八月一日新一、弐/狂転する人生
「八月一日センセー、彼女とかいるんですか?」
職員室まで来て「英語が分からないんです」と敢えて八月一日に勉強を聞きに来たはずの
「え……それは、最初に言わなかったっけ?」
一回り近く年が離れているとはいえ、不意の耳の刺激に戸惑いながら八月一日は答えた。
「う~ん、あれからちょっと経ったから、ひよっとしたら新しく出来ちゃったのかなぁって……。」
「この時期の学生は忙しいからさ、そんな暇ないよ」
「そっかぁ、センセーってモテそうだから意外と本当はいるのかなぁって思っちゃったんですけど……。」
声もさることながら戸根木愛奈があまりにも顔近づけているので、八月一日は周囲を気にしながら「ええっとね、ingは現在進行形以外にもそれをつけることで動詞を名詞化する役割があってだね……」と、さも勉強を教えている体を示したが、その対応が余計に二人のやり取りを目立たせる。
多少は女慣れしている八月一日とはいえ、そんな少女の危ういアプローチには思いもよらない事態だったので、舌を焼くほどに熱い吐息が漏れてしまった。自分が異性受けすることを知っている戸根木愛奈は、湿ったような目つきでじっとりと八月一日を見つめ、そんな困惑している八月一日を楽しんでいるようだった。
「……センセーさ、今度デートしない?」
「へ?」
「やぁだ、みんなで一緒に買い物行こうって話ですよ、集団デート、ど?」
「あ、ああ。まあそれなら大丈夫だと思うけど……」
「じゃあ約束ね。他の人に内緒だよ、特に担任の吉村には。アイツ、すっごい嫉妬してるみたいな目でセンセーのこと見てるんだもん。絶対反対するに決まってるしっ」
「おおう、分かったよ」
「じゃね」
そのまま戸根木愛奈は別れ際にキスでもするのではないかという勢いでギリギリまで近づいて、綺麗に細かく破いたルーズリーフを置いたまま颯爽と職員室を出て行った。戸根木愛奈が残していったそのルーズリーフの端には、彼女のものと思しき携帯電話の番号が、ピンクのボールペンで描かれたハートの真ん中に書かれていた。
「……八月一日先生」
担任の吉村にその様子を見咎められた八月一日は急いでそのルーズリーフを鞄に隠し、吉村からこれまでウチでは問題が起きたことがありませんし、貴方を信じていますが万が一ということがあります、という小言を入れられてしまった。しかしそんな説教も上の空で、いやぁ教師って美味しすぎるだろ……と鞄に隠し入れた教え子の電話番号ばかりに気を取られていた。
一方の戸根木愛奈は教室人戻った後、自分の振る舞いでどれほど八月一日を困惑させたか自慢し、結局大学生って言ったって子供かもねぇ……などと言いながら自分の武勇伝を友人グループに語ってみせていた。
5月28日、八月一日は約束通り戸根木愛奈のグループと、学校から4駅離れた郊外にあるショッピングモールへの買い物のために、駅ビルの時計台の前で落ち合っていた。時計はちょうど13時を回ろうとしているところだった。
愛奈は集団とは言ったが、あの様子からだと当日になって二人きりになったという事態もありうるので、八月一日は若干の期待もしていたのだが、待ち合わせ場所には愛奈以外にも、宮崎梨花と綾瀬佳子、そして
「センセー図星でしょう?」
「馬鹿いってんじゃないよ、戸根木が「みんな」でって言ってただろ?」
「あれ、照れてる?」
八月一日を手玉に取ることに快感を得ているのだろう、愛奈は無邪気に戸惑っている八月一日を他の三人に見せつけていた。もちろん、八月一日はただ純粋に照れてるだけではなかった。4駅離れているとはいえ誰が見ているかわからない。「センセー」と呼ばれることに自意識過剰になりながら八月一日はおっかなびっくりしていたのだ。
一応八月一日は、今日は部活のためのスポーツ用品を買うんだから、そんな浮ついたカッコで来るとか思わなかったんだよ、と誤魔化してながらショッピングモールに早足で向かっていく。
「そういえば、先生って出身どこなんです?」
小柄な夏目陽香が、チョコチョコと小走りで先を急ぐ八月一日に並んで話しかける。
「……出身、どうして?」
八月一日は意識的に目を向いて笑顔を作るように努めた。
「以前、K川だって言ってたけど、この前男子に机の上を「なおし」なさいって言ってたじゃないですか?あの片付けることを「なおす」っていうの、福岡の方言だと思うんですけど……」
「ああ、あれね……うん、いや生まれは福岡なんだよ。小学校ぐらいまで……いたのかな……」
「小学校「くらい」まで?」
「うん、本当に子供の頃だよ?その頃のクセが……出たんだろうね……。」
「そうなんですか……。」
陽香は何故か八月一日の笑顔が強ばっていくのを感じていた。
「あ、陽香とセンセーなに仲良くやってんの?」
二人がしどろもどろに話しているところに愛奈が首を突っ込んできた。
「別に仲良くってわけじゃ……」
「なんかさぁセンセーって陽香のことやたらチラチラ見てるよねぇ」
「んなことないよ」
「隠してもダメだから、実はわたし、HADなんだ」
「……嘘つくなよ……」
「ほんとぉだって、だってわたし、人の心が手に取るようにわかっちゃうんだもん、これって絶対HADってことだよね」
八月一日と陽香に意気揚々と話している愛奈だったが、後ろにいた梨花と佳子は「また始まったよ……」という顔でそれを見ていた。戸根木愛奈はそういう資質があったというよりも、ただ単にグループの中で自己主張が強く、他のメンバーが彼女の意見に反論しても「絶対にそうだって~」と聞き入れないだけだったからだ。
「でも、大丈夫かな?」
陽香が愛奈の言葉を引き金にして、不安そうな顔になった。
「どうした?」
「ほら、最近、事件起きてるじゃないですか、HADの。犯人行方不明だし」
「ちょっとぉ、陽香テンション下がるようなこと言わないでよ」
「だって……」
「大丈夫でしょ?大体アレS県での話だし、最近おまわりさんいっぱいいるし、それに、いざとなったらセンセーが守ってくれるんだよね。でしょ?」
「ああ?あああああ、うん」
確かにあの事件以来、K県周辺の主要都市のみならず、街のいたるところに警察官を見るようになっていた。しかし、テレビであの光景を見てしまっていた八月一日には本当に相対したならば、自分どころか彼らの装備もどうにもならないだろうとは思っていた。だが事件が起きているのはあくまで愛奈の言うように県外の話であって、あれだけの警察がマークしているであろう
駅ビルの時計が13時を周る。機械仕掛けのそれは時間と共に中央部分が開き、そこから楽器を持った金色の妖精たちがクルクルと楽器で演奏を奏でる仕掛けになっていた。果てしなく凡庸な、何の工夫もない仕掛けたちは無表情でくるくると回る。くるくると無表情に、何の躊躇いもなく時を刻む彼らは、無表情に一人の男の人生の狂転をも刻んでいた。
先生、みてみて、これ可愛くない?
それ、部活に着てくのか?派手じゃない?
そうだよ愛奈ちゃん、磯崎が絶対ダメっていうよ
いいじゃん、ダメだったら部屋着にするし
部活用のを買いに来たんだろ
つまんなーい、先生お揃いのやつにして買っちゃおうよ、色違いでさ
お揃いって……ジャージじゃないか
そ、ジャージでもお揃いなら着るのも楽しそうだし
じゃあみんなで色違い買おうよ
おいおい何しに来たん………何だ?何か人が逃げてる……
え?火事?ヤバくない?
いや、警報は鳴ってないし……
あれ、愛奈ちゃん何か変だよ?
変って……陽香達だって………何その頭、白髪?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます