【其の参】ほずみ先生と特別な子供たちと
「……えー「ほずみ」という字はですね、こう……
自分の名前をネタにしつつ笑いを取ろうと試みていた八月一日だったが、その言葉はひたすらに空回りをした。
「え~趣味は山登りでして、最近はあんまりいってないんですけど、大学時代には山岳部に所属してましたよ。見えないでしょう?これでも結構体力には自信があるんです」
名前以外は本当に普通の、何でもない男だった。普通なのは顔だけではなく、感情の出し方、立ち方、影の濃さすらも普通なのだと生徒たちに思わせた。しかしそれは、今からゴングのなろうとするリングの上で、構えも取らずに真っ直ぐに歩いてくるという意味では異常を思わせるものだった。
「まぁ、あまり自己紹介の話題とかもないんで、質問募りましょうか?なんでも聞いてくださいね、答えられる範囲で答えますから。あ、因みに結婚はしてません。訊いてないですね、はい」
生徒が互い顔を見合わせながら誰が例の質問をするのか探りを入れ始めるが、中々誰も手を上げない。美鳩は誰が手を挙げて質問するのかと周りを見渡したが、彼女はある違和感に気づいた。
「ほら、誰かいないのか?少しは興味を持ってやれよ。これから1年間一緒にやってくんだぞ。ないんなら授業はじめようかぁ?」
教壇の隣にいる
「お、嬉しいね。やっとだよ。それとも君たちはアレかい。シャイなのかい?」
くだけて見せているがあまり功を奏していないようだ。あくまで彼らにとっては探りの時間であることには変わりない。
「どうも、学級委員長の辛坊です……」
「学級委員長っ。やっぱりこういう時は委員長が率先するわけだねぇ。エラいっ」
「あのぅ、もし秘密……だったらアレなんですけど……そのぉ」
「彼女がいるかとか?残念ながらねぇ、いないんですよ。出会いがないというかね、もう三十だから焦ってるんですけどね」
そう言うと、八月一日は30年後に失うことになる前髪をかきあげた。しかし、その一切に生徒たちは興味がない。
「いや彼女とかじゃなくて……」
透流は別に頼りにされているからという理由で委員長になっているわけではなく、ただ単に使い勝手がいいからと推されただけである。選挙で圧勝したのは、彼の無益さと無害さにほかならない。クラス中がしびれを切らし始めたので、挙手もせずに誰かが大声で野次るように言った。
「先生は何でこの学校に来たの?」
一斉に教室中の視線が、声ではなく八月一日の方へ向いた。
「何でって……それは、他の先生方と同じですよ?教育委員会から派遣されたんです」
教室は驚く程に無反応だった。元から何にも興味のない
「えっと、そういうことじゃないのかな?それ以外の理由は特にないけど……」
「いや、んなこと言ってもすぐにばれますよ」
暦の隣の
この学校に赴任する教師は、生徒と違う形で「一般的」ではなかった。担任の纐纈は教育評論家としての実績があり、学年主任の
「……といいますと?」
「このクラスじゃあ、隠し事なんてできないってこと」
俊二も暦に目配せをした。
「なんでわたしが……」
暦は周囲の期待に不快そうに反応した。寿と違い、このクラスには自分のHADを受け入れられない生徒が多い。特に暦はその中でも自分のHADを嫌悪していた。
「いいじゃん」
「おや、
「西塔が、センセーの隠し事を当てるんだよ」
クラスメイトたちは口々に「やれー」や「がんばれー」を口にした。そのどれもに心がこもっていないのは、彼らにとってHADを使うことがそれほど労力を必要とするものではないからだろう。
「おお、西塔さんそういうの読むのがうまいの?」
八月一日は、まるで何も知らない人のように生徒たちの一挙手一投足に注目している。しかしそれが暦には気に障り、暦はあの全てを見透す様な目で「やめてくださいよ」と、八月一日を睨んだ。
「おや、どうしたんだい?」
しかし、本当に彼には何のことかわからないようだった。
「知ってるんでしょ、わたしたちのこと」
「知ってるって?」
「だから、俺たちがそれぞれどういうHAD持ってるかだよ」
俊二が暦に変わって声を上げる。
「ああ、それね……」
「別に隠さなくてもいいからさ、いつものことだし。うちに赴任してくる教師はみんな生徒の個人情報みるってのは」
別の生徒も同調し、教室のそこかしこから好き勝手な言葉が飛び交った。
「教師とか言っても、ここのは管理役ってわけだからさ」
「俺たちも今さらって感じじゃん」
「普通の先生なんか来るわけないっしょ?」
八月一日は頭を掻きながら彼らが落ち着くのを待った。その間、ただまっすぐに、彼らが何を「溜め込んでいた」のかを、その言葉の一つ一つから掴み取ろうとするように用心深く。
「てか先生っつっても、普通の教育大学出てないんでしょ?」
流石に自分勝手な思春期真っ盛りの中学三年生の集まりだろうと、一向に彼らの問いを聞き続けるだけの八月一日の様子を不審に思い始める。そうして彼らが静まり返るまで待った後に、八月一日は口を動かした。
「先生はね……君たちに関する情報、一切目を通していません」
「ウッソだっ」
大きな声だったが、誰の声かはわからなかった。それほどまでに、みんなの気持ちを代弁した声だった。
「本当ですよ?だって、そんなものを見ちゃったら、先入観で君たちと一からの関係なんて作れませんからね」
異変に完全に気づいていたのは
「先生にはその必要もありませんから」
そう八月一日が言うと、離れて腕組みしながら様子を見ていた纐纈は、鼻を親指でかきながら含み笑いをした。
「まあ、先生の話ばかりじゃなんなんで、次は君たちの自己紹介もしてほしいな。よぉし、じゃあ出席番号順に行こうか?……一番誰?」
美鳩が「わたしです」と手を上げる。
「ああ、君?えっと、
「生徒少ないし」
意外そうに言う八月一日に俊二が声をかける。
「そっかぁ……じゃあ阿久津さん、自己紹介お願いします。はりきってどうぞっ」
「先生、立ちますか?」
「どっちでも、楽な方で」
しかし美鳩は律儀に起立した。
「ええと、阿久津美鳩です……えっと」
「出身とかは?」
「出身は、青森です」
「青森、地域で方言かなり違うんですよね」
ただ受動的に話していただけの美鳩の瞳が、少しだけ光を持った。
「はい。ウチは北部なんですけど、おばあちゃんが津軽で時々なんて言ってるのかわからない時があります」
「外国語みたいに分からないとかあるらしいからね」
「そうですね」
美鳩の口が緩み、そしてクラスメイトたちは彼女が青森出身だということをその時初めて知った。
「趣味とかは?」
「趣味は……音楽鑑賞、かな?」
「音楽ねえ。最近何聴いてるんですか?」
「オアシス……とか」
美鳩は緊張した面持ちで周囲を見渡した。彼女にとっては周囲の反応の予想がつかない中での振る舞いはあまりにも久しぶりだったからだ。数人がに対して「知ってるよ」と囁く。美鳩は自分の顔が火照るのに気づき、下を向いて表情を隠した。
「かっこいいねぇ。J-POPじゃなくて洋楽なんだ。いえ、別に邦楽だって素晴らしいんですけどね」
そのま美鳩子は黙って着席した。そして数人のクラスメイトはその美鳩の様子にいつもと違うものを感じる。
「はい、次は大祝君。飛ぶねぇ、「あ」の次が「お」だ」
暦の隣の席の俊二が立った。
「イツっ」
「あ、大丈夫?大祝くん?」
俊二は立ち上がる際に膝を机にぶつけてしまった。その音の大きさからからかなり彼が強めにぶつけた事がわかる。
「はい……えっと何でしたっけ?」
俊二は痛みで何を言おうとしたかど忘れしたようで、かなり緊張していたことが伺える。それを見た美鳩が口を軽く押さえて吹き出し、その美鳩の笑い気づいたクラスメイトは、また今のこの教室がいつもと違うことに気づく。いる人間も、モノの配置も漂っている空気もが同じはずなのに、まるで差し込む光の質そのものが変わっているような、些細で、確認はすることはできない。けれど根本的な変化だった。
「いや、先生は知りませんよ。君の自己紹介でしょう」
「あ、はいえっと、大祝俊二です。趣味は……。」
「趣味でなくても好きな食べ物とか……将来の夢とかね」
答えに窮した俊二に八月一日が助け舟を出すが、それを聞いた途端にクラスの数人は、攻撃的ですらないほどに冷めた目で八月一日を見た。
「将来の夢、じゃあ宇宙船のパイロットとか?」
とても自嘲的な笑い方だった。普段の教室と変わらない、滞って濁った空気がまた溜まり始めていた。
「いいぞ~」
「君ならできる~」
俊二に対して投げやりに口走るものもいた。俊二もそれを分かっての発言だったのだろう、声援に応えるような素振りで手を振った。
「うん、次は木根くんだね。……木根くん?」
「……木根です。特にないかな」
「そう?なんでもいいんだよ。趣味とかが大げさだと思ったら、単に好きなことでもいいし……。」
「じゃあ……ラジオとか」
「おお、深夜ラジオ、オールナイトニッポンとか?」
「そいつの場合、部屋にラジオしかないんだよ」
「いやいや、先生も君らぐらいの頃は夢中になって聴いてたよ。面白いんだよねハガキのコーナーとかさ。お金とかでああいう娯楽の良さを片付けちゃうのはもったいないね」
「いや、ホントに金がないんだよセンセー。日村と違って、墓場まで親のスネをかじってられないんで」
二人のやりあいを聞きながら、クラス中が自分に二人のとばっちりがこないことを祈っていた。少し強い風が吹き補修された窓が揺れると、数人が体を緊張させた。
「ホラホラ、険悪なのはよくない。せっかくお互いのことを知ろうっていうのに」
「先生さぁ、ホントに俺たちのこと知りたいの?」
寿が意味深に、挑発的な笑いを浮かべながら言う。
「もちろん。そりゃ「先生」だからね。それが仕事みたいなもんだよ」
「あっそお……、ねぇ、八月一日先生さ、何で田中山が学校辞めたかは知ってる?」
赴任してきたばかりの教師は、普段の教室の様子を知らないのは当たり前だ。しかし、それでもこの学校に来てのんびりと構えているのは不用心だと捉えられても仕方ないものがあった。この時点で普段の纐纈なら「上」の存在をちらつかせただろう。しかしやはりそれでも今日の彼は余裕を持っていた。
「田中山先生からはある程度引継ぎでますよ。……まぁ、人間色々あります」
「色々ってさ、色々あってああなっちゃうんですよ。先生も「ああ」なちゃうんじゃないですか?」
さすがに纐纈が口を出そうとしたが、八月一日がそれを身振りで制した。
「そうですね。なるかもしれないし、ならないかもしれません」
八月一日の笑みは、うっすらとしか顔に残っていなかった。
「ならないわけないよ。俺ら相手にすんだったらさ」
「……なるかならないかは問題じゃないよ」
寿は訝しんだ目で八月一日を見る。
「……ま、そういう話はおいおいしていきましょう。次は古村さんね」
その後も数人が自己を紹介するという非日常的な行事をこなすと、次に来たのは西塔暦だった。しかし暦は、起立もせずに「はい、西塔暦です……」と答えたきりだんまりを決め込んだ。
「……え、終わり?」
「はい」
「その、趣味とか出身とかは?」
「言いたくありません」
クラスのほとんどが暦の態度に苦笑いをする。例え彼女がどんな不遜な態度をとっても、このクラスの人間は反感すらいだこうとしない。彼女は龍兵や寿と違い、別の意味で敬遠されているのだ。
「う~ん、まぁそれでもいいですけど。好きな食べ物とかも……ダメかな?」
大人のくせに、変に猫なで声で話す八月一日が気に障ったのだろう、暦は何層にも膜がかけられたような濁った目で八月一日を睨んだ。
「別に知りたくないでしょ?わたしが何が好きかとか。それが何になるんです?」
「西塔……。」
二人の様子を見かねた纐纈が暦を諌めようとしたが、八月一日は「そうですね、ほら、食べ物の話というのは……罪がない」と、暦にではなく教室を見渡しながら語り始めた。
「まぁね、政治と宗教と……あと野球の話は飲み屋でするなって言いますがね、世の中にある話題の中で、美味いものの話ってのは誰も気づけたりはしないんですよ。罪のない話題だ……」
「クジラは?」
暦が桜の木を見ながらつぶやく。
「はい?」
「クジラは好きって言うと嫌がる人いますよ」
俊二が八月一日に向かって「いっぽ~ん」とちゃちゃを入れる。
「……大丈夫ですよ、美味しいクジラなら受け入れてもらえますって……。」
暦が「ヘリクツ……。」と言ったまま、また黙ろうとするので纐纈が言う。「西塔はよく本を読んでるんですよ、画集とかな?」
暦は反射的に余計なことをしてくれたな、という目で纐纈を睨んだが、何故か今日の担任は彼女を恐れる素振りがない。
「お、そうか。誰が好きなの?」
「……全般的に」
頬杖を付いたまま暦は言う。
「なるほど、アートに興味があるのかぁ」
「……人間と違って余計なこと考えませんから」
暦は目だけを八月一日に向けていった。八月一日が纐纈を見ると、纐纈は軽く、音もなく咳をしてみせた。暦の無関心は今に始まったことではなかったが、今日はそれに苛立ちが見え始めている。
「確かに、ああいう昔の芸術作品を見てると、人間の中にはその体には収まりきれない、エネルギーみたいなものがあるんだと思わせるものがありますね」
しかし、暦は無言であまり関心はないようだった。
「先生、昔ルーブルに行ったことあるんですけどね。いや、いいですよ。モナリザの前に立つとね、なんか圧倒されて息が詰まるものがあった」
八月一日をうるさく思った暦は、教壇の方をまっすぐに見た。しかし、相変わらず八月一日からは掴めるものがない。
「……うん、じゃあ次は辛坊君。委員長いってみようか」
「はい、辛坊透流です。趣味は、特にないです。あ、出身は岡山です」
「なるほど、学級委員長て普段どんな仕事してるのかい?」
「えっとぉ……」
「ここはやることが少ないですから、日直と授業の補佐やって、後は生き物の世話とかですね」
纐纈が助言をする。
「なるほど……で、このクラスでは何飼ってるんですか?」
「金魚飼ってたんですけど……。」
金魚は既に水槽にはいなかった。生き物係も兼ねて世話をしていた透流は複雑な面持ちだった。この後彼は金魚の埋葬をしなくてはならない。透流の意識は寿に向いていたが、誰も気づく者はいなかった。
「生き物が好きなんですか?」
「はい……実家で犬飼ってました」
「なに犬?」
「柴犬です。僕が生まれる前から家にいたんです……。」
「とすると、かなりおじいちゃんですね」
「この間……実家から死んだって連絡ありました……。」
「……そうか、悪いこと聞いちゃいましたね」
「いえ」
「うん……」と、深く頷くと八月一日は静かな表情で語り始めた。
「子供が生まれたら犬を飼うのがいいらしいですよ。犬は子供が幼い時は子を守り、子供が少年の頃は遊び相手になるんです。そして青年期には子供に死を教えるんですからね……。」
透流も八月一日のように深く頷いた。
「まぁこれ、ゴルゴ13のセリフなんですけどね」
透流また深く頷いて、軽く笑った。
透流のあと、数人の自己紹介が終わると次に寿が呼ばれた。
「はい……日村寿です。出身は埼玉で、趣味は読書です」
それだけいうと、寿は着席した。
「読書というのは、小説?」
「マンガ」
「へ~何が好きなの?」
「……『漆黒の探偵』っていう、多分誰も知らない」
「ああ、あのちょっと絵が綺麗だけどキモチ悪いやつですか?」
「え?ああ、そうです」
寿は周りを軽く一瞥したが、取り立てて反応があるわけでもなかった。
「ああいうの好きなんですね。ほら普通のジャンプなんかは読まないの?」
「いや、ガキ臭いっていうか」
「なぁるほどね。いや、先生の頃はジャンプ学校に隠して持ってきて読んで毎週盛り上がってたんですけどね。それくらいしか思い出ないんだけど」
「じゃあ次は……」
自己紹介は進んでいったが、ここの少年少女たちは順次出席番号順に名前が呼ばれると、最初の美鳩に続くように、名前と趣味、もしくは出身地をただ言うだけだった。
出席番号順に自己紹介が終わると八月一日は満足そうに出席簿を閉じた。
「ありがとう。みんなのことを理解するにはまだまだだけど、ほんのとっかかりができた感じかな。いや、でも良かったよ。自己紹介で「趣味は人間観察です」、何てコがいたらどうしようかと思ってたんですけど」
八月一日はおどけてみせたが、しかし生徒は誰も笑わなかった。
「うん、じゃあ簡単なレクリエーションはこのくらいにして、授業始めましょうか」
「西塔さん、あの先生のいってたこと本当?」
授業の後、八月一日がいなくなった教室で、クラスメイトの女子が信じられないという様子で暦に訊ねる。
「知らない……。」
暦はその女子と目も合わさず答える。
「ああ、そうなんだ……。」
そのクラスメイトは暦がHADを使わなかったからのだと思ったが、正確には「分からなかった」というものだった。しかし、自分の違和感を口にするほど、暦はクラスと打ち解けてはいなかった。
「西塔さん……もしかして読めなかったんじゃない?」
頬ずえをついて相変わらず外を見ていた暦だったが、その言葉に驚き振り向いた。話しかけてきたのは美鳩だった。
「なんで……?」
美鳩は暦の隣の席の椅子を引っ張り彼女の横に座った。その行為に暦は少し気恥ずかしさを感じた。
「わたしも……あの時みえなかったの」
普段はクールだと思っていた美鳩が、いま自分の近くで困惑している。未来が見える彼女がここまで動揺するのは、暦にとっても新鮮なことだった。いや、そもそもこれが彼女の素顔なのではないだろうか。
「今は?」
「え?」
「今は、視えるの?」
暦が訊くと、美鳩は教室の扉を見るまでもなく「……もうすぐ辛坊君が日村君に頭を押さえつけられながら教室に入ってくるよ」と、既に見てきたかのように言う。ほどなくして「痛い痛いっ」という透流の悲痛な声が聞こえてきた。そして教室の横引き戸が開くと、寿と彼にヘッドロックをされた透流が入ってきた。美鳩の予知は完璧だ。
「西塔さんはどう?」
「どうって?」
「読める?」
暦は困りながら「ああうん、ちょっと待ってて……」と手頃な人間を周囲に探し始めた。しかし、「西塔さん、わたしでいいよ?」と、美鳩は意外な申し出をしてきた。
「え、いいの?」
「うん、やってみて。大丈夫、当たり障りのないこと考えるから」
「……分かった」
暦は目を閉じて意識を集中した。そうしなくても読めるのだが、改めて正面の人間と目を合わせながら心を見るのが気恥ずかしかった。
「……ええ?阿久津さん、なにこれ?」
暦は笑いながら目を開けた。
「私の部屋で飼ってるジュウシマツ。可愛いでしょ?」
「うん。……つがいなんだぁ」
「今度見せてあげようか?手乗りもできるんだよ」
「ほんとう?……あ、やっぱり読めるみたい。なんだったんだろう、さっきの」
「不思議だよね……どうしたの西塔さん?」
ジュウシマツで見せた笑顔も束の間、暦の表情は重くなっていた。
「ごめんね阿久津さん……、読んじゃって」
「気にしないで。わたしがそうしてって言ったんだから」
「うん……」
「それと、阿久津って言うのやめてよ、なんか重苦しい。下の名前でいいから」
「そう?阿久津ってなんかクールじゃん」
「やだよぉ、別にクールとか求めてないし」
「分かった。……じゃあ、美鳩ちゃん。こっちなら軽いでしょ?」
「いいねっ。じゃあ西塔さんはコヨミンね」
「コヨミン?なんかのマスコットキャラクターみたい」
暦と美鳩は笑いあった。
「……さっきはありがとね」
口は微笑んだままだが、美鳩が改まって言う。
「さっきって?」
「あの二人の喧嘩止めてくれて」
「ああ……」
「わたしなんか一番最初に逃げちゃって……、本当はみんながコヨミンにお礼言わないといけないのに」
「いいよ……わたしも、ただ読みかけの本燃やされたくなかっただけだから」
暦は本当に本の心配をしていただけだったが、美鳩の言葉に俯いて自分の感情が顔に出るのを隠した。
「そういえばコヨミンいっつも画集図書館から借りてるね。絵、好きなんだ?」
「うん……そうだね、好きだね」
芸術作品はいくら見ても人の下らない部分が見えてこない、ただ芸術家の崇高な内面だけを見せてくれる。それが彼女が絵に向かう理由だったが、それを打ち明けるほどまだ美鳩とは親しくはなかった。
「そっか、もしわたしにもオススメの奴があったら教えてよ」
「いいよ?」
美鳩のたたみかけるような接近に暦は困惑したが、すぐに理由がわかった。
「阿久津さ~ん、日直でしょ?二限目の理科、準備しないとっ」
クラスの女子が美鳩を呼んだ。
「コヨミン、またね」
美鳩にはこれが見えていたのだ。
「うん、またねっ」
暦は去っていく美鳩の後ろ姿を眺めた。彼女の長い黒髪が、渓谷の川のように涼しく流れていた。
(いいなぁサラサラヘアー……)
八月一日先生と出会ったあの日、わたしたちは遠い、ほんとうに遠い回り道を歩み始めたんだと思います。
あまりにもささいでささやかな一歩、その足音は鼓動よりも小さく、けれどそれよりもしっかりとわたしの中に響いていました。
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