって」と八月一日を引き止めた。しかしそれを無視して八月一日が行くと芝庭はベンチから逃げ出してしまった。
「おい、待てよっ」
芝庭と八月一日の様子が気にかかっていた他の看守たちは、八月一日が慌てて芝庭を追いかけていたので、何事かとその場に駆け寄って来て芝庭を抑えようとした。八月一日が事情を説明すると、看守たちは「驚かせるなよ……」とその場を去っていく。
「逃げることはないだろう」
「余計なことすんなよ……。」
「怖いのか?」
「は?何が?んなわけ無いだろっ」
強がっていた芝庭だったが、その表情には異常な恐怖が浮かんでいた。なぜ人と接するのが怖いのだろうか。八月一日はこの少年にはまだ裁判でも明らかになっていない闇があるように思えた。
その日の入浴の時間、芝庭は他の受刑者から股間が見えないように気を配りながら体を洗っていた。最近の若者は温泉や銭湯が苦手だと言われているが、芝庭も例に漏れず自分の局部を晒すことに抵抗があるのだろう。そんな芝庭に他の受刑者が通り過ぎる際に、うっかりを装って手に持っていた洗面器を芝庭の頭上に投げ落とした。
「おい、加納っ」
「すいませ~ん」
八月一日の隣にいた看守にどやされて、
「こら!お前ら何やってるっ!」
看守と八月一日は掴み合いになりそうな二人を止めるため、芝庭と加納を羽交い絞めにしようとしたが、加納を抑えようとした看守は泡でぬめった全裸の加納を抑えることができなかった。倒れている芝庭と加納の間に八月一日が割ってはいると、加納が倒れている芝庭に怒鳴った。
「くたばりやがれこの人殺し!テメェのせいで俺らがどんな目にあうかわかるかっ、お前みたいなのと一緒にされると迷惑なんだよ!」
八月一日に守られ、うつ伏せに倒れていた芝庭が顔を上げ「お前も殺してやる……」とにじり出すように言ったが、加納は嘲りながら「やってみろ、知ってんだぞ今お前がHAD使えないってな。テメェなんざ単なるガキなんだよ!」と激しく罵った。
看守が「やめろ加納っ、懲罰房行きだぞっ」と叫んで制服を濡らしながら再度羽交い絞めにし、関節を外されるくらいの勢いで締め上げられると、加納は呻き声を上げながら共同浴場を退場させられた。芝庭は倒れて俯いたまま、口からシャンプーのものなのか唾液のものなのかわからない、血の混じった泡を口角につけながら「殺してやるっ殺してやるっ」と呻いていた。八月一日にはそれがもう、ただの救われない哀れな少年の虚勢にしか見えなかった。
共同浴場での騒ぎから無事就寝時間を迎え、八月一日は勤務終了の着替えの前に喫煙室へ立ち寄った。教師になったらやめようと思っていた煙草だったが、ここに配属されてからは余計に数が増えてしまっていた。
「大変だったらしいな八月一日君」
先に控えていた、剃っても剃りきれない濃い青髭を蓄えた先輩の看守が八月一日が入室するなり言う。
「そうですね、あの程度の喧嘩で済んでよかったですけど……。」
「それよりも聞いたかい?芝庭の部屋を清掃してた人間が言ってたらしいんだがね……。」
急に下卑た笑いを先輩の看守が浮かべた。
「どうしたんです?」
「アイツ、ジャンプの漫画でマスかいてたらしいんだわ」
「なんでわかったんです?」
「漫画の一ページが破かれてたんだよ。で、そのページにはどうも女の子の裸が描かれてたらしくて。間違いなくかいててザーメンが本にかかったんだろうな。支給の漫画破くのは規則違反なんで色々追い詰めてやろう。何て言い訳するのか今から愉快だわこれ」
「ははは……」
金曜日の夜になり、その夜も八月一日は夏目陽香からの電話を待っていた。流石に毎週毎週電話するのも話題に欠ける職場だったが、八月一日にとっては彼女と話すのが一つの自分の償いのようになっていた。ベルがなると1コールも待たせぬまま八月一日は受話器を取る。
「はい、八月一日です」
「先生こんばんは。別に言わなくていいでしょ?この時間はわたしってわかってるんだから」
「いやまぁ、念の為にね」
「ふふ、最近どう?元気してる」
「あれからまだ三日しか経ってないし元気だよ、夏目こそどうだよ?」
「わたしも、“soso”って感じだよ」
「お、ちゃんと覚えてるね。嬉しいよ」
「こんなの九官鳥でも言えるし」
八月一日は「そりゃそうだ」と電話口で笑ってみせた。相変わらず陽香の口調は明るいが、声を出すのがしんどそうな様子だ。
「仕事の方はどう?」
「そうだな、芝庭と本格的に接し始めたんだけど……こういうの聞く?」
「う~ん、そうだね。でも先生の仕事ってそれだからね……。」
「そうなんだよね、もしアレならほかの話題でも……」
「ううん、大丈夫。わたしもあいつがどういう奴か知りたいってのもあるし……。」
「いやぁ、結局HADがなかったら普通のやつだよアイツは。クラスで目立たないような、何でもない奴さ」
「そっか……。」
八月一日は芝庭が人の輪に打ち解けられないことや、食べ物の好き嫌いが多いこと、受刑者と喧嘩してのされたことや、具体的なことは言わなかったが漫画の某ページを熱心に読んでいたことなど、芝庭の特徴を陽香に教えた。
「こういうのはホントは関係者以外に言っちゃいけないんだけどね……」
「ダメじゃない先生」
「でもホラ、夏目はある意味関係者だからさ」
「なにそれぇ」
陽香は笑うと咳き込んでしまったようだ。電話口の声が割れていた。
「大丈夫か夏目?」
「大丈夫、やだね年寄りは。体が思うようにならないから……」
電話口で表情を見ていないので、陽香が本気でそう言っているのか冗談で言っているのか八月一日には分からず、どう返していいのか分からなかった。
「……ねぇ先生」
「ん、どうした?」
「ほら、この間言ってたじゃん、芝庭の先生をやるって……。」
「ああ、あれね。それがどうしたんだ?」
「うん。あれさ、やってみればいいんじゃないかな?」
「……え?」
電話口の八月一日の声が上ずった。
「だって何言ってんだ、アイツだぞ?あの……」
「だからだよ」
「だからって……?」
「アイツだからだよ、先生がアイツを更生させてやるんだよ」
「そんな無茶苦茶な……」
「無茶じゃないって、だって先生は教師なんだよ。わたしはまだ先生のこと先生だと思ってるし、それに……他のみんなだってそうだよ。みんな先生が先生やってる方が嬉しいはずだし……先生が先生をやることでアイツを更生できたなら、マナちゃん達もきっと喜ぶよ」
「俺が……あの芝庭を?」
「……それが先生のできる、みんなの仇討ちだと思う」
「仇討ち、か……。」
「もちろん、先生がいやなら無理にとか言えないけど、でも八月一日先生は先生になりたかったんだよね」
「いや、まあそうだけど……」
「教育実習だけだったけど、わたし先生はきっといい先生になるって思ってたよ。だから信じてる。きっと先生ならやれるって……。」
八月一日は教え子の思いもしない提案に混乱したが、それよりも電話口から聞こえる、残された体力を振り絞って自分に訴えかけてくるかつての教えの言葉に呼吸を荒くし、声がつまりかけていた。自分の役目は、ただ気まぐれで与えられたようなHADではなく、自分で選択し掴み取ったものでこそ果たされるのではないか、八月一日の中にくすぶっていた教師としての使命感が再燃し始めていた。
八月一日は所長に掛け合い、芝庭の教育係を買って出たのは次の日のことだった。
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