【其の八】白衣の女とダージリン

 纐纈こうけつと暦の、お互いの何かを前提とした会話に違和感を八月一日ほずみは感じた。触れてはならない沈黙が室内を漂っていた。

「……そうかもね。人の気持ちを知るなんていいことじゃないかもしれませんね」 

 八月一日は机の上に目を落としながら言った。

「いや、本当にそんなことが多いかもしれない。……そうだねぇ、例え話をしようか。先生の親父の話なんですけど……」

 纐纈は驚きの表情は作らなかったが、軽く八月一日に向けた目をひん剥いた。

「先生の父親はねぇ、まぁ何と言ったらいいか、酒癖が悪くてですね。お酒が入ると直ぐに本音を言っちゃう人だったんです。だから、結構子供心に傷ついたこともありましたよ。……ある日家族四人でファミレスに行ってね、先生の家は正直結構貧乏で、あまりそういう機会がなかったんだけど、何か臨時収入があったらしくてね。で、先生すごく嬉しくて、今でも覚えてるけど、あの時は確かエビドリアを食べたんですよ。その当時の先生からしたら、エビドリアなんて魔法の食べ物みたいに美味しくて、かなりありえないテンションで食べてて、何よりドリアってかなり熱いからボロボロこぼしてたんだな……。まぁ、その時の親父からみたら先生は完全にアホの子で、しかも学校の成績も悪くて通知表には「八月一日君は授業中に落ち着きがありません」なんて書かれてるような子だったから、お酒の入ってた親父がぼそっと「ウチはリュウイチさえいてくれればそれでいい」とか言い出したんです。リュウイチってのは先生の兄貴の名前なんだけど……アレはショックでしたね。父親の本音を聞いてしまったのは、本当にきつかった。今でもまだ親父と話している時に、ふとしたことであの言葉を思い出すんです……。」

 八月一日は軽く首を振りながら、悲しくも自虐的にユーモラスな過去を思い出しているように話す。

「でも、それでも思うことがあるんですよ。確かにあの頃の先生はバカっぽかった節があるし、まぁ行儀もすごく悪かったし……親父も不器用というか、教養もあまりない人だったから、ああいう形でしか自分の息子のことを見ることができなかったんじゃないかって。特に年齢があの頃の親父に近づけば近づくほど、何かしょうがないこともあったのかなって。毎日町工場での仕事が大変そうだったし……。最近じゃあ、相変わらず酒癖の悪い父親と実家帰ったときはちょくちょく飲んだりするんですよ。あの頃には聞けなかった話なんか聞いてね。そうしていると、不思議とあの時の傷も結構へっちゃらというか、別のものに感じられるようになってくるもんなんです。……西塔さいとうさん、君のHADからしたらこんな言葉何の意味もなさないかもしれない。でも、人を知ることで人は傷つくけど、人を理解することで人は救われるものなんですよ。人を知ろうとしないと、傷つきはしないけど、人の心はどんどん廃れてきます。だから人は人を理解しようとするんじゃないでしょうか」

 八月一日の話で、暦はかつて病院で握った母の手を思い出した。しかし……。

「わたしの言いたいことは、きっと先生にはわかってもらえないんでしょうね」

 そう言って、また一歩彼女は八月一日たちから後ろに引いた。

「うん、そうか。……でも、まぁいいじゃないですか。先生が君たちのことを知ろうとして、勝手に傷つくんだから、それなら別に構わないでしょう?」

「好きにしてください」

 暦はそっぽを向いて言った。

「ありがとう。好きにさせてあげるよ」

 八月一日は意味深な笑顔で言った。暦の口がパクンと動いた。恐らく「バカ」と言ったのだろう。

「で、何か授業で要望とかあるかい?カリキュラムでもいいし、部活に関してだっていい。新しい部活を作りたいだとか、そういうのがあればバンバンいって欲しいんだけど……そういえば纐纈先生、この学校部活あるんですか?」

「……それすらも知らないで、よく部活がどうとか言えますね」

 なんの抑揚も込めずに暦が言う。

「まぁまぁ、西塔。ええ、ありますよ。しかしぃ……一昨年開校したばかりで、まだ野球部とバスケ部とサッカー部しかないですけどね」

「何もやってないけど……」

 暦は聞こえるように”独り言”を言った。

「へぇ、どうしてだい?」

「試合に出られないから」

「そうなんですか?纐纈先生」

「いや、出られないというわけじゃないんですけど……」

 纐纈は言葉を濁し、軽く目を泳がせる。

「周りの学校が反対するんだって」

「またどうしてです?」

「……わかりません?一緒に試合とかさせたくないんでしょ、わたしたちみたいなバケモノと」

「おい、西塔。少し言葉が過ぎるぞ。別にそんなこと誰も言ってないじゃないか」

「じゃあ、試合させてくれるんですね?地区大会出てもいいんですね?」

「それは……」

「ほらね、八月一日先生。結局こういう事なんですよ。保護だとかなんとか言っても、結局わたし達を隔離したいだけなんです。ここの人たちは」

「そういう言い方はないじゃないか、先生たちだって頑張ってんだぞ?」

「頑張ってる?わたしたちに対して毎日ビクビクするのが?ああ、“頑張って”恐怖に耐えているってことですか?」

「なっ……」

 むやみやたらなHADの使用は基本校則で禁止されていたが、西塔暦の場合は、HADをつかっているのかただ察しが良いだけなのかわからないので、教師陣も彼女の対応には手を焼いてた。

「ほら、纐纈先生を困らせない。じゃあこうしましょう、先生たちも地域の体育連に掛け合ってみますよ。それで試合ができるようにしよう、な?」

「ちょ、八月一日先生っ」

「無理に決まってるじゃないですかっ」

 いい加減なことを言う八月一日に対する反感か、暦は声を軽く荒げたが、そんな暦に対して八月一日は至って真面目に、しっかりと相手を見すえて言う。

「西塔さん、無理だとか不可能だという言葉は臆病者が使う言葉だよ。そんなもの、先生は信じないね」

「……ほぅ」と、纐纈が感心したように頷いたが「それ、モハメド・アリのパクリですよね……。」と、暦にツッコまれた。

「いや、パクリっていうか……引用ですよ。いい言葉というのは口に出す人を選ばないんだよ、うん」急所を突かれたように八月一日が口ごもる。

「期待はしませんよ」

「ふふ、先生は期待は裏切るが予想は裏切りませんよ……」

「八月一日先生、それだとドリフのコントです」と、纐纈が言うが「もう何もお話しすることがないなら失礼します」と、世代ではない暦はにらむように、いや実際睨んで退室した。

「……本当に僕嫌われてるんですね」

「いや、多分、違うと思いますよ」

「そうですか?さっきメチャクチャ睨んでましたよ」

 纐纈は八月一日をうらやましく思った。あの西塔暦が、典型的な反抗期の子供のように人に感情をぶつけている。それは、これまでの彼女からしたら考えられないことだった。しかし同時に、八月一日の無茶な約束にまた纐纈は目頭を抑えながら考え込んでいた。

「お疲れですか?」

「……そりゃあ、疲れもしますよ。あんな安請け合いをして」

「地区大会の件ですか?」

「そりゃあそうでしょう。八月一日先生、本当に彼らが対外試合なんてできると思いますか?」

「できないんですか?」

 八月一日の言葉に纐纈はガクッと頭をもたげ、目頭を抑えていた目に指が深々と突き刺さった。

「まだ学校法人としてできたばかりですよ本校は?」

「しかし、別に法人として成立しているなら新しい古いは関係ないじゃないですか。他に何か出来ない理由があるんですか?」

「……それは、やはりあの子達は特殊ですから」

「それじゃあ西塔さんが言ってた通りじゃないですか」

「いや、バケモノとまではいきませんよ。それでもやはり、世論がなんというか……。」

「そんな、大げさな……。」

 纐纈は話しにくいことをするように席から立ち上がり、窓の方まで向かっていった。

「八月一日もあの事件の後の、この国のHADに対する眼差しをご存知でしょう」

 八月一日に背を向けたまま纐纈は話し始めた。

「……はい」

「もちろん、私もあの子達があの男のように凶悪だとは思いません。しかし、それでも彼らのHADは使いどころを間違えれば、あの事件のような結果を招きかねないんです」

「それなら……彼らにHADを使わせなければいいじゃないですか」

「……ことは彼らの安全のためでもあるんです。彼らがウチの学校の生徒として外に出たとき、それ相応の危険が生じる恐れがある。危険がなくとも、彼らに対する世間の目はそこまで優しくはないんです。八月一日先生、私達は彼らを守らなければならないんですよ」

 そこまで話すと、纐纈は腕時計を見た。そろそろ次の生徒が入ってくる時間だった。

「何も起きないようにするのが「守る」ということなんでしょうか?」

「何事も安全第一、それに越したことはないということですよ……。」


 三者面談が終了した放課後、纐纈こうけつは校長室に呼び出されていた。

「どうだい?ここ数週間彼と接してみて」

 そこはよく見る木目調の中学校の校長室というよりも、まるで大学の研究室のようであり、本棚にもHAD研究の書物が多く並んでいた。何より男の佇まいも、学校の先生というよりも大学教授のようだった。校長(六波羅ろくはら)は人工皮の椅子に深々と座りながら、興味深そうに纐纈に話しかける。

「そうですね、思ったより普通なんですが……」

「何か?」

「妙な理想というか、まるで学園モノのドラマみたいに、青臭いところがありますね……。」

「うん、彼ならばそれも通るだろうからね」

「しかし、あまり好き勝手にやらせてしまうと、学校の運営方針からも外れてとんでもないことをやるのではないかと……。」

「運営方針などあってないようなものだが」

 六波羅は苦笑しながら言う。

「あと、青臭いというのは少し違うかもしれんよ。……彼にとって、そうしなければここに来た意味がなくなってしまうからね。生徒の前歴を見るなんて、それこそと同じじゃあないかい」

「確かに……。」

「他に、何か言いたそうだね」

 纐纈は告げ口をするようで言いづらかったが、流石にほおっておくこともできず、六波羅に阿久津美鳩あくつ みくとバスケットボール部の件を報告した。六波羅も、唸りながらしばらく考え込み、時折本棚にあるHAD研究の書物に目をやったりした。

「なるほど、確かに一人でどうにかできる問題ではないな……。」

「一応、念は押しといたんですが……。」

「まずは出方を見るとしよう。彼はとりあえずの試金石しきんせきだ。海外の学校をモデルにしているとはいえ、まだ我々には分からないことばかりなのだから。当面は彼の存在が重要になってくる。彼を使えば、何か新しいことをやったとしても最小限のリスクで済むはずだろうし……。」

 最小限のリスクとは、あくまでも生徒達のことではないことは、纐纈にも察することができた。

「意気込むのもわからんでもない、だったのだからね、彼は」

 若い理想はいつかは過去になり、老いた自分を苦しめる。纐纈は八月一日がそれを学ぶのを待つだけだと思った。


 一方の八月一日ほずみは、バスケット部の見学のために体育館のバルコニーから生徒たちの様子を眺めていた。大学の体育館と同程度の広さを持つにも関わらず、生徒数が極端にまだ少ないため、体育館を利用しているのはの少数だった。そのバスケット部員と思しき生徒たちも、ゲームが出来るほど人数がいないようだった。隅っこで体育座りをしながらだべったり、フリースローの練習をやっているだけで、本格的な練習は全くやっていない。

「八月一日さん、ですね」

 見ると白衣を着た30代半ばの女性が八月一日の方へ歩いてきていた。

「え~と、失礼ですが……」

「保険医の橋元はしもとと言います」

 そう言うと、橋元は左手をポケットに突っ込んだままで握手を求めてきた。教員ではない橋元は、八月一日とまだ面識がなかった。

「こちらへはどうして?」

「この学校に唯一人数がそろっている運動部だというので、見に来てみたんです。……橋元さんが、こちらの顧問を?」

「顧問じゃなくて、ただお目付け役といったところでしょうかね。生徒に何か怪我があったらすぐに対応できるように」

 怪我も何も、そこまでハードな練習はやっていなようだし、何より試合ができそうにもない。それでも学校側がそれを心配するのは、やはりHADのせいなのだろう。

「噂は本当なんですか?その、HADを抑えるHADをお持ちというのは?」

 どうも屈託のない感じの女性のようで、八月一日は内心苦手意識を持った。

「ええ、まぁ、そうですね……。」

「すごぉい、じゃあ流石のあいつらも、アナタには逆らえないってわけだ」

「はは……」

 数回のやり取りで、もう橋元の口調からは遠慮がなくなっていた。

「……この学校の部活じゃ、対外試合をさせてもらえないというのはご存知ですか?」

「人数が少ないからじゃなくて?」

 バルコニーから上半身を投げ出すように、組んだ両手を手すりにもたれさせながら橋元が言う。

「卵が先か鶏が先かという話になりますが、どうも試合をさせてもらえないからつまらないというのを……生徒から聞きまして」

「ここのお年寄りたちは芝庭しばにわアレルギーなのよねぇ……。」

 この学校ではタブーであるその言葉を言ってしまったせいなのか、八月一日の表情がこわばったように橋元には見えた。

 八月一日たちが話していると、ちょうど下では一対一でボールの取り合いをしている真っ最中だった。二年の風間渚かざま なぎさが相手を抜き去ると、彼は空中を歩いているような驚異のジャンプ力でダンクシュートを決め、リンクにしばらくぶら下がってから着地した。その姿はまるでNBAの選手そのものだった。

「すごいなっ、見ました今の?あんなに上手いのに、試合もできないなんてもったいないですよ……。」

「風間くんね。彼ねぇ、100mを7秒台で走るんですよ」

「え?」

「そういうHAD。小学校の頃、地元の少年バスケットチームのキャプテンやらされてたみたいなのよね、彼。でも何か監督が前時代的な厳しい人だったみたいで、それで毎日叱られて追い込まれて……結局才能が伸びるどころかHADが出ちゃったらしくて……。」

「そうなんですか……というか、ここの方々は生徒の前歴を見過ぎじゃないですか?こういう場所だってこともありますが、まるで彼らを前科者扱いだ」

「看守まがいのお年寄りたちと一緒にしないで欲しいわね。私の場合は風間君に直接聞いたの」

「失礼……。」

 彼に宿っているのは才能なのだろうか障害なのだろうか。もし生まれた時代が違うなら、もしくは生きている社会が違ったら、あの渚のみならず、他の生徒たちも素晴らしい才能を持つ人間として受け入れられたのではないだろうか。八月一日はそんな事を考えながら、屈託なく笑う渚を眺めていた。

「もし彼らが思う存分ゲームを楽しむとしたら、普通の生徒では歯が立たないんじゃないですか?」顔だけを八月一日に向けて橋元が言う。

「少し練習して慣れれば、うっかりHADを使用するなんてことはないはずです……。」

「へぇ、随分と詳しいですね。みたいな言い方じゃありません?」そういった橋元の顔は笑顔であるが、目を大きく見開いていてまるで食ってかかるようだった。

「まさか、一般論ですよ」

「……八月一日さんは、どうしてそんなHADを持ってるんです?」

 橋元が八月一日を興味深そうに眺めながら言う。女性にしては上背のある橋元は、自然に挑発的な目線になっていた。

「どうしてって、別に好きでHADキャリアになっている人なんていませんよ」

 八月一日は右の口角を釣り上げて、できるだけ生徒たちを見るように努めた。

「もちろんそうなんですけどねぇ、ほら、HADを発現させる時って、資質と一緒に強い衝動が必要だって言うじゃないですか?」

「……初めて聞きます」

「あらそぉ?簡単に言えばさっきの風間君の場合なんかもそうですけど、HADとストレスの関係はかなり以前から指摘されてますよ」

「……申し訳ありませんが、僕はではないもので、そういったことは詳しくは……」

「やだ、一般的な好奇心ですよ?どうしてなのかなぁって」

「どうなんでしょうね……もっと親しくなって、一緒にお酒でも飲むような仲になって、それで酔った勢いであればとかなら……そういうことをお話することもあるかもしれませんね」

「あら、お誘いですか?」

「酒はやりません」

 橋元は「残念」と呟くように言うと、八月一日と一緒に一階の生徒たちを見下ろした。出来たばかりの建物の中、最新の設備を揃えているせいで彼らのやる気の無さはより一層強調された形になっている。

「どうしました、八月一日先生?」

 少し高いにもかかわらずドスの効いている、そんな聞き覚えのある声がしたと思ったら案の定、四万都しまとが授業中と違い全身緑のジャージ姿でこちらを見上げていた。

「あら、四万都さんじゃないですか、珍しい」

 相変わらず、本人にはその意思はないのだろうが挑発するように橋元が言う。

「珍しいってほど来てませんかね?」

「普通顧問っていうのは毎日顔を出すもんですよ」

「いやいや……八月一日先生はどうしてまたこちらに?」

「いえ、ウチで数少ない運動部と聞いたんで、ちょっと見学に来たんですよ」

 一階と二階なので、二人は生徒にも聞こえるほど大きな声で話していた。


「対外試合ですか?」

 事務室に移動した四万都しまとは、八月一日ほずみの提案を意外な話であるかのように聞き返した。

 橋元は業務用のティーパックの袋を取り出し二人に「飲みます?」と聞くと、二人が何も返答していないにも関わらず、黙々と紅茶を入れる準備をし始めた。熱湯の出る給水口もあるなど、都内のワンルームマンションのように設備が整った職員用事務室だった。

「校長はなんと?」

 テーブルを挟んで八月一日の正面に座る四万都が訊く。

「え?」

「え?まだ言っとらんとですか?」

「言ったほうがいいですかね?」

「いや、そりゃまぁ……私達で盛り上がっていざやろうとして、校長の許可がおりないとなるととんだ骨折りですし、何より生徒たちに申し訳なかじゃないですか……。」

「ということは、四万都先生は彼らが試合に出るのは別に構わないと」

「いや、そうは言っとりませんよっ」

「八月一日さん、既成事実作ろうとしてません?」 

 二人の向かい合っているテーブルにレモンティーを置きながら、橋元が含み笑いをしながら言った。

 四万都は事態を軽く見ている八月一日に呆れながら、ティーカップの取っ手を二本指で摘んで口に運んだ。厳つい顔だが、しっかりとマナー通りにお茶を飲むのが二人の目にはとても奇妙に映った。

「八月一日先生」

「ハイなんでしょう」

「自明のことですが、ここは普通の学校とは違います。何より生徒が違います。彼らはHADという、下手すれば大きな事件事故に巻き込まれかねない子供達です。そして、我々は彼らをそいういった危険から守る義務があるんです。だからこそウチの警備は厳重なものになっていますし、生徒には寮生活をしてもらっているんですよ」

「というか、外に出さないでくれっていう要望ありきな感じですけどね……。」

 橋元は紅茶に浮かべた(自分のカップだけに入れた)レモンをスプーンでつつきながら言った。

「橋元さん……。」

 橋元は白々しく顔を背けながら紅茶をすすった。

「それは纐纈こうけつ先生にも言われました。しかしですよ、彼らをこうやって閉じ込めておくことが、彼らにとって良いことなんでしょうか。彼らだっていつか安定期を迎えて社会に出ます。その時、閉じ込められるように育った彼らが社会でやっていけるんでしょうか?」

「いいじゃないですか、八月一日さんがいれば、ウチの生徒たちだって普通の子供なんですから」

「橋元さん……八月一日先生もそうお考えで?」

「まぁ、結構いけるんじゃないかなとは……」

 四万都が席から立ち上がり八月一日の席まで回っていった。四万都のたたずまいは、このまま喧嘩を仕掛けるのではないかというくらいの圧迫感があった。しかしそこで四万都は妙な動作に出る。八月一日の前で右手の小指を差し出したのだ。

「……指切りですか?」

「八月一日先生、私の小指を握ってみてください………いえ、小指を絡ませるのではなく両手で」

「……こうですか」

 八月一日は自分の思うように両手で自分の小指を握ったことを感じた四万都は次に、「じゃあ、そのまま立ち上がってみてください」と言った。

「……あれ?」

 立とうとするも、八月一日はそうすることができなかった。まるで自分の腕がつっかえになって立ち上がらせなくしているみたいに、椅子から微妙に体を揺らしながらも、下半身を浮かせることができない。八月一日は様々な方向に体を動かそうとしてみたが、結果は同じだった。

「……立てないでしょう」

「いや、あまり強くやってしまうと、四万都先生の指が……」

 八月一日は不服そうに言う。

「構いません、強く握れば立てるのなら」

「……では遠慮なく」

 そう言って八月一日は無理に立ち上がろうとしたが、逆にバランスを崩してしまい椅子からずり落ちるようにして床に倒れ込んでしまった。ひれ伏した八月一日の体は、四万都の小指を握った両手だけが床から唯一浮いていた。

「ちょ、四万都さん……。」

「いかがです?」

 四万都の言葉に、八月一日は「ぐ」だの「ぬ」だののうめき声で返答した。

「八月一日先生、手を離して頂ければ普通に立てますよ」

 四万都の言うように、縫い付けられた体は手を離すことでいとも簡単に呪縛から解かれた。決して暴力ではなかったが、四万都の行為で八月一日達を含む場の雰囲気は一転した。

「八月一日先生……確かに貴方のHADはすごかですよ。前も申しましたように、アナタがそばにさえいれば、うちの連中は本当にただの子供になります。しかしね、アナタが際立つのはやはりHADキャリアがそばにいてこそでしょう。ただの人間に対してはアナタもただの人間です」

 四万都の話を聞きながら、八月一日はずり落ちた椅子に再度座り直す。

「私がやったのは、合気道の心得がある人間やったら誰でもできることです。しかしアナタはそれに対して何も出来なかった。もう一度聞きますが、八月一日先生、アナタ彼らを守ることができるとですか?」

「……それは」

「別に、そぉんな悪の秘密結社から追われてるわけじゃないんだから、大げさじゃないですか?」

「やぁけん、用心に越したことはないと言っとるとですよっ」

 橋元の物の言い方に苛立ちを見せながら四万都が言う。

「四万都先生、先生のおっしゃりたいこともわかります。けれど……生徒たちに何も起こらないようにするってのいうのは、何も出来ない人間に育てるってことじゃないですか?」

「……ここでアナタと教育理念を語る気はありません。私が言いたいのは、慎重ば期してください、ということです」

「十分、承知してますよ……。」 

 結局、それから四万都は全く紅茶に手をつけず指導に戻ってしまった。冷えた四万都の紅茶は、橋元の手によって流しに捨てられた。

「まったくの正論ですね……。」

 流しに紅茶を捨てる橋元に八月一日が言う。

「そーですね。でも、正論ほど教育に向かないものもないんじゃありません?」

「そうなんでしょうか……。」

 橋元は、出涸らしのティーパックをもう一度お湯に浸しながら言う。

「八月一日さん。これさ、私思うに戦争なのよね」

「また物騒ですね……。」

 橋元は茶色く染まったお湯を啜りながら笑う。

「だってそうでしょ?正しいと思ってる人たち同士が戦うんですもん。それっていわゆるセンソーでしょ?」

 八月一日はティーカップを手に取り、冷えた紅茶と一緒に橋元の言葉をゆっくりと飲み込む。

「少なくとも……アナタはアイツらと約束しちゃったんだから。何としても勝たないとね」

「……随分と楽しそうに言いますね」

「私、戦ってる男の人って大好きなんです」

 橋元は半分しか飲んでいない紅茶を流しに捨てた。八月一日は最後まで飲み干した。

 無言で八月一日が出て行くと、橋元は缶入りの紅茶を棚から取り出して、丹念に紅茶を入れ始めた。事務室には、うっとりとするようなダージリンの甘い香りが充満していた。


 八月一日先生はこの学校を変えるために動き始めました。でも、わたしたちを取り巻く状況はあまりにも複雑で、最初は誰も先生の味方をする人はいなかったそうです。それは先生たちだけではありません。わたしたちでさえ、先生のやろうとしていることは馬鹿げた空想としか思ってませんでした。ただわたしたちは心を凍てつかせてやり過そうとしていたにもかかわらず。まるで、八月一日先生を否定することが賢く、冷静なやり方であるかのように考えていたんです。

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