【其の弐】ようこそ、ほずみ先生

「アツッアツッアツイ!!」

 二人の生徒に抑えられ、辛坊透流しんぼう とおるが身悶えをする。

 朝のHR終了後、日村寿ひむら ことぶきを含むいつものメンバーは、昨日の日曜日にダウンタウンの番組を観てなかったという理由で、透流に「ヤキ」を入れていた。

「心頭滅却すれば火もまた涼しって言うだろぉ?情けないこと言うなよなぁ」

 そこまで体格が優れているわけでもないはずの寿は他の二人を従えるように振舞い、そう言いながら透流の髪を寿が引っ掴んでいた。

「熱いからっ、ホントやめてよっ日村くん」

 何故かただ抑えられているだけで透流は苦痛に身悶えし、その反応を三人は愉快そうに嘲笑う。

「さんづけしろや、頭焼いてデコスケ野郎にすんぞ」

「日村さぁ、試してみればいいじゃん。頭焼いても「元に戻る」か」

「お、いいねぇ。理科の実験だ。有機物に火ぃつけるとどうなるんだっけチンボ(寿がつけた透流のあだ名)?授業のおさらいな」

「え、燃える?」

 体格がそれほど自分と変わりのない相手を必要以上に恐れながら透流が言う。

「ブブー、残念。じゃあこれから実験してみよー」

 そう言うと寿はいやらしい笑いを浮かべながら、教室後方の棚にある水槽に手を突っ込んだ。それは、学級委員の透流が常日頃から大事に育てていた金魚の水槽だった。

「クソが、逃げんなよ……」

 寿は水槽から金魚を直接掴みだそうとしたのだが、もちろんそんな簡単に泳ぐ魚が素手で取れるわけがない。しかし実に奇妙なことがおこる。寿の手から素早く逃げ回っていたはずの金魚が、急に弱々しく、寿が触れるでもなく腹ばいになって水面に浮かび始めたのである。透流はその様子を見せつけられ文字通り言葉を失ってしまった。さらに寿は瀕死の金魚を、敢えて透流に見せつけるように手のひらに乗せて言う。

「有機物を燃焼するとどうなるんでしょ~かっ」

 すると寿の手のひらの上の金魚は湯気を発し始めた。まるで急激に高熱に晒されたようだが寿たちは何の驚きも見せない。さらに湯気が濃くなると、金魚には乾いた音と共に火がつき燃え始めた。ライターもマッチも寿の手には見当たらない。

「ちょっとやめっ」

 透流が寿に詰め寄ろうとするが、骨に辛うじて筋肉と皮がついたような透流は二人を振りほどくことができない。

「正解は~、はい炭素化するでしたっ」

数秒間炎に炙られ金魚は寿の手の上で焦げ臭くすすだらけになってしまった。呆然と金魚だったものを見つめる透流に、さらに寿が追い討ちをかける。

「お前さぁ、ちゃんと朝飯食ってないんじゃないの?だからそんなにヒョロいんだよ。ちゃ~んとカルシウム取らなきゃあ、な?」

 寿は二人に「押さえとけ」と囁くと、そのすすだらけのものを透流の眼前まで突き出した。

「感謝しろよ、まさに生きとし生けるものにってな」

 寿は無理やり透流にその焼け焦げた金魚を口に押し込み始めた。当然のことながら透流は抵抗したがやはりここでも奇妙なことが起こる。閉じていればいい口を、透流は「アツッ」と叫んで開けてしまったのだ。

「うげぇえ!」

 開いた口に金魚を放り込まれた瞬間透流はそれを吐き出し、飛び出した金魚は寿の上履きに当たり、上履きには粘液とすすが付着した。寿は「クソがっ、汚ぇだろっ」と、透流の顔面を殴り、床に落ちた金魚を拾うとそれを透流の頬に押し付けて「オラ食えよ」と、擦り付けた。

「大事な金魚粗末に扱ってんじゃねぇよ、あの世で泣いてんぞ。聞こえるかぁチンボ?金魚が言ってんだよぉ、『透流くん、今までありがとう。今度は僕を食べて君が元気になって~』ってなぁ」

 寿は焦げた金魚を透流の目の前でプラプラさせながら、金魚がしゃべってるように見せかける。透流を押さえている二人はそこまで面白くなかったが、声を上げて笑って見せた。

 他のクラスメイトたちは、その様子を見て見ぬふりをしていたが、阿久津美鳩あくつ みくが教室から嫌悪感を露にして出て行くと、数名も釣られるように表へ出て行った。彼女が教室を出て行くなら、そこでは確実に問題が起こるということだからだ。

 程なくして一斉に、教室のグラウンド側の窓ガラスが風で叩かれる様な音がした。雲ひとつない、無風の日だったにもかかわらず。

「木根、何のつもりだ?」

「やめろよ、やり過ぎだ」

 木根龍兵きね りゅうへいがいつの間にか、四人のすぐ近くにまで来ていた。透流を押さえていた二人は、龍兵を見るなり逃げ出そうとしたかったが、寿の存在がそれを許さなかった。

「おおっとっ、正義のヒーローの参上っすか?いいね、ぴったりだもんなお前の境遇とか。みなしごだし伊達直人だてなおとみてぇ」

 寿は「なぁ?」と二人を見て笑ったが、二人とも意味がわからなかったようだ。

「ここにいる俺とお前に何の違いがある……」

 龍兵がボソッと言うなり、寿の表情が変わった。

「はぁ?お前と一緒にすんなよ」

 寿は本格的に龍兵の方へ体を向けると、それを合図にしたように、先ほど音が鳴った窓ガラスに一斉にひびが入った。寿が従えていた二人は逃げようとしたが、寿に「逃げんな大丈夫だ」と言われ動くわけにはいかなくなってしまった。

 二人と違い、龍兵と寿はガラスのヒビなどにも気にもしていなかった。二人の周りが三月だというのに真夏の車内ように熱くなっていても、彼らにとっては特に異変ではなかった。

「やめろよ……怪我じゃすまないぞ」

「その前にお前が消し炭なんだよ、貧乏人……。」窓を一瞥いちべつして寿が言う。「つかさぁ、ガラス割って脅してんの?相変わらずチープな、お前って」

 寿は涼しげだが、龍兵の顔には珠のような汗が流れている。そしてそんな龍兵の額には、どんな激情をもってしてもそうはならないだろう、不自然な形で血管が浮き出始め、何の作用だろうか二人の間からは電車が急ブレーキかけたような鈍い音がし始めた。

「西部劇風に言うとアレだな、「抜きな、どっちが早いか勝負だ」ってところだな」

 寿は椅子ごと体を龍兵の方に向け、飛びかかるように姿勢を低くして構えた。既に寿の掴んでいる椅子の背もたれは、常人が触ると火傷するほどに熱されている。

 教室の外では、例え取り返しのつかないことになろうとも物見遊山ものみゆさんで見物をしている男子生徒や、「もうやだぁ……」と廊下の隅で座り込む女生徒がいたが、そこへ何の気後れもなく、西塔暦さいとう こよみが現れた。暦は廊下の同級生の様子など知らないかのようにそのまま教室に入っていき、それを見た男子生徒は、いつか見た紛争地帯の報道写真を思い出した。

「ちょっと、アンタたちが暴れるのは勝手だけどさ、わたしの物を壊したり燃やしたりしないでよね」

 尋常ではない二人の雰囲気に対して物怖じすることなく暦が言う。暦の席は寿の二つ隣だった。

「うるっせえっ」

 寿が恫喝するが「そう、じゃあ昨日の保健体育の時間にアンタが橋元先生のこと見ながら何考えてたかバラしてやろうか?」と、暦が横目で二人を見ながら言うと一転して寿の顔が青ざめた。

 その瞬間に寿の体が宙に浮き始め、寿が慌てて龍兵を見ると龍兵は左手で右の手首を抑え右の掌に意識を集中させていた。

「ありがとな、西塔。スキができた」

 掌を寿に向けながらそう言う龍兵の顔は笑顔だったが、額には血管が病的に浮いている。

「木根君もやめなよ。クールなふりして頭ん中あいつと変わんないじゃん」

 暦にきつい視線を向けられると、龍兵の顔は急に素に戻り、浮いていた寿が教室の床に尻もちを付く。寿は臀部の痛みを忘れる程に激しい怒りで立ち上がり、寿が「やってくれたなぁ、クソカスがっ」とシナを作れないほどに絶叫すると、周囲の温度が一気に上がり始めた。

 二人のすぐ隣にあったヒビの入った窓ガラスが熱気のせいで、寿に近いものから順に割れて外へ割れて飛び出す。龍兵は顔に感じる激しい熱気に耐えかね、腕で顔を隠しながら寿から距離をとった。

「なにやってんの日村っ、危ないでしょっ。てか熱いっ」

「うるせぇっ」

「うるせぇしか言えないの?バカじゃない?」

「うるせ……出て行けよ西塔っ」

「はぁ?アンタたちが出ていけばいいじゃん」

 冷めた暦の言い方は寿に油を注いだ。寿が暦にメンチを切りながら手を上にかざすと掌から陽炎が立ち上り、それが寿の表情の変化とともに炎に変わる。寿の作る熱気は上昇気流を作り上げ、彼の髪を天高くなびかせた。

「あんなぁ?あんまり調子にノンなよ西塔。燃やしてやろうか?灰にして死体を透明にしちまえば、完全犯罪成立なんだぜ?」

「……橋元先生はツルツルじゃないから」

「え?」

「アンタのエロ漫画とリアルを重ねないでよ。つかロリコンとかマジきもいし」

「アレはロリコンじゃねぇしっ」

「ランドセル背負ってるコがやられてるような漫画とか読んでて何言ってんの?アウトだよソレ」

「なんで……そこまで」

 寿の周囲の温度は急激に下がり始め、彼の額には純粋な汗よりも脂分が多いものが張り付いた。

「アンタさぁ、ワタシと話しながら思い出してるでしょ?分かり易すぎんのよ」

 もはや暦の冷めた目は完全に寿を冷やしていた。

「もうすぐ先生来るよ?」

「うるせ………うるせぇっ」

 寿が教室を飛び出すと、出て行っていた生徒が数名戻ってきた。しかし、この騒ぎを収束させた張本人である暦に対しては誰もねぎらいの言葉をかけようとしない。一様に、まるでこの騒ぎなどなかったかのように白々しく振舞っていた。それどころか彼女がいることを忘れようと、あえてそういう態度をとっている生徒さえいる。西塔暦の周りには無意識に開かれた空間があった。生徒達は、燃えた金魚よりも割れたガラスよりも、彼女の存在を恐れていたのだ。

「木根君も逃げたほうがいいんじゃない?多分もうすぐ先生来るよ」

「ああ……。」

 龍兵は怒りよりも暦の見事な北風と太陽っぷりに呆気にとられていたが、思い出すように教室を後にした。

(ガキばっか……)

 暦は机の引き出しから本を取り出すと、それが無事だったことにとりあえず胸を撫で下ろす。それは図書館で借りたダリの画集だった。

「木根と日村が喧嘩してるってぇ?」

 寿が教室を出て言って数分たってから、中等部主任の四万都しまとが到着した。

「おいおい、ガラス割れとるやないか。どっちやぁ?」

 腰に手を当てながら、緑ジャージの上はカッターシャツという出で立ちの四万都が呆れた様子で割れた窓を見渡す。ただそんな教師にありがちなファッションをしていても、一つだけ決定的に違うものが四万都の顔にはあった。彼の左の眉の少し上から一直線に鼻を通り、そして唇の右側を通り抜けそのまま顎まで走っている深い肉食獣の爪痕のような古傷だ。いや、顔だけではない長袖から突き出た拳は、まさに「無骨」という言葉の形容が相応しいほどに常人のそれよりも遥かに固く骨ばっている。

「両方……」

 四万都の問いに答えたのは暦だけだった。そして教師である四万都も、暦に話しかけられ気まずい思いをする。

「両方ってぇ、木根と日村の両方ってことか?」

 もちろん、普段からこんなマヌケた聞き方をする四万都ではなかった。

「……そうです」

「先生、西塔さんが喧嘩を止めてくれたんです」

 教室の誰がそれを言ったか分からなかったが、少なくとも暦にとっては余計なことだった。

「西塔が?おお、さすがやな」

「さすがって?」

 そういってようやく暦は四万都を見上げた。暦の瞳はその特性も相まってか、彼女と目を合わせた人間は、まるで彼女に吸い込まれているような錯覚を覚える。

「いや、まぁ……。じゃあアレか、アイツ等ぁHADば使って喧嘩したってことか?」

 これはここの教師にとって大事なことだった。そして、生徒たちもそれを知っている。

「別に、尾崎豊ごっこでもしたかったんじゃないですか……」

「ごっこでも喧嘩でも、能力ば使って物を壊してしもうたら報告せんといかん。HADは使ったんやな?」

「ガラスを割るくらいには……」

 教師に対してもそっけない暦の態度は、流石に怒りを買うもののはずだが、怒りに任せてつい何を考えてしまうか、それを読まれることのほうが教師としては気まずかった。

「……分かった。おい委員長、二人を後で四万都先生が呼んどるち職員室に行かせろ」

 学級委員の透流はそう言われて、泣きそうな顔でそれに答えた。元々は透流がいじめられていたことに端を発するのに……その無神経さに暦は嫌悪感のある目で四万都を見たが、四万都はあえてそれを無視する。

「えっと、わたしがやります。四万都先生」

 そういって気を利かせたのは美鳩だった。

「HADば使ったら報告するのが決まりやけん。今回はどうなるか分からんけど、もし抵抗してまた使ったら確定で指導室行きやと言っとけ」

 四万都は暦と会話を終わらすことができて内心ホッとした。それに西塔も気づいていてはいたが、それ以上に暦が気に入らなかったのは「指導室」という言葉を使った時、四万都の心の奥深くに芽生えた愉悦感だった。

「ああ、それと今日は新しい英語の先生が来るけんなぁ。仲良くせえよ」

 普通の生徒もおらず、学習指導要領も無いこの学校は、大体が急な変更ばかりだった。

 四万都が出て行くとすぐにチャイムが鳴り、ドアの向こうでは四万都が何者かと挨拶しているのが生徒たちに聞こえた。廊下側の生徒は窓から顔を出し、「来てる来てるっ」と小さくしてるつもりなのだろうが、十分に大きい声で中の生徒たちに伝える。例え特殊であろうと中身は中学生だ。彼らにとって新しく赴任してきた教師というのは好奇の的なのである。生徒たちはいつもはやらないのに、姿勢正しく席につき授業の開始を待つ。しかし、クラス担任の纐纈こうけつと共に教室に入ってきたのは恐ろしい程普通の男だった。

「え~本日ですね……そこ聞いてるか?退職された田中山先生の代わりにこちらに赴任してきた八月一日先生です。田中山先生と同じく英語と、このクラスの副担任を務めてもらいます」

 ジャージにワイシャツ、顔に大きく不自然な傷という四万都に比べると、グレーのスーツに中肉中背のその教師は逆に違和感があった。うつむきながら教室に入ってきた普通の男は、纐纈の紹介で初めて顔を上げた。生徒に向けられたその顔は……

「みなさんはじめまして。そして、よろしく。本日からみなさんと一緒に英語を勉強します、八月一日新一ほずみ しんいちと申します」

 とても普通な顔だった。

「おや窓ガラス、割れてますねぇ」


 八月一日先生がこの政府特別指定中高一貫校・蒼海学園にやってきたのは今から30年前、今日と同じ梅の花が散り、けれども桜の咲く前の、本当に何でもない時期でした。それでもわたしには、先生との出会ったあの日はとても鮮烈な印象があります。何もないからこそ、すべての思い出があそこに詰まっていて、春先のただの紺碧こんぺきの空が、どんな刃物でも傷ひとつ付けられないような、完璧なかたちで広がっていたのだと。

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