芝庭事件、四

 HAD研究者は、この事件の被害がここまで大きくなった理由として、芝庭しばにわのHADの不安定化の時期と捜査の追及が重なったことを指摘する。HADの不安定化には極度のストレスが原因として上げられているが、まさにその時の芝庭はストレスのかたまりになっていた。警察に追われるだけでなく、真相をかぎつけたマスコミからは、未成年であったにもかかわらず重大事件の犯人ということで実名を挙げられ、さらには芝庭の顔写真までもが公開されていた。それは、芝庭が日本中から追われていることを意味した。そして芝庭事件の第二幕となるS県A市の惨劇で、芝庭のHADはまさに最不安定化するのである。

 芝庭のHADが有効となるのは、最初に彼がHADを発現させた霞ヶ丘かすみがおか中学校の教室の面積から類推して、7m×9mの凡そ63㎡だと当局は判断し、そしてそのHADの範囲から、芝庭が人通りの少ない場所へ移動した際に、長距離からの麻酔銃での確保するという作戦を立てた。63㎡の範囲ならば、訓練をつんだSATの隊員ならば難なく狙える距離である。最初の作戦は、24時間芝庭をマークし続けた警官とSATの隊員の働きによりいとも簡単に成功した。日中の住宅街を歩いていた芝庭を、作戦通りSATの隊員が狙撃したのである。確保された芝庭はHAD患者を収容するA市の施設に隔離されたのだが、それが芝庭事件の被害者の数をさらに増やすことになってしまった。

 芝庭のHADの内容は当初不明だったので、他の重度の患者と同じように管理施設の係員たちは厚さ1mの壁に囲まれた大部屋に芝庭を拘束された。先ほど述べた芝庭のHADが不安定化の真っ最中だったというのは、あくまで結果論であってその時は誰もが理解していなかった。芝庭のHADが、彼らの想像を遥かに超えて邪悪だったということに。

「……目が覚めたかい芝庭真生しばにわ まこと君。ここはHAD患者の保護施設だよ。覚えてないかもしれないが。君は麻酔銃で撃たれてここまで運ばれたんだよ。どうだい気分は?君にとっては不服かもしれないが、君は重度のHAD患者としてこれからここで安定期を………おい、お前何やってるっ」

 ベッドに拘束された芝庭が目を覚ましたので、施設の所長だった吉沢智人は芝庭に別室からマイクで語りかけていたが、拘束具で抑えられているはずの芝庭は、なんの抵抗もかかっていないと言わんばかりに上体を起こしそのまま起き上がった。芝庭を押さえていた拘束具は一瞬で破壊されていた。そのまま正面の壁に埋め込めれている露骨なマジックミラーまで芝庭は歩いていき芝庭がそのマジックミラーに触れると、マジックミラーは音すらも出さずに崩れ落ちた。芝庭が破壊したマジックミラーの向こうには施設の職員たちが控えていたのだが、彼らはマジックミラーよりも耐久力がなかった。

 職員たちを朽ち果てさせると、芝庭は適当に施設内を歩きながら出口を探した。その場で彼を阻むものなど存在しなかった。近づく人間は数秒で体が崩れ落ち、建造物も芝庭が数秒触ればビスケットのように簡単に破壊されたのである。その時、芝庭のHADはまさに最不安定期を迎えていた。

 施設の周りには、芝庭の確保を知って詰めかけたマスコミと、もしもの事態のために施設にも出動していたSATの隊員達がいた。SATの隊員達は無線で今施設内で緊急事態が起こっていることを判断し、事態が既に最悪のものになっているとした上層部の決定で、「芝庭真生射殺による事態の沈静化」を実行に移そうとしていた。63㎡の距離を確保した上、新しく導入されたライオット・シールドを装備したSAT隊員は施設の出入口を取り囲った。報道陣は、SATの様子から、施設で大変な事態が起きていることを推測し、格好の「絵」が取れると期待してその時を待っていた。当日は平日の昼間だったが、この国のブラウン管のほぼ全てがこの映像を流していただろう。マスコミも視聴者も、その全てがいかに凶悪な事件を起こした怪物が退治されるかを、固唾を飲んで待っていた。

 どれくらい待っていただろうか、配置について数分の短い間だったかもしれない。しかし、最前列にいたSAT隊員の平田克也(当時28)は、相手が前代未聞の殺傷力を持っているHADだったからか、それともまだ自分の半分くらいしか生きていない未成年をこれから射殺しようというプレッシャーからか、すでに異常な疲労感を体に感じていた。いや、疲労感だけではない、口の中が何か石のようなものでモゴついている。一体いつ入り込んだのだろうか?歯に詰まっていたにしては、物が大きすぎる。彼の疲労感はさらに強くなっていき、いつも訓練で身にて慣れているはずの装備すらも重荷に感じるようになってきた。

「おい、お前誰だよ……。」

 隣の、酷くしゃがれた聞き覚えのない声に平田は驚いた。見ると、自分の隣には同僚ではなく、SATの装備を着用した90歳になろうかという老人がいたのだ。いや、違う。これは同僚だ。自分の同僚が、芝庭のHADでこんな姿にされているのだ。そしてその同僚が自分を見て驚いているということは、つまり自分も……。

 それを理解した瞬間、平田の口から琥珀色の液体と共に、根元が腐って茶色く変色した歯がこぼれ落ちていた。既に思考するためのエネルギーも体に残っていなかったのだろう、平田はなんの恐怖も感じず、疲れ果てたサラリーマンがベッドにそうするように、ただ地面に倒れた。帰りを待つ妻を、先日言葉を話し始めた自分の娘を思うよりも、その時の平田には、地面に倒れて楽になることしか考えられなかった。

 たった数分だった。その数分で、選抜試験を通過し、高い身体能力と強靭な精神力を誇ると言われたSATの隊員達はパニックに陥った。多くの人間がその場に倒れこみ、余力が残って逃げ出そうとする者がいたとしても、老朽化した体が動きについてくることができずに、ある者は骨折し、ある者は脊椎が曲がり胴体が180度回転して絶命した。トカレフの7,62mm弾をも防ぐポリカーボネート製のライオット・シールドは芝庭のHADを防ぐことは能わず、単に隊員達よりも容易には朽ちなかっただけだった。芝庭のHADの有効範囲を見誤ったSATの部隊は、芝庭の姿を見ることなく事実上全滅の憂き目にあった。

 SATに自分を攻撃する力がもはやないことを知った芝庭は、自宅の玄関を出るかのように平然とその姿をマスコミの前に表し彼らの方へ向かっていった。それは、早朝に朝刊を取りに行く人間のような、何の緊張のかけらもない寝ぼけた顔だった。

 流石に報道することが使命であるマスコミも、いま自分たちの置かれている状況が非常に危険だということを分かり、すぐに撤収作業に取り掛かろうとした。だが、マスコミも既に憎悪の対象にしていた芝庭は、そのままSATと同じように報道陣も次々にその牙にかけ始めたのだ。

 こうして、日本全国に芝庭のおぞましいHADが、「生」で公開されるに至ったのである。先程まで生中継をしていたTVレポーターは、カメラで早送りしているかのように髪が抜け落ち、みるみるうちに老人へ、そしてミイラへと姿を変えていった。阿鼻叫喚の地獄絵図、それは十分なインパクトだった。日本全国民にHADが危険であるということ、そしてこのHADを持つ人間は管理されなければいけないという結論を出させるには時間を必要としなかった。

 SATの部隊をも一瞬で壊滅させた芝庭には、もはや有効な手立てなどないと多くの人間が感じていた。アレは人の手に終えるものではない、一般人も研究者も、また政府の関係者も、芝庭真生の殺害以外は考えられない、そう考えていた。しかし、この一連の事件は意外な形で幕を閉じることになる。

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