木根龍兵
それは夫が急逝してから3年が過ぎようとしていたが、親戚の援助で何とか生活をやりくりできるようになり始めた、長男の龍兵が6歳を迎えたばかりの頃だった。龍兵の母が台所で夕飯の後片付けをしていると、TVを観ている龍兵の妹が騒ぎ出す声が聞こえてきた。
「お兄ちゃんスゴーイ、テレビの人みたいっ」
娘がはしゃいでいたものの取り立てて気にすることもなく家事に勤しんでいたが、子供たちが台所に駆け込んできてから事態が一変する。
「母さん。ぼくすごいんだよ、テレビに出れるかな?」
そう言って龍兵が持ってきたのは、グニャグニャに曲がったスプーンだった。
「ちょっとリュウ……それどうしたの?」
翔子は最初、子供がいたずらで曲げたものだと思ったが、それにしては鉄製のスプーンの曲がり方は度を過ぎていた。
「テレビでやってるのを真似したんだよ。こういうのチョーノーリョクって言うんでしょ?」
笑顔の我が子だったが、翔子にそのスプーンは禍々しいものの象徴に映った。翔子は洗い物で濡れた手を拭うことなく龍兵の肩を掴んだ。
「リュウ、正直に答えて。このスプーンは、本当に……手を触れずに曲げたの?」
龍兵は母の焦燥を幼心に感じ取り、うろたえながら頷いた。
「お母さんの前で……もう一度、スプーンを曲げてみて……」
翔子は息子がスプーンを曲げる様を自分の目で確認するまで信じることはできなかった。だが、目の前で息子が持つスプーンが、まるでスプーンそのものの硬さなど初めからなかったかのように、軟らかささえ感じさせるほどに軽やかに曲がったのを見たとき、彼女には日本中を揺るがしたあの事件がすぐに連想された。
“
百人近い犠牲者を出したあの事件から間もない時期だった。世間はきっとこの子を受け入れはしないと考えた翔子は、龍兵を世間から隠す道を選んだ。夫の面影を残しているこの子を命にかえても守らなければならないと強い決意を秘めて。その為に彼女は親戚を周り頭を下げ金銭の工面をし始め、そして再婚という選択肢を放棄した翔子は、必然的に夜の街の人間になった。それらはすべて、自分の息子を人里離れた、誰も知らない土地でひっそりと育て上げるための準備だった。重度のアレルギーを抱えた子供を、都会から遠く離れた田舎で育てているある夫婦の話をドキュメンタリーで見たことのあった翔子は、それと同じように、外と干渉されることない生活を模索し始めたのである。もしこの都会で生きようとするならば、息子は他のHADの子らと同じく、施設に隔離されてしまう可能性が十分にあったからだ。
小学校に上がる年齢になっても翔子は息子を学校へ通わさず、夜の仕事を終えたあと、一日3,4時間の睡眠時間で子供の面倒を見続けた。妹は保育園へと預けていたが、龍兵の方は、いつどんなきっかけでHADであることがバレてしまうかわからない。彼女は部屋で龍兵に読み書きを教え、単身息子を守り続けようとした。
「ねぇ、お母さん。どうしてぼくガッコウにいけないの?みんないってるんでしょ?」
「……リュウは、お母さんと一緒にお勉強するの嫌?」
「……学校行きたい……。」
「お勉強はお母さんが教えてあげる。だからリュウお願い、お母さんの言うことをちゃんと聞いててね」
そいういうと母は龍兵の肩を抱き寄せた。それだけで、多感だった龍兵は母の恐れを、理解は出来なかったが感じ取ることができた。そしてたとえ学校にはいかせてもらえなくとも、いつも自分につきっきりで読み書きまで教えてくれる母が龍兵は大好きだった。母の期待に龍兵は応えようとし、その龍兵の素直さが母を救い続けた。絶え間なく届く通知書や支払い書の重さに心が挫けそうになろうとも、その想いさえあれば。……しかし、その蜜月は長くは続かなかった。
最初に不審に思ったのが龍兵の親戚たちだった。同じ学区内であるはずの龍兵の父方の再従姉妹が龍兵が学校に通っていないことに気づき、それが龍兵の祖父母の耳へ入ってしまったのだ。元々嘘をつくのが得意ではなかった翔子は、上手く事実をはぐらかす事ができずに親戚たちの問いただされ困窮してしまい、龍兵を学校に通わせていないということを簡単に感づかれ、そして夜の仕事をやっているという世間体の悪さが、さらに親戚から金銭の工面をしているにも関わらず安アパートで生活しているという不信感が、親戚たちからの非難の的となった。龍兵の祖父母は自分の息子の忘れ形見を虐待しているのではないかという心配から、伯父伯母は自分たちから借りた金を自分だけの贅沢に使っているのではないかという怒りから、この家族のことを区役所に相談し保護観察官を派遣するように依頼してしまったのである。
龍兵の親戚の要請を受けて役所から派遣された保護観察官は、長年の経験を積んでいたベテランの職員だった。多くの虐待児童の問題に携わってきた彼は、これまでの経験から龍兵少年が虐待を受けいてる可能性を感じ取り積極的に対応することを龍兵の親戚に約束した。虐待児童の問題は心配しすぎるということはないというのが彼の信念だった。多くの虐待児童の役所の対応の遅れによる痛ましい死という最悪の事態を避けるためならば、多少の強引さは仕方ないのだと。しかし、彼は知らなかった。その対象となっている少年が、数万人に一人とも言われるHADの子供だということを。経験を積んでいたとされる彼もその特異な子供に対する処遇を心得てはいなかった。
平日の午後二時、翔子が龍兵に算数を教えている時間だった。宅配便か何かかと思い気安く安アパートのドアを開けた先にいたのは顔色の悪い不機嫌な顔をした(少なくとも彼女にはそう見えた)中年男性だった。
「私、○○区役所から来ました児童福祉課の島田と申します。木根翔子さんでよろしいでしょうか?」
「はい……あの、なにか?」
なにか?と自分で訪ねたものの、彼女には心当たりがありすぎた。ただ向き合っているだけで翔子の呼吸は荒くなり始めていた。ドアは開けているものの、それ以上は開かないよう翔子のあらん限りの力で固定されていた。
「役所に出生届けのある貴方のお子さん、龍兵君なんですが、小学校に通わせていないのではという、ご近所から報告がありましてね。……龍兵君は今ご在宅ですか?」
にこやかに話すものの、しかしその男の目は全く笑っていなかった。
「……あの、うちの子は病気を抱えていまして、学校には……その……」
「学校に通わせていないんですか?」
「仕方ないんですっ、学校に通えないんですっ」
そう言いながら翔子は強めにドアを閉めようとしたが、それを島田の、デパートで一番安く売っていそうな、紐もついていない黒い革靴が阻んだ。思いの外力が込められていたドアで島田の靴はシワだらけになって歪む。
「すみません。では、龍兵君の安否だけでも確認させていただけませんか?それだけ確認できたら今日のところは引き取らせていただきますので」
「なんの権限があるんですかっ、帰ってくださいっ」
翔子は島田の挟まっている靴を足で押し出そうとしていると、アパートの階段の方から聞き覚えのある声が聞こてきた。
「権限だったらあるわよ。私たちが頼んだんですから」
そう言って階段から上がってきたのは龍兵の父方の伯母だった。
「お義姉さん、どうしてここに……。」
島田にいつアパートに向かうのかを聞いていたのだろう。島田も市役所の権限では踏み込んだ確認ができないので、親族である彼女たちの助力を期待してのものだった。
「翔子さん、龍兵君を学校に行かせてないんですってね。どういうこと?」
きつい口調で義理の姉が翔子を詰問した。その瞳の奥には義理の妹にむけたものであるにもかかわらず、若干の敵意が含まれていた。そしてその敵意は決して悪意からのものではなくとも、子を守ろうとする母を身構えさせるには十分だった。
「それは、リュウは病気なんです……」
「病気?そんな話全然聞いてませんけど?大体、そんな学校に行けないくらいの病気なら、私たちにも何か一言あってもいいんじゃないですか?龍兵はお義母さんにとっては孫なんだし、私にとっては甥っ子なんですよ?」
「それは、その……」
「とりあえず、龍兵君の所在確認だけさせていただければ、私は帰らせていただきますので」
島田は親戚同士で険悪な雰囲気になっているところを穏やかに振る舞い、少しでも自分の要求を通そうと試みた。
「それだけじゃダメよ。虐待されてないか確認しないと。それに、病気なら病気できちんと入院させるべきじゃありませんか?学校にも行けないほど重い病気なんでしょ?」
「虐待なんて、してません……。」
強く否定しようとしたが、すでに
「はっきり言えないならなおさら怪しいわ。翔子さん、龍兵君はどこ?」
「リュウは……」
「まさか家にもいないなんて言うんじゃないでしょうね?」
「違いますっ、違いますけど……」
元々、器量のある女性ではなかった翔子だった。感情が彼女を不安定にし、目の前の日常を侵そうとするものをどう処理していいかわからず、翔子はまるで高熱にうなされているように目は虚ろとなり、顔はだらしなく弛緩していた。しかしそんな翔子の様子は、不信感を抱いている者にとっては後ろめたさを隠しているかのように感じさせてしまう。
「……確認させてもらいますよ?」
「ちょ、お義姉さんっ」
安アパートの玄関にはチェーンがついていなかったので、ドアは一旦強引に開けられてしまうとなす
「龍兵君っ、いるの?」
島田と母とのやり取りの様子から、部屋に隠れているべきだ感じ取っていた龍兵だったが、玄関から聞き覚えのある伯母の声で呼ばれた時、警戒心を解いてしまい玄関へ顔を出してしまった。その時、龍兵少年の目には何が映っただろうか。
「リュウ、ダメッ、ちょ、お義姉さん勝手に入らないでください!」
「木根さん、落ち着いてっ」
部屋に侵入しようとする、見覚えのあるがはっきりとしない存在の伯母、それを興奮して引きとめようとしたものの、足を取られて転倒する母、そして錯乱している翔子を落ち着かせようと引き止める、まったく見ず知らずの島田。おそらくそれは玄関からの逆光を浴びて、幽霊のように真っ黒になった人々が、大好きな母を損なわせようとと掴みかかっている様であり、そして自分たちの安寧の日々を乱す異質な存在として見えなかったのではないだろうか。少なくとも、それは少年にとって彼らを排除するべき敵だと認識させるには十分な状況だった。
冷たく鋭い、まるでそのものが金属のような硬質を感じさせる音だった。何も知らない部外者たちは、一瞬で響き渡ったその音で体を切りつけられたかのように動けなくなった。眠っていた本能だろうか、その音が、専業主婦として長年過ごしていた龍兵の伯母にも、役所勤めに人生の大半を費やした島田にも、今聞こえているのがただならぬ危険信号だということを生物的に直感させた。その困惑する大人たちの中で、ただ翔子だけがこれが何の予兆なのか理解することができた。そして、部屋中のガラスや食器類に、異様に音もなく亀裂が入った瞬間、それまではっきりと言葉をだせなかった翔子は叫びながら我が子のもとへ、飛び込むように駆け寄った。
「ダメ龍兵!」
……何が悪かったのだろうか。裁かれるべき者がいたとするならばそれは誰だったのだろうか。ただ、誰もが自分の領分の中で、必死に何事かを守ろうとしただけではなかっただろうか。しかし、龍兵が放心状態から立ち直った時、目の前にいたのはうずくまりながら顔から血を流している母であり、そしてその後ろで砕け散った食器やガラス類を目の当たりにして、腰を抜かしながら自分を怪物を見るような目つきで見る伯母と島田だった。部屋の奥では、二つ下の妹が「お兄ちゃんのバカァ……」と、何度も何度も泣きながら叫び続けていた。
こうして、少年は周囲の目にさらされることとなり、外の世界へと無理やり引きずり出されたのである。
龍兵はその後、母が恐れていたように他のHADの子供と同じく施設へと送られた。HADには個人差があるが、幼少期からこれほどの発現を見せた龍兵のそれは重度のものとみなされたため、親元から完全に離されての施設暮らしとなった。そして龍兵は成長と共に知るようになる。例え重度のHADであっても、親の同意がなくては完全に隔離されるような処遇は受けないことを。亡き夫との思い出、母の愛情、経験という後付で身に着けたその強さの残高は、貧困の中で徐々に消費され、そして何より我が子に対する強烈な恐怖という本能が、翔子の最後のたがを奪い去っていたのだ。
幾年経っても迎に来ない母、それは少年に自分が母に捨てられたのだと結論づけさせる。しかし、それでも少年は希望を抱かずにはいられなかった。いつの日か、すべての罪が自分のHADの安定と共に許され、そしてその時には、自分と母と妹が、また昔のようにあのアパートで三人で仲良く暮らすことができるのだと。
何が間違っていたかは分からない。しかし、誰もが幸福な結末を得ることはできなかった。
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