4-3
立ち上がり、僕は駆け出した。全力で。
目標までの距離が縮まる。
すると気配を察したか、目標は木の後ろに完全に隠れてしまった。
息を切らせつつもたどり着く。木の向こうには気配がある。あちらも息遣いで分かっていると思う。けれど向こうから動く気配は、ない。
ならば、先手を打つまでだ!
「おい、そこの変態、隠れてないで出てきたら?」
蔑みをこめたジト目を用意。
「変態とは心外ね」
不定形な陽炎みたいにふらーっと姿を現したのは、黒鳥冥。認めたくはないけれど、出来ることなら他人のフリをしたいけれど、残念ながら僕の姉だった。
身長はわりと高く、百七十センチある僕よりも三センチほど低いくらい。しっかりしていそうな顔立ちと涼しげな目元は、顔写真でだけならモデルと間違われるくらいには整っている。
「なんでこんなところにいるんだよ」
ただ致命的なのはそのファッションセンスと性格。『くろすけ』の体現者とでも言うべき、黒しか着ない。まだ梅雨だからいいものの、真夏は暑苦しくて見るのも苦だ。性格は以前ラジオでも触れたけど、いたずら好き。しかも僕限定なところが余計にタチが悪い。それは小さな頃からずっと変わらない。
「ちょっと道に迷ってね。確かに私は家の中を歩いてたはずなんだけど、いつの間にか公園に。いわゆる、未知との遭遇ってやつよ」
何と遭遇してるんだよ。というか、それは僕のセリフだ。
手品のタネを教えられてもよく分からない、そんな不思議そうに姉は小首を傾げる。
初対面ならこれが演技だとは到底思えないんだろうけれど、僕は知っている。これは間違いなく演技だ。
だからそれと見越した上で、鎌をかけてみる。
「まさか姉ちゃん、僕の後をつけてたんじゃ……」
指摘にビクついて、姉は手と首を横に振った。交互にではなく、同一方向に。まるで壊れたブリキのおもちゃだ。
「お姉ちゃんはそんなことしないってーそんな暇人じゃないってー、くろちゃんが三十分も駅前マップの前で悩んだりー女の子をナンパしてお茶したりー、かと思いきやまた別の女の子にとっかえひっかえしてるなんてぜんぜん知らないからー」
「知ってるじゃないか!」
いや、知らない、違う。なにを一瞬でも納得したんだ僕は。
ナンパなんてしてないし、とっかえひっかえなんてしてもいない。そこは認めちゃダメだった。
それにしてもすごい棒読みと手振りだ。大根役者だってさすがにここまで酷くはない。
「違うから、あの人は部……」
長だからと言いかけて思わず口をつぐんだ。いまこの場で、部長にUMAと遭遇させてもいいものかどうか。
「ひどいじゃない。お姉ちゃんをよりにもよってUMAだなんて。……それで、私は一体どのUMAなの?」
「知らないよそんなこと、自分で考えてくれ。っていうか思考を読むなッ!」
まさかあの人がラジオ部の部長だと知られてしまったなんてこと、万に一つもあってはならない。彼女に迷惑はかけられないから。
「思考を読んだんじゃなくて、くろちゃんの癖を見抜いただけ」
「癖?」
そんなものあるはずがない。そこまで明け透けで分かりやすい性格はしていないはずだ。
姉は得意気になって胸を張る。パツンとなったブラウスにブラの線が浮き上がった。
「昔からUMAって言う時には、困ったみたいに眉毛が八の字になるの。気づいてないの?」
まるで小馬鹿にするように眉に指を当て、八の字を作ってジェスチャーしてみせる。
そんな癖が……驚きだ。なにを悩んでいるわけでもなく、特定ワードでそんな顔をするなんて、馬鹿すぎるだろ。『UMA』が答えの問題は今後いっさい出せないな。
「よく見てるんだね」
「お、お姉ちゃんだから」
そこで照れる意味が分からない。なに顔を赤くしてるんだ、反応に困るだろ。
「とにかく、あの人は学校の友達だから。分かったら早々に帰ってくれ」
「分かったから。帰還するから。そんなにお姉ちゃんを邪険にしないでよ。お姉ちゃん泣いちゃう」
その嘘くさい演技をまずどうにかしろ。
でもよかった、何事もなくお別れできそうだ。
「じゃあ、はい」
だから、何が『じゃあ』なんだ。こういうところが部長に似ている。
慣れているから別にいいんだけど。
姉が差し出してきたのは、二つ折りにされた、なんの変哲もない紙切れだった。
まさか、また生理用品とか……。
「いやだ、断る!」
「まだ中を見てないじゃない?」
「どうせヴェスパーだろ! 買って来いって言うんだろ? あんな恥はもうかきたくない!」
レジが女性店員だった日のあの変質者でも見るような蔑みの視線! 男性店員だった場合の好奇の視線! それだけでは何なんでと、ほかに買い物がある体でヘアワックスとかスプレーとかシャンプーとかお菓子とか、とにかくいろいろカゴに入れても結果は同じだった。四度と体験したくない!
「それは確認してからでもいいじゃない」
なんの躊躇いもなく、ずいっとさらに一歩を踏み出す自信あり気な姉。
僕は逡巡した後、たじろぎながら渋々それを受け取る。僅かな期待値に希望を託して――――中を、開いたっ!
『パンツ買ってきて』
「馬鹿やろう」
紙をびりびりに破り捨てる。姉は愕然として手をわななかせた。
まさか破られるとまでは思わなかったのだろうか……。その思考に驚きだよ。生理用品よりもさらに直截的でタチが悪いだろ。これは精神攻撃か何かか?
生理用品ならまだ言い訳も考えられる。けど下着は……。高校生男子が女物の下着ショップにソロで入る理由はなんだ? 下手したら警備員に補導されるだろ。
「もういいから早く帰ってよ」
もうやだ、この人。弟をからかって遊ぶ姉ほど迷惑なものはない。
シッシッと野良犬を追い払うように帰りを促すと、「よろしくね」と手をひらひらさせて姉は立ち去った。涼しい目元で一瞥をくれ、ウインクまで残して……。
「――はぁー」
肺に溜まった億劫な空気を、一息で吐き出す。
どっと疲れた。まさかこんなところで遭遇するとは……。
破った紙を拾い集めて、僕はポケットにしまう。
それにしても、本当にパンツを買って帰らなければダメなんだろうか? 柄は? サイズはまあたまに僕も手伝いで干したりするから、なんとなく分かるにしても。いっそのこと穴開きパンツでも買って帰って嫌がらせでもしてみるか。
いや、それこそ思う壺かもしれない。姉に穴開きパンツをプレゼントする弟だなんて触れて回られたら、もう外を歩けないじゃないかっ! それに弱みをさらに増やす行為になりかねない。まさかそれが狙いだったりして……、ははっ、まさかな。
きっとからかいに来ただけだろう。そういうことにしておかないと、さすがに心労が酷い。
早く部長のもとに戻ろう。追い返すのに少し時間をかけすぎた。
その埋め合わせには少しの足しにもならないだろうけど、僕は急ぎ足で戻る。
「すみません部長、やっと雑事がすみました」
軽く息を弾ませながら駆け寄ると、彼女はむすっとした顔でベンチから見上げてきた。
「どうしたんですか、不機嫌そうな顔して?」
「ずいぶんと仲よさそうだったねー……、好きなの?」
「はい?」
「さっきの女の人、くろすけは、ああいう女性が好みなのかって聞いてんのっ」
部長はなにをカリカリしてるんだろう。いつになく接しにくい。さっきまでは笑っていたのに。やっぱり、姉ちゃんに時間を食われたのが拙かったのかも。
「質問の意図がよく分からないですけど、時間かけ過ぎたみたいですみませんでした」
とりあえず謝っておくことにした。のだが――
「ちっがーうっ! なんでくろすけが謝んのさー。それじゃあたしがただ拗ねてるみたいじゃん! それに問いに答えてないし!」
ベンチに胡坐をかいて座り、ビシッと僕を指差してきた。しっかりショートブーツを脱いでいるところは好感が持てる。
けど質問っていったって、あれは僕の姉です。なんて言えるわけがないし。そもそも好きとか嫌いとかじゃなくて、家族だからなんて答えればいいんだろう。
口を真一文字に結んで見上げてくる部長は、僕からの返答をじっと待っている。薄茶色をしたその瞳に見つめられ、気まずくなってつい視線をそらした。
と――
「これ、デートにしない?」
ぼそっと口にした言葉を、僕は聞き漏らさなかった。
「部長、それじゃあさっきと言ってることが矛盾し――」
「うるさいうるさい! くろすけに否定する権利はないんだかんな! 部長権限で、これはいまからデートにするからっ」
言ったことは曲げない性格の部長らしからぬ言葉だった。しかも職権を盾にした脅迫だともとられかねないセリフだ。
何故かは分からないけれど、僕が部長をこんな風にしてしまったのか。せっかく楽しい休日だったのに、なんか怒ってるし。
機嫌取り、のつもりじゃないけれど。やっぱり楽しい一日にはしたいと思う。
「部長がそれでいいのなら、今からデート、にしますか?」
かなり気恥ずかしい。なんだこのセリフは、僕が言ったのか? 部長から振られてそのまま返しただけのつもりが、まさかこんなにも歯が浮くようなものになるだなんて。
……なんだか死にたくなってきた。
部長をついっと横目で見やる。彼女はふるふると震えながら目に涙を浮かべて、湯気が立ち上りそうなくらい顔を真っ赤にさせていた。
「ぶぶぶ部長! なんで泣いてるんですか!? 」
「はうっ?! 知らない知らないっ! くっろすけの馬鹿!」
「いだっ――」
近寄ろうと一歩踏み出したところで、思いっきりペットボトルを投げつけられた。眉間にキャップの部分がクリーンヒット。
おまけに捨て台詞に罵倒を残し、彼女は逃げるように走り去っていった。
額を押さえただ唖然としていると、部長の姿がついには見えなくなってしまう。ものの数秒だ。前から思っていたけれど、やっぱり部長は運動神経がいいんだなあと、つい感心してしまう。
「いったい何だったんだ……」
彼女が去っていった方向を見て、一人立ち尽くす。そして思考する。
まったく部長らしからない。なんというか、今日はやけに女の子女の子した場面が印象に残っている。いや、それしか残っていない。いつもの部長はからっとした夏空みたいに爽快なのに。
なんだかレモン果汁が甘かった、みたいな違和感を感じる。
ここでこうして立っていても、きっと彼女は戻ってこないだろう。
「……帰ろう」
不意に部長が残していったペットボトルが目についた。まだ半分以上も残っている。
うーん、なんだかそういう気分じゃないな。普段なら、これは間接キスになるかもだなんて、悶々とした邪な考えが浮かんでくるのに。まあ、実行に移す勇気はないんだけれど。
僕はペットボトルを拾い上げて水飲み場へと移動する。ボトルの中身をすべて空け、ごみの分別をしてから家に帰った――。
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