第32話「群立」
山を、下りきった。
広々とした平原が、ところどころに小さな丘や林を抱きながら、どこまでも続いている。傾斜のきつい山肌の狭い村しか知らないケイには、信じられぬ光景だった。
だがお里らしいものは見えない。少なくともここからは。
すぐ先に、川が流れていた。それを川と呼ぶことさえケイは知らない。決してゆたかではない水の流れも、山の中の、誰かの小便のような頼りない水流しか見たことのないケイには、驚くばかりの水量に映る。
川は遠くからうねって迫り、そして平原の向こうへとゆるやかに続いている。その流れを目でたどってみる。どこまで続いているのか見当もつかない。少なくともここから川の終わりを見ることはできない。こんもり膨らんだ丘の向こうに川がまわりこんでいるからだ。
お里は、あの丘の先にあるように思われた。水の流れが行きつく先に、数えきれぬほどの人間が暮らす恵まれた里がある。そうにちがいないと思った。言い聞かせるようにその考を己のうちで何度か呟いて、また走り出す。
川沿いを下流へと進む。
ケイは途中、何とはなしに川のすぐそばに寄った。わりあい急な角度の土手を、足を滑らせぬようにして川まで下りる。流れは遠くから見下ろすよりもゆっくりだ。水量もそこまでではない気がした。ふいに嫌な感じを覚えた。こうした、どこか期待じみた思い込みと、その直後の落胆が、今から向かうお里でも起こるのではないか? そう思ったのである。
厚い雲が敷きつめられた薄暗い空が、なお暗さを増している。ほどなく夜が来る。だがこの空では朝も昼もあったものではない。雲の向こうのお日様は何をやっているのだ、とケイは以前に思ったことがあった。「お日様も仕事しろ」ケイがそう言うとセツは、「お日様だっておらみてえに腹に子がいるのかもな」と笑った。ケイはすかさず、「でも母ちゃんは、野良仕事してるじゃねえか、なのにお日様は――」セツは笑うだけで何も言わず空を見上げたのだった。ケイも真似た。あのとき二人で見た空も、今ほどには重苦しくなかった。
ケイは両手を川の流れに差し入れた。水を掬う。手のひらが形づくる桶に顔をうずめた。水の中で目を開ける。痛みに似た刺激があった。目が覚めた。
――行くほかねえのだ、お里へ!
両手を離し、勢いよく立ち上がった。放られた水が落ちて、川の流れの中に戻る。次の瞬間には、その水はケイをそこに残しお里へ向かっていく。ケイは土手を駆けあがり、見えるはずもないその水を追いかけて走った。傾斜のきつい山肌より、はるかに足が軽い。
やがて川の脇にある、小丘を二つ、雑木林を一つ走り過ぎた。そしてケイは見た。
平原の一角にひしめく建物の群れ――お里は、確かにそこにあった。
ケイはお里のまえまで来た。
立ち並ぶ建物は村のものとさほど変わらぬ大きさだった。だが村のそれよりよほどきれいだ。数も多い。建物のうしろ、それに奥にも並んでいて、とても数え切れない。二十軒ばかりの村より、やはり裕福なのだろう。ケイは近くの家に近づいた。
家のまえに立ち、そこからあたりを改めて眺め渡す。ここを入り口というなら、今、ケイはお里に着いたのだ。
安堵はない。あまりに静かだった。複雑に家々が密集しているが、見渡すかぎり人の姿は見えない。遠く正面に視界を塞ぐように並ぶ数軒の家、その向こうに集まっているのか、家の中にいるのか、あるいは出かけているのか。
ケイは脇の家のほうを向いた。入り口の戸は開いている。暗くてここからでは中は見えない。何ひとつ明かりがないことだけはわかった。
動悸がする。戸口に近づくまえから、ついさっき川べりで覚えた嫌な予感が的中していたと思ってしまう。慌ててその考を打ち消そうとした。だが遅かった。頭の内側に、不安が、落胆が、すでにべっとりとこびりついて、離れない。
足が動かない。重い。畑で一人、土をいじくっている玄平のそばで、素足を土の中へ突き刺したことがふいに浮かんだ。柔らかい土にケイの足先はずぶずぶと刺さった。押し込めばどこまでもめり込んでいきそうだった。くるぶしまですっぽり土にうずめたケイに、玄平がすっと近づき、足の甲を踏みつける勢いで土を踏み固めた。痛みはなかった。だが固まった土のせいで足は動かない。ケイはただ驚き、そして喜んだ。変わり者の玄平が見せた、子供らしいいたずらに。
――こいつは、おらのかわいい弟だ。
ケイははっとした。頬が冷たい。手を当てる。濡れていた。
涙だ。
流れた涙がすぐに冷えたのだ。玄平を思い出したためだろうか。違う気がした。失望の涙かもしれない。だが、何に対する?
目を強くこすった。家の入り口を見る。今度は足が動く。
家の中はやはり暗かった。
しかしすぐにわかった。隅に横たわっているのは、死骸だ。よく見えないが、大人だろう。大きなかたまりで、二、三人いるのかもしれない。だがそれを調べて何になる?
ケイは家を出た。中の暗さのためか、外はずいぶん明るく感じられる。
そばの数軒も見てまわった。どこも、死骸があるばかりだった。
次の家も同じだろう、そう思い、いっそ一番奥の家を確かめてみようと先へ向かうことにした。
お里の入り口から見渡す視界を遮っていた、中央の数軒を裏手に回ったとき、ケイはぎょっとして足を止めた。
山があった。小さな、だが異様な山が。
おそるおそる、近づく。
死骸だった。十や二十ではない数の、人間の死骸が積まれて山のようになっていたのだ。
骨だけの死骸もある。ケイは思わず顔をそむけた。目だけ動かして、もう一度見る。骨だけと思えた死骸は、ところどころ肉が残っている。乱雑にこそいだかのようだ。森の口で、村の男たちが猟から持ち帰った鹿をさばくのを、死んだまえの母親と見たことがある。血まみれの肉が村じゅうに配られたあとに、その場に残された鹿の骸、それにそっくりだと思った。ナタもいくつか落ちている。すぐ近くのひとつに近づく。血がこびりついている。人間の、この人らの血だ、ケイはごく自然にそう考えた。
死骸の山から離れ、お里のさらに奥に向かう。だが何のためにそうするのか、もはやケイにはわからない。こうなったらとことん見てやろう、そんな気持ちからかもしれなかった。視界の先にも、家屋が立ち並んでいる。
――ここに、あといくつ、こんな山があるのか。
ケイは心のうちで呟き、背にした死骸の山を振り返って、思った。
――このひとつだけじゃ、ねえだろう。
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