3-3

 放送の時間となり、いつものようにウォークマンでオープニングの演出をする。

 アップテンポの元気な曲が流れ出し、部長はマイクをオンにした。

 今日は一人で何役かこなさないといけない。録音機器はあらかじめ入れてあるため、問題ないとして。

 いまはラジオに集中だ。弥が上にも緊張してくる。


「はい! というわけで始まりましたー。第八回『お昼の放送はラジオ部におまかせ!』略して、『ひるラジ!』のコーナーです! 今日はねー、なんとなんと! 残念なことにシズがお休みしちゃってるんだよねー。シズファンの方、申し訳ないね。でもでも、本日は本邦初出し! 期待のホープ君の登場だよー」


 やばいやばいやばい、心拍数が半端じゃない! 僕は人前でスピーチするのはあんまり得意じゃない方だ。昔からそうだった。自己紹介、小中学校の作文発表、教科書の音読。声が震えていたりした。今ではだいぶマシになってきたとはいえ、到底慣れるものじゃない。


 それが全校放送で、しかもあとでネット配信されるラジオでしゃべる事になるなんて。せめてもの救いは顔が見られないところか。人前だったら、きっと顔真っ赤になって――

 不意に、机に置いていた手に熱を感じた。見ると、部長が僕の手にそっと手を重ねていた。


 自然と視線が合う。『大丈夫だって』そう言ってくれている気がした。

 気持ちを落ち着けるために、一度深呼吸。

 唾を嚥下し、僕は覚悟を、決めた。


「……部長、あんまりハードル上げないでくださいよ。えっと、どうもこんにちは、一年のくろすけです。不慣れで聞き苦しいこともあるかと思いますが、どうかお付き合いください」

「って真面目かっ!」


 部長の鋭いツッコミが飛んでくる。多少気持ちが軽くなった気がする。

 部長は、いつもどおりだった。


「というわけで、パーソナリティはくろすけと」

「ひめでお送りしていくよー」


 ついに始まった、初ラジオ。構成台本の静巴先輩の部分を、僕が担当することになっている。


「というかさ、くろすけ聞いてよ」


 フリートーク。さっそく部長からの話題振りだ。


「どうしたんですか?」

「昨日さ、お風呂入ってたんだけど。シャンプーだと思って使ったらなかなか泡立たなくって。目開けてよく見たら、トリートメントだったよ。おかげで流すの苦労したわー」

「よく聞く話ですね、それ。僕もたまにやるんですけど。というか部長ってシャンプーする時、目閉じるんですか?」

「えっ、閉じないの?」

「少なくともシャンプー出すまでは開けてないと。だから間違いやすいんじゃないですか?」

「あぁなるほどねー、そっか。シャンプー出す時は開けてればいいのか……。なるほどね」


 ――いまさら!?


「部長って、意外と抜けてるんですか?」

「なっ! ぬけさくに言われたかーない」


 顔を少しだけ赤く染めて、彼女は八重歯を剥きだす。

 こうして見てみると、なるほど、やっぱり部長の八重歯はなかなかに可愛らしい。照れてる様子も相まって、普段の部長とはまた印象がガラリと変わって見える。


「僕はそこまで抜けてませんよ。髪もちゃんとありますし」

「んじゃあ田吾作だ」

「いったいその二つにどういうつながりが……」

「んで、くろすけは? なにか間違えてあちゃーってなったことない?」


 急に話題を変えてくる。どうしても主導権を握りたいらしい。

 振られた話題について、僕は思考を巡らせた。


 台本は毎回書いているものじゃない。構成として時間のブロックが三つくらいあって、大体その枠内でフリートーク、メール読み、締めをすることになっている。だから、中身は完全にアドリブなのだ。


 臨機応変に対処していかないといけないし、トークもネタを瞬時に吟味しなくてはいけない。そのため、かなり適応力が求められる。その点は素直に、先輩たちを尊敬していたりする。


「そうですね。僕も間違えて、体洗うボディタオルだと思って使ったら、ヘチマだったってことならよくありますよ」

「ヘチマっ!?  いや、それよくはないよ? てか、なにがどうした……?」

「いや、うちの姉ちゃんにいつの間にか交換されてたんですよ」


 ヘチマは乾燥させて皮をむくと、タワシとして使えるっていうことを、それで初めて知った。

 でもあれは体を洗うもんじゃない。かなり痛かったのを記憶している。


「くろすけってお姉さんいるの?」

「はい、高三の姉が。女子高なんですけど」

「先輩じゃん! ねえ可愛い、可愛い?」


 目をキラキラさせて、部長は食いついてきた。


「かわい、うーん。どうなんですかね? これ姉ちゃんも聞いてるんで、言及するのはやめときます。あの人すぐ調子乗るんで」


 つい口が滑ってラジオ部にいるって言ったら、翌日、すでにバックナンバーを全部聞いていた。だけに留まらず、ウォークマンにそれらを入れて聞くくらいはまっていたのには、正直驚いた。


「聞いてくれてるんだー。んじゃ今度遊びに行くよ! 部長としてお姉さんは見とかないと」

「なんでですか。まあ別にいいですけど」


 あれ、なんか自然に出来てる気がする。普段と変わらない調子。心拍数もいつの間にやら平常レベルで安定しているし……。

 やっぱり、部長ってすごいな。気負わずに飾らない自分でいられる。

 部長だから安心していられるのかもしれない。


「どした、くろすけ?」

「いや、なんでもないです」

「ははぁーん、さてはお姉さんを思い出してホームシックになってるな? このこのー」

「それはないですね」


 感心を勘違いして捉え、したり顔をする部長はやっぱり面白い。


「なんで即答さー。言及を躊躇うくらいには、可愛いんでしょ? どんな雰囲気なの?」

「うちの姉ちゃんにずいぶん食いつきますね。そんな針太かったですか?」

「太すぎ。痛いくらいだよ……」


 聞く人が聞けば勘違いされそうな、艶っぽい声音で部長は囁いた。


「いまのはお昼向けの発言ですか?」


 僕は真偽を問うためのジト目を向ける。


「もちろん、青少年向けだよ! がんばって保護してくから」


 キリッと口を真一文字に結んで真面目な顔。本当のところはどうだか……。


「雰囲気っていっても。まあ髪型は黒のミディアムで、目元は涼しい感じですかねー」

「うんうん、それでそれで!」

「いつも気だるげで、なに考えてるのか分からないタイプです。素材は悪くないと思うんですけど、如何せん陰があるように見えることと、いたずら好きなのが玉に瑕っていうか……」

「ミステリアス少女キタ! カード送りつけられる前に見つめてホークアイ! ……んじゃ実例を挙げてみよう」


 言ってから、いまのは微妙だったと反省したパターンだ。部長は渋面を浮かべながら、さらに先を促してきた。


「って、まだ姉ちゃん談義続けるんですか?」

「だって気になるじゃん、くろすけのお姉さん。きっとシズも気になるはず!」


 そんな強烈な目力で迫らないでください。

 怖いですから。


「うーん。例えば、朝洗顔しようと残り少ないチューブから出したら、今晩ごはんですよが出てきたり」

「あー、あの海苔の佃煮? あっはははははっ! くろすけのお姉さん面白いねー!」


 腹を抱えて部長が笑う。


「どこがですか! 他にも、寝ようと思って布団めくったら鼻眼鏡かけて合掌してたり、風呂から上がったら目の前でひょっとこのお面かぶって『番台』とか言って突っ立ってたり、起きがけになんか臭いなと思ったら鼻先三寸で納豆かき混ぜてたり」

「なにそれ楽しそう! あたしもやりたいっ!」

「いや勘弁してください」


 姉の生理用品を買いに行かされるとか、どんな罰ゲームだって話もあるけれど。これは姉ちゃんの名誉のためにも黙っておいた方がよさそうかな。


 しかし今にして思えば、部長と姉ちゃんはどことなく性格が似ている気がする。属性は確かに陰と陽で違うんだけど。面白いことが好きとか、楽しませる(本人がそう思ってるのかは分からないけれど)のが好きなエンターテイナーなところとか、そんな感じだ。

 ……これは二人を会わせると、悪い化学反応でも起こしかねないな。まさしく、『混ぜるな危険!』だ。


「いやーくろすけのお姉さんのことを、もう少し掘り下げていきたかったけれども。ここらでメールの紹介なんかもしようと思うわけさ」


 やっと姉ちゃんの話題から離れられる。僕もいつまでも姉に関しての談話で恥をかきたくなかったから、部長の気が変わってくれてちょうどよかった。


「そうですね、せっかく頂いてますし。それに、今回もけっこう来てますもんね」

「少しずつ認知されてくのが嬉しいな! ってことで、お悩みいろいろ相談室ー! このコーナーでは、『らじボックス』に投函された勇気ある生徒たちからの恋のお悩みや日常のお悩みを、サクサクっとあたしたちが解決していくコーナーです」


 あれ、今日はボケを挟まなかった。


「ならさっそく僕からいいですか?」

「おっ、殊勝だねー。自主的で大変よろしい」


 部長からお褒めの言葉を受けつつ、僕は机に広げられたお便りを一通手に取った。

 前もって仕分けすることをやめ、完全ランダムなシステムに変更しているから、どんなメールに当たるかドキドキだ。


「じゃあ読みます。ラジオネーム、かまぼこさんからです。

『こんにちは、ラジオ部の諸君。通販で注文したランニングマシーンが一昨日届いて歓喜していた、かまぼこです』」

「過去形ってところが、なんかもう既にって感じだね」

「『聞いてくれたまえ! 早速、使用感をレポろうと、走行距離を四十二・一九五キロに設定し走ってみたのだよ。踏み込みと同時にベルトが回転し、意気揚々とランニングスタート。ところが……。マシンごと前進し、壁に激突! 壁をぶち破り、俺は二階から落下。そのまま四十二・一九五キロをマシンとともに走破してしまった。よくよく取説を読んでみると、人力で動くモーターバイクみたいなものだったと判明した。注文する前にネットでリサーチおよび取説は事前に読み込もうと、いい教訓になったな。ラジオ部の諸君も気をつけてくれたまえ』

 とのこと」


 読み終わって部長を見ると、気の抜けた炭酸水みたいな、味気ない呆れ顔をしていた。


「うん、これはかまぼこが悪いよ、ぜんぶ悪い。これってあれでしょ? 通販番組でやってた『キミもこれでアスリートだ! 汗臭くランナウェイ!』とか言ってるイッちゃってる宣伝文句のやつだよね?」

「僕もそれ見たことあります。タンクトップ着た汗まみれのガチムチ外国人が、大胸筋動かしながらバナナ食べてるやつですよね?」


 ルームランナーの宣伝をしているのに、アップにするのはバナナと大胸筋とかいうホモ臭いCMだった。バナナをヨーグルトにディップするという謎バージョンもあったらしいけど、放送禁止になったと聞いたことがある。

 しかしあれはインパクトが強すぎて、一度見たら忘れられない。


「そうそう。どうせかまぼこも、あの拙い日本語に騙されて勘違いしちゃった口でしょ? マシンを使う以前の、これは道徳的問題だわ」


 道徳!?  


「倫理観の問題なんですか?」

「そりゃーそうよ。あんなCMに騙されてる時点で、もういろいろ踏み外しちゃってるでしょ。バナナって……」


 いかんいかんいかーん! なにやら部長が下方面に突き進みそうな勢いだ!

 いたって平静を装いつつ、僕のボー……違う、僕はボールを投げ返す。


「けど四十二・一九五キロ走破しましたよ」

「それはちゃんとベルトを踏み込んでたからだよ。でもこの場合、かまぼこは既にあらぬ方向に踏み込み突きかましちゃってるじゃん? むしろ後ろを差し出しにいってる感じがするんだよねー」


 踏み込み突きって……後ろって……。

 このままじゃ埒が明かなくなりそうだ。仕舞いには本当に倫理なんか持ち出して、意味も解らず「アリストテレスがー」とか部長なら言い出しかねない。それ以上に、お尻ネタに走られたら取り返しがつかなくなる。これは生放送なんだから。

 そこで少しだけ攻勢に出てみた。


「でもマシンとしてはちゃんと利用してるんだから、別によくないですか?」


 適当。本当に適当。ほんの些細な攻撃だ。篭城を決め込まれていたのなら、決め手に欠くレベルのつもりだった。とりあえずこの話題からそらさないと部長が暴走しかねない。


「うん? うーん、まあ確かに、それならそれでいいのかな?」


 論破と言っていいものなのか。きょとんとした顔で部長は首をかしげた。

 そもそも、部長は何に対しての討論なのかすらもう忘れていそうだけど。

 それに気づく前に、慎ましやかに締めることにする。


「かまぼこさん、あまり気にしないで引き続き、前向きに頑張ってください。そうすれば――『キミもこれでアスリートだ!』」


 ハモった、部長とハモった恥ずかしい!

 見れば部長の顔がにやけていた。明らかに狙ってましたなしたり顔だ。


「くろすけ、気持ちいいくらいにピッタリだったね!」


 確かに見事なハーモニクスだ。これだけハモれるのは双子タレントくらいだろう。

 まさか考えていたことが読まれるだなんて、恥ずかしすぎる!


「なら次あたしねー」


 言いながら、機嫌よさそうに部長はお便りの山を漁る。


「じゃあこれに決ーめた!」


 そう言って引っ張り出した一枚の紙。紙面に目を通す部長の顔が、じゃっかん引きつった。


「う、うん。とりあえず、これはなかったことにしとこっかなー」


 さりげなくメールを山の中へと戻そうとする。

 僕はその手をつかんで制止した。


「く、くろすけ、ちょっとなにすんのっ」

「それは僕のセリフです。部長、せっかく引いたんですから読んでくださいよ」

「いや、これはそのー、かなり恥ずかしいというか、ね?」


 頬を染めて顔をそらす。

 気になり、僕は部長の手からそのメールを引っ手繰った。


「あっ」と困ったような顔をして彼女はうつむく。

「じゃあ僕が読みますよ――」


 同じように紙面に目を落とし、…………うん。これはかなり恥ずかしい。なんてったって本人だから。それは読みたくはないと思う。

 メールの内容は、いわゆるラブレターだった。しかも、部長宛の。歯が浮くようなセリフとともに思いの丈が綴られている。


「と思ったんですけど、どうしましょう?」


 尋ねると、部長はイヤイヤをして押し黙る。快活で闊達、明朗で奔放。そんな部長が恥ずかしげに萎縮する姿は、なんだかとても新鮮だ。部長も女の子なんだなって、改めて思う。それに、下ネタを臆面もなく言ってのける部長が、こういうことに免疫がないっていうのも意外だった。もしかしたら、真正面からの好意に弱いのかもしれない。


 けど、僕はドMじゃなければドSでもない。

 これ以上は部長いじめになってしまうかもしれない。早々に話題を変えなくては……。


「あーじゃあ次のメール……部長、これなんかどうですか?」


 新しくメールを抜き出し、そっと部長に手渡す。


「あ、うん。そだね」


 ラジオであることを思い出したようにはっとして、部長はメールを手にとって開いた。


「えっと、あっ、これ『ふつおた』だ。珍しいなー。ラジオネーム、くまねこさんから。

『こんにちは、くまねこです。いつも楽しく聞いています。ひめさんとシズさんの掛け合いに、毎回牛乳を吹きながら楽しんでいます。今度はミルクパンに挑戦するつもりです。これからも楽しいラジオ、がんばって続けていってください。応援しています』

 だって」

「くまねこさん、ありがとうございます! シズ先輩じゃないですけど」

「ちょい待ち! くろすけ、スルーかい?」

「何がですか?」

「これは『ふつおた』でいいの? 普通のお便りってこういうもんなの? これじゃっかんギャグ入ってるよね? というか、この人はミルクを吹き出したいがために聞いてるのかな?」

「でもとりあえずは、応援メッセージは入ってますし、ふつおたでいいんじゃないかなって」

「そ、そうなのかな? そっか、まあそういうもんだよねー。くまねこさん、どうもありがとー」


 納得しちゃったよ。まだ本調子じゃないのかな。

 しかし部長にラブレターか。なんだろうか、この少しもやっと感は。イガイガのボールを穴に投げ入れたい気分だ――。


「さーてさて、次は……っとそうだ。まだ時間は大丈夫かな?」


 僕たちはそろって東雲先生を見やる。


「すぴー」鼻ちょうちん、よだれ。

 ……先生寝てた。


「ってののちゃん寝てるしっ!」


 と――キーンコーンカーンコーン

 予鈴が鳴ってしまった。


「あーっ! なんてこと! まさかこんなにも早くグダる時が来るとはぁああ」


 ――その時、僕は閃いた! けど今はそれを部長に話す時分じゃない。放課後に後回しだ。

 オーマイガッ! と彼女は頭を抱え身悶えた後、「くろすけ、締め!」僕に指示を出す。


「は、はい! えーと。というわけで、第八回、『ひるラジ!』はいかがでしたでしょうか。初めてで緊張もしたけど、楽しかったです。次回からはシズ先輩なので、ファンの方はぜひ楽しみにしていてください」

「『ひるラジ!』では、皆さんからのメールをお待ちしています。ふつおたやコーナー宛メール。こんなコーナーいいんじゃない? といった挑戦的なメールなどなど、どしどし投稿してねっ」

「お便りは校内各所に設置されている『らじボックス』に、脇に置かれている専用紙に書いて投函してください。また、公式ホームページからも受け付けています。葦ヶ崎高校ラジオ部、『ひるラジ!』で検索してもらえるとすぐ出てくると思うので、そちらからも待ってます――」

「っとその前に」


 時間がないというのに、部長はなぜか締めの流れを断ち切った。

 そして、すーっと息を吸い込む。


「ラジオの基本構成、オープニングとエンディング、合間に流れるステキな曲、そして明るいポップなホームページ。これぜーんぶ、くろすけが作ってくれました。みんな拍手!」


 このタイミングで!?  

 すると、廊下の方から拍手や歓声の音が聞こえた。よく聞けば、となりの職員室からも聞こえてくる。なんだか、ラジオ同好会が正式に部として認められたと、勘違いしそうなくらいに嬉しい。


 けどまさか、この場でバラされるとは思っていなかった。でも、部長のその機転のおかげで嬉しい思いが出来たから、彼女に感謝したい。


「ではでは、お相手はひめと」

「くろすけが」

『お送りしましたー』


 部長はマイクをオフにする。最後はかなりの巻き巻きだ。

 しまった、アウトロの演出するのを忘れていた。本当に今日はグダグダだ。

 僕はマイクスタンドをラジオ部専用ラックに戻し、録音機を切ってUSBメモリを抜き取る。机も部屋の隅に片付けた。


「くろすけ、早くしないと遅刻だぞっ」

「あ、ちょっと待ってください、ウォークマンがまだ――」


 余韻に浸っていたいけど、いまはそれどころじゃない。

 機器からUSBケーブルを抜き、僕も東雲先生のもとへ向かう。


「ちょっとののちゃん、授業はないの? ってか起きなよっ」

「あと五分だけですぅ……」

「そういえば、確か三組が次、美術だったような……」

「おい、ののちゃん起きろー! 授業だぞー!」

「すぴー、すぴー」


 起きる気配すらない。こういう場合、どうなるんだろう。教師の授業放棄? 罰則とかあるのかな。少なくとも生徒は自習だろうけど。


「こうなったらくろすけ、ののちゃんのおっぱい揉んででも起こすよ!」


 おっぱい!?


「いやですよ! なんで僕が……、部長がやってください!」

「つべこべ言うんねー」


 険しい顔をするなり、訛り声の部長に手首を掴まれて、強引に寝ている東雲先生の胸元へ。

 ――ふよん。そんな擬音がぴったりだ。

 小柄ながら、出るところはしっかり出ている東雲先生の胸は、思った以上に柔らかかった。

 初パイタッチが女教師って……なんて背徳的な。

 適度に指を押し返しては、また沈み込んでいく。手のひらサイズのマシュマロを握りこんでいるかのようだ。

 ああやばい、癖になりそうか、も?


 するとなんてバッドタイミングなことに。眠り姫に口付けしてしまったがごとく、東雲先生がゆっくりと目を覚ます。

 もちろん僕の手は先生の胸を揉みこんだまま固まっている。

 やがて覚醒したのか、先生は胸の違和感に気づいたみたいで目を瞠った。


「い、いぃやぁああああー! 痴漢ー!」

「いや、先生誤解です! これは――ふがっ!? 」


 立ち上がった東雲先生に顔を押しのけられ、尻餅をつく。

 そのまま先生は放送室から飛び出していった。

 部長の手につかまり、僕はなんとか体を起こす。

 少しして、なにかが廊下側からやってきた。

 のしのし歩き、眉間に青筋を立てて大変ご立腹なご様子の、赤鬼、いや五十嵐先生だ。


「こくちょーう、杏子になーにしたんだー?」

「え、いや、僕はなにも――ッ!? 」


 って部長ー! なに僕を置いてちゃっかり部屋の外に出てるんですか!

 咎めるような眼差しを送ると、部長は合掌し、五十嵐先生の後ろで「ごめん、ごめん」とウインクしながら口パクで謝ってくる。

 そして横目で同情の一瞥をくれ、救いの眼から逃げるように部長は駆けていった。


「あっ」

「と・く・べ・つ授業、だな」


 唇を舐め、鬼がにじり寄ってくる。

 喰われる、そう思った。


「あっ、お許しを――――いぃやあああああああー!」


 五限目の授業を欠席したことは言うまでもなく。

 僕は体育倉庫の掃除をさせられた。なぜか五十嵐先生は、白い体操服に紺色ブルマという前時代的な服装だった。合間合間に挟んでくる『ブルマの良さとは』とかいう謎講義が、思春期真っ只中の僕には少し刺激が強すぎた。


 教鞭でぷりんとしたお尻をなで上げるように自慢したり、こちらに向かってお尻を突き出してきたり……。眼を背けることすら許されなかった。恐れ多くも、教鞭はそんな風に使うものじゃないと進言したら、次は競泳水着を着てきた。

 意味不明だった――。


 気づいたら僕は保健室で眠っていた。消毒用のエタノールが鼻に付く。

 時計を見ると、もうすでに六限目も終わり際だ。窓から斜光が差し込んでいた。

 保険医の先生に聞いたら、鼻血を流して倒れていたから、五十嵐先生がここまで運び込んだという。


 正直、競泳水着から先のことはよく覚えていない。いや、思い出さなくてもいいことなんだろう。思い出そうとすると体が震える。

 なにもなかった、そう、なにもなかったんだ……。

 結局、僕は二時間も授業をサボる羽目になった。

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