【其の六】ほずみ先生は風に吹かれて

 CDプレイヤーを止めると、八月一日ほずみは丁寧にCDを取り出してケースにしまった。

「どうです、二回目には歌詞が聞き取れたでしょうか?この曲は君たちはもちろん僕が生まれるずっと前、63年にリリースされたもので、ボブ・ディランを象徴する曲とも言われています。曲ももちろんだけど、何より歌詞がいい。

”How many times must a man look up Before he can see the sky?“

 空を見る前に、どれだけ人は見上げなければならないのか、で次が

 ”How many ears must one man have Before he can hear people cry?”

 人々嘆きを聞く前に、どれほどの耳を持たなければならないのか、そして

"How many deaths will it take till he knows that too many people have died?”

 どれほど死が、多くの人が死にすぎているといことを教えるてくれるのか。で、最後に

”The answer, my friend, is blowin' in the wind”

 と来るんですが、このmy friendは「私の友よ」とかじゃなくて、「なぁ」といった感じの呼びかけになります。で、「答えは……なあ、ただ風の中にあるんだ」という、それはいつでも僕たちのまわりにあるものなのか、それとも風のように掴むことのできないものなのか、受け止め方は人によって違うんじゃないんですかね……。先生は前者であってほしいですね。風のように気づかないだけで、本当はいつだってそこにある、感じることができるもの。答えっていうものはそういうものなんじゃないでしょうか」

 話し終えると八月一日は黒板に「must」と「have to」を書き始めた。

「この歌詞の中にも昨日やった“must”がありますね。これは一緒にやった“have to”と同じ、「~~しなければならない」という意味になるんですが……はい、どうしてこの歌詞の中では“have to”ではなく、“must”が使われているんでしょ~かっ。えー今日は15日だから出席番号15、は昨日当てたんで1+5で6番……誰?はい西塔さいとうさん」

「語呂が悪いから」

「正解っ……ではない。それも正解っぽいけどね。え~とね、この二つは「内から出る」か「外から押さえつけられるか」という違いがあります」

 次に八月一日はジンジャーブレッドマンのような人型を黒板に書き、その中にさらに人型から出ようとする矢印を数本書いた。 

「絵が下手で申し訳ない……mustは例えばダイエットをしないといけないっ、て時みたいに内側から自主的に出てくる意識ですね。で……」

 次に八月一日は人型を囲むように矢印を数本書いた。八月一日が後ろを向いている間、寿はちぎった消しゴムを一席はさんだ透流に投げつける。

「で、“have to”はルールや法律のように外側からそうしないといけない、と圧力をかけられるような感じです。だからこの『Blowin’ In the Wind』の中では、mustが使われるのが正しいんですね。というわけで……」

 八月一日はチョークの粉を両手で払いながら正面を向いた。

「この“must”と“have to”を使って英文を書いてみましょう」

 そう促してみた八月一日だったが、生徒たちのやる気は一向に見えてこない。彼らの生活態度はまるで、本当に囚人のようにただ時間が過ぎるのを待っているだけのようで、八月一日には彼らの姿が過去の光景に重なるようにフラッシュバックした。

「お~い、みんなやる気出しましょうよ。五月病にはまだ早いんじゃないですか?」

 ため息をつきながらようやく生徒数人が書き始めたが、それでも多くの生徒はペンを動かそうとしない。この学校で教え始めてから数週間、八月一日はまるでこの教室にはいくら空気を入れ替えても換気されない、粘着力でもありそうな空気で澱んでいることに気づいた。思春期を迎えた少年少女にありがちな鬱屈なのか、それともこの学校独特のものなのか。

「どうしましたぁ?ちょっとやる気無いにも程があるぞ~。今年は受験なんだから、ちゃんと勉強しとかないと。君たち2年生でしょ?」

「それさぁ、センセー本気で言ってんの?」

 呆れたように声をかけてきたのは寿ことぶきだった。

「先生はいつだって本気ですよ。本気と書いてマジと読むくらい本気です」

 寿につられて数人の生徒が笑ったが、それは決して八月一日の言い回しが面白かったからではない。

「俺たちが普通の高校なんて受けられると思う?そりゃ、数人はこっから出られる奴もいるかもしれない、HADが安定してね。でもさ、大体がこのままここの高校に上がってくんだぜ?大学だってそうだ、それどころか一生まともな生活なんてできないかもしれないのにさ、真面目に勉強してなんになるんだよ特に英語とか。センセー知ってんだろ?俺たちの中の数人、つーか俺もそうなんだけどさ、外国にいけないんだぜ?」

 寿は以前ほど横柄な態度は取らなくなったとはいえ、やはり率先して教師に反発してくる生徒の一人だった。八月一日の前ではHADが使えないものの、彼が離れてしまえば再び元の調子を取り戻せるので、寿が心配したほどクラスでの彼の地位は失墜してもいなかった。

「う~ん、そうか。……みんな大体同じ意見なのかな?だから勉強のやる気がない、と。そうか……」

 出口は人に救いを与える。たとえそこから出ていくことがなくても、ただ存在するだけで人はそこから漏れる光に癒される。出口を封じられ光を見ることのない彼らにとっては、もう目を閉じていようが開いていようが変わりはないのだろう。

 八月一日は黒板の字と絵をすべて消して、そこに「art」と綴った。

「はいこの単語、意味はわかります日村くん?」

「芸術でしょ」

「うん、そうですね。じゃあ次にこれ……分かりますか?」

 八月一日はartの後ろに綴りを加えて「artificial」という単語にした。

「……いえ」

「この単語は「人工の」、という意味があります。つまりこの言葉を創った人たちにとって、art・芸術という言葉、概念には人の手が加えられたもの、人が関与したものだという発想があるわけです……。手を加えなければ加えないほどいいとした、日本の千利休の発想とはまるで異なりますよね」

 八月一日は教壇から降りて、窓際まで歩いて行った。

「……外国の言葉を学ぶというのは、ただ外国人とコミュニケーションのための道具を身につけるということではありません。その国の考え方を学ぶということであり、彼らの世界観を獲得することなんです。それはなぜディランがあんなにも素晴らしい詩を書けたのか、なぜmustとhave toはわざわざ違う意味を持つのか、それを理解していく作業なんですよ」

 八月一日はブラインドを上げ窓の強い西日が差し込むようにした。生徒たちは目を細めながら、逆光の中にいる八月一日を見る。

「もしこの部屋に窓がなければ桜は見えません。一つだけならかろうじて見えるくらいです。でも、いくつもの窓があればどうでしょうか?いろんな角度から桜を見ることができます。英語の勉強だけじゃあないんです。数学という窓、世界史という窓、芸術という窓、いくつもの窓を開けて外を見れば、この窓の外の桜のようにより良くその美しさを知ることができるでしょう。そしてそれはきっと皆さんの人生を豊かにしてくれるはずです。いいですかみなさん、勉強するということは人生観、世界観を獲得していくことなんですよ。無意味だなんてことは決してない。どうせ自分たちは、なんて言ってしまう前に先人たちの目から世界を、自分たちを見つめ直してみるべきじゃありませんか?」

 八月一日は再びブラインドを閉めて光を遮った。

「もちろん君たちの窓を開くために、僕たち教師も力を尽くさなきゃいけないんですけどね……。」


「二者面談ですか?」

 その日の昼休み、八月一日ほずみは担任の纐纈こうけつに生徒たちと一対一で話せる機会を作ってくれるように申し出た。意識を高くする、考え方を改めるなどでは人は自分すらも動かせない。短期的にも長期的にも彼らには目標と道が必要なのだ。

「そうですね……ただ、彼らのほとんどがこのままウチの高校に進学しますからね。それがどれほど意味のあることなのか……。」

「しかし、この学校は生徒の希望があればカリキュラムの変更やそのための設備を使用することが可能だと聞きました。彼らにとって必要なのは環境を変化させることです。このままずっと同じところに押し込められるのでは、誰だってまいってしまいますよ」

「ふぅむ。まぁ別に問題はないと思いますよ。ただ、一対一というのはちょっとね。ホラ、担任は私ですから」

「そうですね、まぁ三者面談にはなってしまいますが。それでもやはり生徒の理解を深めるには不可欠かなと」

 纐纈は快諾かいだくした。というよりも、八月一日といっしょならば特にこよみ寿ことぶきたちとも遠慮することなく対話できると踏んでのことだった。

「八月一日先生、ちょっとよかですか?」

 声をかけてきたのは、中等部主任の四万都だしまとった。八月一日はこの数学の教師らしくない、無駄に逞しく日焼けした体の四万都が少し苦手だった。さらに柔道か何かだろうか、潰れている四万都の耳も、ただ近くにいられるだけで妙な圧迫感を人に与えた。

「なにか?」

「例の給食に混入しとりました虫の件ですが、業者に問い合わせしたところ、あちらで混入した可能性はないということです」

「そう……ですか」

「で、用務員さんと一緒に校舎の近くの雑木林に行ってみたんですが、八月一日先生が心配しとったように、スズメバチが巣を作っとりました」

「つまり……」

「ハチはウチで混じった可能性が高いということです。もちろん、向こうで入った可能性もゼロじゃなかとですが」

「八月一日先生、他の学年の給食には異物が入っとったとかいう話はありませんでした。で、虫が入っとったのは日村の給食らしいですね」

「はい。それが?」

「八月一日先生はここに来たばかりですけど、結構あのクラスのことが分かり始めたんじゃなかですか?」

 四万都の言いたいことはすぐに理解できた。しかしそれは、なるべくならば否定したかったことだ。

「日村はあげんありますから、結構な恨みを買うとりますよ。アイツのHADも人を傷つけるために存在しとるようなもんです。そげんですから、私はアレは日村個人を狙ったもんじゃないかと思うんですが……」

「しかし、確証もないのに教室の誰かが犯人というのは……」

「八月一日先生、これで終わりだと思いますか?先生は、生徒たちにご自身のHADを教えたらしいじゃないですか」

「ええ、まぁ」

「あなたの前では、さすがの日村もただの中学生です。それを利用して、犯人はこれからもっと何かをやらかすかもしれません」

「そんな……」

 この学校だから、というわけではない。学校で起こる生徒間の問題というのは、往々にして大人の世界の理屈が通らない。時には法さえ通らないことがある。しかし、それでも八月一日やほかの教員たちは大人をやめるわけにはいかない。口を歪め思案する八月一日に四万都は日村に近づき耳打ちをした。ハラスメントだと訴えたいほどに暑苦しかった。

「用務員さんが、辛坊しんぼうが雑木林の方に行くのを見たらしいです。金魚の埋葬だとか。ちなみに、あの日教室の金魚を殺したのは日村です」

 八月一日は深く息を吐いた。教員の少ない職員室は会話の一つ一つが教員たちの注目の的になってしまう。あの鬱屈した空気は、教室だけでなく職員室も蝕んでいるようだった。


 その日のホームルームの時間を使っての三者面談が始まる前、八月一日ほずみ纐纈こうけつから生徒の詳しい個人情報が記されたファイルを渡されたが読むのを断り、彼は生徒に書いてもらった履歴書のようなプロフィールを持参した。「普通の生徒と教師のような関係でやりたい」と八月一日が願ってのことだった。空調まで効いた快適な部屋だが、三十路過ぎと五十過ぎの男がただ沈黙して待つにはなかなかの忍耐力が必要だった。考えてみれば、教師たちは生徒たちと同じくらいにお互いについて語り合おうとはしなかった。八月一日も纐纈も用具入れから掃除道具を取り出し、生徒が入室してくるまで滅多に使用されない進路相談室(仮設)の手入れをし続けた。

 最初に進路相談室に入室してきたのは出席番号1番の阿久津美鳩あくつ みく、細いながらも健康的に伸びた手足に、黒以外の色を反射しそうなほどに美しい黒髪の少女だが、彼女が教室で他の生徒と距離をとっているのはその容姿のせいではない。

「どうです……学校は、楽しい?」

 美鳩は首を傾けるだけで答えた。前髪が、さらりと音でも立てたかのように流れる。

「う~ん、例えばこの学校でこうして欲しとか、要するにイベントかとかね、あと授業でも設備でもいいけどなにか要望とかがあれば……」

「別に、ここに来たくてきたわけじゃありませんから」

「まぁ、そうですよね……。」

 彼らに対する大人たちの後ろめたさは常についてまわる。教師と生徒という関係も、ここでは完全に管理する側とされる側というのが近い。人道的な問題など、様々な方向からのプレッシャーは教師たちの振る舞いに大きく影響を与えていた。そして、実際に生徒の自分たちではどうしようもない不満をぶつけられると、ただ彼らは自分たちの無力を痛感するしかなかったのである。

「阿久津さん、将来の夢の欄が書いてないですね。難しかった?」

「夢が……無いんです」

 美鳩ははっきりと答えたが、反抗的というよりも、そこには何か憂いがあるようだった。纐纈はその理由に予想がついたが、八月一日は全くわからなかった。これまでの授業や課外の時間では、彼女のHADに言及されることが一切なかったからだ。

「まぁ……夢とか目標がないのにはいくつか理由がありますね。男子なら、それが恥ずかしいって時ね。芸能人になりたいだとか、格闘家になりたいだとか、君らの歳の男子はちょっとまだ人に言うと恥ずかしいって夢を持ってる場合がありますからね」

「先生は中学生の頃何になりたかったんですか?」

「とりあえず……BIGになりたかったですね」

「痛いですね」

「だから誰にも言わなかったんです。で、他には耳年増になっちゃってるってこともあるでしょうね。この時代いろんな情報に溢れてて、何をやるにしても失敗談やそこまでいかなくても、いざやってみると大変だ、みたいな話が出てくるから、夢の出鼻をくじかれてるってのもあったりすると思うんですよ」

 とにかく話して可能性を探ってみようとする八月一日だったが、美鳩はまるで慈しむように八月一日を見ている。思わず八月一日も、美鳩に引き込まれて「モデルになったらいいんじゃないか」と言ってしまいそうになったが、あまり教師の助言としてそれは適切ではないだろう。

「先生いい人ですね」

「いい人って最近じゃ褒め言葉じゃないらしいですけどね」

「礼はいいです。先生はわたしたちのことを本当に調べずに接してくれてるんですね」

 美鳩は能力抜きでも察しが良かったようだった。一般に、HADと人格の因果関係はないといわれている。一時期、HAD別の性格判断を研究し流行らせた学者でもない人間がいたが、結局バーナム効果の域を出ることはなかったという。しかしこう対面していると、実に美鳩のHADは彼女に適切に与えられているような印象を与える。

「そういうのは、見抜かれちゃうとこっちとしては恥ずかしいものがあるね……」

「いいですよ、無理しなくったって。……わたしは未来が見通せるんです。だから、自分がどういう人生を送っちゃうかもうわかっちゃうんですよ」

「なるほど……その、予知?したものは変えられないんですか?」

「変わりません。少なくともわたしに関しては」

 纐纈も先が見えているせいで退屈しているのだと思ったが、彼女の一種の前向きな態度はそれとは違うものを感じさせる。

「なるほどね……。でもさ、そこにどう到達するかはまだ分からないんですよね?」

「そうですけど……。」

「必ずしもその結果が大事だというわけじゃない。目的は手段を最適化するけど、手段に、そこに至る道によって目的の意味だって変わってきますよ。その結果へ君がどう歩むか、それを一緒に考えましょう」

 美鳩から憂いの表情は消えなかったが、彼女は取り敢えずの笑顔を見せてくれた。

「……夢とか目標とか、堅苦しいのはいいから、とりあえずこれをやってみたいってのはないですか?」

 美鳩はしばらく考えたていたが、それは彼女がただ自分が見てきた自分の人生の未来を思い起こしているだけのようにも見えた。ただ未来が見えてしまうということが、これほどまでに人を不自然に成熟させるものなのだろうか。八月一日は別の心配を美鳩にし始めるようになった。

「もっとみんなと、仲良くしたいかな……。」

「そっか、それも同時に考えないといけませんね……。他にはその、高校にも上がるんだけど、こういう勉強をしてみたいっていうのはあります?」

「そうですね……留学とかしてみたいかな……。」

「留学っ。そっかぁ、どこ?」

「イギリス。前から向こうのポップカルチャーに興味があるから」

「そうですね、阿久津さんオアシスとか好きですもんね。なるほどぉ、短期の交換留学とかもあるから、それは色々こっちでも相談してみるよ」

「本当ですか?」

「八月一日先生」

 纐纈が流れをあえてかき切るように割り込んできた。

「いきなり留学とかじゃなくても、英文学やるとかいろいろ手はあります。まず手元でできることから考えましょう」

 纐纈の焦りは、容易に美鳩に伝わった。

「そうですね……」

「なぁ、阿久津。今から勉強してだ、英米文化を研究できる大学に進学するってのもいいだろう?」

 美鳩は少し微笑んで肩をすくめた。

 美鳩が退室した後、纐纈は目頭を抑えながら言う。

「八月一日先生、無駄な希望を持たせるのはよくありませんよ……」

「無駄といいますと?」

「阿久津は海外に行けません。というより、HADが安定化するまで、まずこの学校や保護観察官の管理外に行くことができないんです」

「はぁ……」

「日村や木根なんかと違う意味で彼女のHADは危険です。それも彼女自身にとってです。彼女の予知は利益を生む。政治で軍事で財界で。そのせいで、彼女と同じHADを持つ者の多くが研究という名目でその自由を奪われたり、高額な金で雇われ都合のいいように利用された過去があります。この学校の厳重な警備も、そういったよからぬことを考える奴らが入ってこれないようにするためのものです。その阿久津が、海外になんて行けるわけ無いでしょう」

「……まぁ、確かに普通の生徒よりも危険があるとは思います。しかし、アメリカなんかではヴァレンタイン法もあるわけじゃないですか?彼らを保護するための法設備だって整っていますよ」

「何事にも万が一ということがあります。わたしたちは彼らを守らなければならないんです。もし、彼らを自由にすることで……」

 纐纈が話している途中で、扉をノックする音がした。

「どうぞ」

 纐纈が促すと、入ってきたのは出席番号2番の大祝俊二おおほうり しゅんじだった。ニキビ跡がまだ残るどこにでもいるような中学生で、しかし眉毛だけは手入れしているのだろう、眉の端が剃り跡で青くなっていた。元々は彼の眉が太いことが伺える。

「ちーす」

 俊二が首だけでお辞儀する。

「ちーすっじゃない。ちゃんと挨拶しろ。基本だぞ」

 纐纈に注意され、俊介は無言だが深々とお辞儀をした。

「つか、八月一日センセーのHADの範囲ってマジ広いんスね。教室にこのまま入っちゃおうかと思ってたのに、結構前ではじかれちゃいましたよ」

 俊二のHADを知らない八月一日は、彼の言っている意味を理解していなかったようだが、纐纈はすぐに俊二が何をしたか分かったようだ。

「移動程度にHADは使うなと言ってるだろう。誰かにぶつかったらどうする」

「はいはい」

「ハイは一回だ」

 あまり素行がいいようにもみえないが、別にこの年齢の少年にはありがちなものといえなくなはい。ただHADを持っているという以外は普通の中学生なのではないかと八月一日は思った。

「はい……君にもいろいろ進路希望とか書いてもらったんだけど、宇宙飛行士はどうなりました?」

「……あきらめました。よく考えたら俺、高所恐怖症だったんで」

「じゃあ、どうしようもないですね。で、今の目標が大学生……と。行きたい大学とかはあるんですか?」

「やっぱマーチとかっすかね」

「そりゃまたなぜ?」

「別に、取り敢えず大学生になりたいだけなんで、あまり理由はないです。それ以上だと地頭がマジで良くないと行けないと思うから」

「とりあえず大学、みたいな感じだとモチベーションの維持がきつそうですね。宇宙飛行士以外には将来の希望とかなかったんですか?」

「そっすね、会ったこともない身寄りのない大金持ちの親戚が遺産とか残してくれて後はその金で一生遊んで暮らせたらなって夢はありますけど」

「それをここで言えちゃう君の神経に先生はちょっと驚いてますよ」

「だってあれじゃないですか。このままHADが安定化するまで閉じ込められて監視されて、まともな生活を送れるのはいつになるかわからないんすから、そりゃやる気もなくなりますよ。せっかくHAD持ってんのに、いざ出たらただの人なんだもん」

「そうですか……。」

「それに将来だとか言われても正直ピンと来ないっすね。自分の親父とか見てても何が楽しくて生きてんのかマジ分かんないし。つまんない大人しか見たことないんで……。」

 HADのキャリアだとはいえ、そこはやはり普通の中学生なのだろう。俊二はありきたりな中学生の大人観を吐露する。

「むぅ、別に大人は生きててつまらないってわけじゃないとは思いますよ?」

 八月一日がペンを持った手で頭を軽く掻いた。

「先生たちも楽しくなさそうに見えるか?」

 率直な俊二に纐纈が無理な笑顔を作って言う。

「ぶっちゃけ。……てかさ、先生たち趣味ってか、何かして遊んで楽しいってことあんの?俺たちに『何をしてて楽しいか』なんて聞くんなら、先生たちも教えてよ」

「いや、それは八月一日先生が……。」

 纐纈は困惑した。自分の今の生活を振り返って、何か取り立てて趣味があるとは思えなかったからだ。しかし八月一日は焦ることなく、遠い目をしながら懐かしそうに俊二に語り始めた。

「う~ん、そうだね……例え話をしましょうか。先生の父親の話なんですけどね、先生と違って父は会社員だったんだけど、公務員の先生よりもまぁお堅い人で、正直子供心にこの人何が楽しくて生きてるんだろうってよく思ってたもんですよ。定時になったら酒も飲まずに真っすぐに帰ってくるし、家でも飲まないしタバコもやらないしパチンコなんかのギャンブルもしない。まるでスケジュールをシャツの刺繍にでも入れているんじゃないかってくらい規則正しく生きてる人でした。そして何より厳しい人だったんです。先生が約束だとか家の決まりごと、礼儀作法を守れないと、ゲンコツでよく頭を叩いてきましてね。冗談なんか決して言わないし、冗談を聞いても笑わない。先生が子供よろしくつまらないギャグを言うと、まるでなかったことのように黙殺するような人でした。もちろん休日に遊びに連れて行ってくれるようなこともなくてね、でも小学五年の時の夏休みにどうしてもみんながやってるように遊びに行きたくてね、先生、父親に珍しくわがままを言ったんですよ、しつこくね。そしたら父も流石に子供をどこにも連れて行かないってのに後ろめたいものがあったのかな、先生を会社の慰安旅行に同伴で連れて行ってくれたんですよ。会社で行く慰安旅行でしかも行き先が熱海の旅館なんて、普通の子供なら面白くないんだろうけど、先生はすごく嬉しくてね。父親と旅行に行けるなんて思ってもみなかったから終始上機嫌ですよ。今思うと下らない社員の宴会芸でも本気で笑って見たりしてね……。で、宴会もそろそろ終了ってときに父とテーブルを挟んで飲んでた同僚がふと思い出したように言い出したんです。『そういえば、今日は八月一日さんの下ネタがないですね?』ってね。すると他の同僚も『そうだ、何かが足りないと思ってたら八月一日さんの下ネタがないんだっ。』って騒ぎ始めたんです。他の同僚なんかは『というか、八月一日さん。今日は全然喋らないじゃないですかぁ。なんか寂しいですよっ』とか言い出して、仕舞いにゃ父に『ほら、八月一日さん。デザートにマンゴープリン来てますよ?ゴープリン……』とか囁きだしたんですね。改めて父の方を見ると、父は俯いたまま耳まで真っ赤になっちゃっててね。………先生の父親、会社でエロキャラだったんですよ、しかもかなりコアな」

 纐纈も俊二も、意味が分からずにただ半笑いで八月一日の話を聞いていた。しかし八月一日の方はいたって真面目に話しているようだった。

「父は会社では全く別の顔を持っていたんです。それもあまり子供に話したくないようなね。……大祝君、つまりはそういう事なんです」

 思わず俊二と纐纈は顔を見合わせた。八月一日の意図がわからなかったからだ。

「もしかしたら小学生からすると中学生なんてのは全く楽しくない生活を送っているように見えるかもしれない、でも君たちそんなこともないでしょう?中学生には中学生なりに見える世界ってものがあります。大人にしたってそうですよ、『実際にやってる』のは大人は大人をやれるからみんな大人をやってるんです。先生の父がエロキャラだったように、それは下の人間に言ってもわからないから言わないだけでね。先生も先生で定年したお年寄りが何が楽しくていきてるのか分からないですし」

「なるほど……いいはなしですね……。」

 纐纈が「いい」に「?」をつけるように言った。

「まぁ、とりあえず大人がどうというよりも、出来る範囲の目標なり何なりはあってもいいんじゃないですかね?」

「できる限りってどういうものですか?」

「こういう勉強がしたいとか、スキルを身につけたいとか。どういう形であれ君の財産にはなるはずですよ」

「あんま考えたことがないっすね……」

「じゃあ、こういう授業したいだとか、イベントやって欲しいとかってのはあります?」

「たまに外に出て授業とかしたいかなぁ……」

「社会科見学とか?」

「そこまで子供っぽくなくてもいいんだけど。いっつも同じところにいるのに飽きたっていうか……。」

「なるほど……。」

「あ、あと体育の授業に八月一日先生も来てよ」

「どうしてです?」

「俺らさ、体育っつっても風間みたいに滅茶苦茶運動神経良くなってるやつとかがいて、普通にバスケとか出来ないんだよね。だから先生がいてくれたらみんな互角にやれるかなって思うわけ」

「ああ、いいですよ。そうだね、そういうことでお役に立てるのなら是非ともお役に立ちたいね」

「お前だってバスケの時にリンク前に瞬間移動してダンク決めてるだろうが、人のこと言えんぞ」

「いや、あれはやられたからやり返してるっていうか……。」

 俊二が出て行ったあとに、八月一日が纐纈に「彼は瞬間移動するんですか?」と訊ねた。

「まぁ、ここに来てる子達の中では比較的おとなしいHADかもしれませんが……アイツは小学生の時に万引きをして補導されて、よりによってその時にHADを初めて発現させたそうです」

「ああ……。」

「よほどそこから逃げたいと思ったんでしょうな……。しかし、そのあと味をしめたのか、ちょくちょくHADを使って悪さをしていたようです。だから大祝がここに来たのは半ば強制だというところがあるんですよ……。」

 別に少年の万引きというのも珍しいものではないが、先ほどのあけすけな俊二の様子からは予想がつかなかった。友人と一緒に悪ふざけでやったのだろうか。

「八月一日先生」

「なんでしょうか?」

「先生の先入観を持たないようにするというのは良い心がけだと思います。しかしね、ここに来た子達は望んできたものはほとんどいない。いや全くと言っていいでしょう。そしてその中には、とてもナイーブな前歴をもつものも少なくない。当たり前の子供達だと思って接していると、知らず知らずのうちに彼らを傷つけてしまいます。彼らのことを事前に知っておくというのは、我々の義務でもあるんです」

「なるほど、確かに……。」

「まだ、大祝なんかは序の口ですよ……。それより八月一日先生、面白いお父様をお持ちなんですね。大祝がいなければ笑ってしまっていたところですよ」

 しかし八月一日はめんどくさく伸びをして、あくびをするように言った。

「いえ、あれは昔テレビで見たお笑い芸人のエピソードですよ。僕の父の話じゃありません」

「あ、そうなんですか。では実際は何を……?」

「さあ、知りません。両親が離婚してから長いこと父とは連絡を取っていませんから」

 まるで、小学校の間に少しばかり仲の良かった同級生を思い出すようなモノの言い方だった。

 次に入ってきたのは出席番3号番の木根龍兵きね りゅうへいだった。龍兵のアンケート用紙は実に分かりやすく、将来の目標は「資格を取って働く」というものだが、中学3年生がこんなにも簡単に将来のあり方を具体化させてしまうことに、八月一日は少しの疑問を抱いていた。

「うん、じゃあ木根くん。そこに座って」

 龍兵は八月一日に促されると、無表情にお辞儀をして席に着いた。龍兵はうまく鍛えればスポーツでいい実績を残せそうな上背の少年だった。しかし、子供の頃からあまり食べなかったのか、それとも食欲というものが元々欠けているのか無表情が相まって、精気を失っているような印象を八月一日に与えた。

「木根くんは……資格を取りたいんだ?」

 龍兵は無言で頷いた。

「またどうしてです?いや、将来のイメージを持っているっていうのは大事だけど、ただその資格っていうのも具体的に書いてないですからね……」

「早く働けるようになりたいのか?」

 すでに龍兵の前歴を知る纐纈が身を軽く乗り出して訊いた。

「……はい」と、覇気のない様子で龍兵が答える。

 自分が赴任してきた初日にガラス窓を壊したのが龍兵だということを八月一日は纐纈から聞いていたが、呼吸の仕方からも静けさを感じさせるような龍兵がそういうことをするとは到底思えなかった。内に秘めた怒りのようなものが彼の根底にあるのではないだろうか。八月一日は、何も手掛かりのないアンケート用紙を再度目でなぞった。

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