第31話「傾斜と追風」

 足に感覚はもうない。だがそれでも、ケイは走るのをやめなかった。というより、何か大きな意思が止まることを許さぬように、ケイは疲れすら感じることなく森の傾斜を駆けおり続けている。このあたりまで来ると雪はほとんど見えなかった。下のほうは降っていなかったらしい。心なしか、上に比べればだいぶ暖かい気がする。

 頭の中にはセツの言葉だけが響いていた。「もうだめだ、お里へ行け」セツは自分に託したのだ。こむずかしい目的などわからなかった。気狂いのようになった男たちが叫び立てる村を、セツに手を引かれてあとにすることになったのも、ケイはどうしてかよくわかっていない。連中は気味が悪く、実際追いかけても来たが、村に残っていればそもそも追われることもなかったのではないか? だがケイの頭にそんな疑問が浮かんだのは、村を出てすぐのところまでだ。いつの間にか、セツに続いて黙々と森を下ることに集中していた。腹は減り尽くすほど減っていたが、セツの背中だけを見て足を動かしていると、それも忘れられた。信じられぬことに、ケイは充実していたのである。

 松っちゃんの嫁と息子も置いてきた。嫁は動けそうになかったし、息子はそのそばを離れそうになかったからだ。だが息子はまだ歩ける、とケイは見抜いていた。たいして親しいわけでもないが、どうしてかケイにははっきりそうとわかった。子供のほうが案外しぶといものなんじゃねえか、とケイは思った。

 セツらを残して今までほとんど休みなく走っている。手には何も持っていない。松明は重く、ケイはそれを持つことを拒んだ。セツは目で松明を持たせようとしたが、ケイは頑として聞かなかったのだ。持たぬほうが速く走れる気がした。速く走って、早くお里にたどり着くほうがよいと思った。

 そこで助けを求め、セツらの救助に向かわせよう。そう思った。だがそれよりも、どこまでも走れそうな己の体にケイは酔いしれていたのだ。走り続けるうち、いつかお里に着くだろうと思った。着かなくても構わないという思いが頭をかすめさえした。

 空が暗くなり始めた。まだまだ傾斜は続いている。ケイは足を止めて、乾いたくさむらに腰をおろした。思いのほか道は長い。途中何度か休み、目についた草をむしりとって口にした。食えたものではなかったが、食えば腹もわずかに膨れる。

 ケイは片手を伸ばした。上に比べ暖かく感じられるとはいえ、夜気に覆われた草は手のひらに冷たい。一息につかみ、引いて、ちぎる。口もとに運び、いくらかこぼしながら、噛む。苦みに耐えて呑み込む。一晩ここで休み、空が白み始めたら、また走ろう。ケイはそう決めて、仰向けになった。草の先が触れ、首すじにぞくりとしたものが走った。



 目を覚ますと空はかすかに白んでいた。だが朝という感じはまったくない。明かりなしでもあたりを見渡せるかぎりは朝にちがいないのだが、ケイの知っている朝からはかけ離れていた。

 雲が完全に空を覆ってしまっている。灰色の、重苦しい雲だ。村で最後に空を見上げたのがいつか、ケイは思い出すことができない。だがこんな空ではなかったはずだ。そう思ったとき、ケイの胸に、今までにない不安が生まれた。

 ――お里は、大丈夫なのか?

 ケイはお里の存在を確信している。この森を下りきったところに、それは必ずある。そう思っている。セツもきっと同じだ。でなければ、あんなふうにケイを促したりはしない。衰弱しきっているはずのセツの、その目と、口ぶりは、自信にあふれていた。「もうだめだ」とセツは言ったが、それは自身の体力のことであって、この行軍の行く先を絶望してのことではないのだ。

 ケイは駆け続ける己に充実を感じていた。だから走った。なぜ自分がこんな状態で走れるのか、そんなことは考えなかった。走ることそれ自体が快楽となっていた。のめり込んでいたのである。そして、走り続けていればお里に着く。そうすれば自分の役目は果たせるのだと思っていた。

 しかし今、一つの疑念が頭をもたげた。

 ――お里は、大丈夫だろうか?

 考えもしなかった。過去、大人たちがお里をありがたがったり、心配したり、ときに罵ったりするのを見てきたが、ケイにはいまいち判然としなかった。ただ漠然と、お里という場所と、そこに住む者たちを「偉いもの」と考えていた。村の大人たちが例外なく頼りにしているのが、否応なく感じられたからだ。そういう中で育ったケイも、知らぬうちにお里を崇めていたのかもしれない。

 お里に対する、その無垢な期待がたった今、揺らいだ。途端に足が重くなる。半ば忘れていた空腹感も、ここにきてにわかに蘇ってきた気さえする。それでもケイは進んだ。駆け、歩き、休んで、またくり返しては傾斜を下った。

 セツのもとを離れて二日目の晩が近づいてきた頃、ケイはあることに気づいた。

 傾斜が目に見えてゆるやかになっているのだ。薄暗いために視界はさほど利かぬものの、眼下の杉や檜の隙き間に、険しい山村暮らしのケイからすればほとんど平らの土地が広がっているのが見えた。

 ケイは思わず飛び上がった。疲れ、恐れ、空腹感……あらゆる陰鬱なものが心と体から消えていた。夜が近いということも忘れ、なだらかな傾斜を猛然と駆け下りる。下りきったそこに、お里があると思った。不安に対し、やはり期待が勝った。たどり着きさえすれば、どうにかなる。走る以外に、自分にできることはない。

 ケイは雪のない、乾いた草に覆われた傾斜を、まえにつんのめりそうなほどの勢いで駆けた。おだやかに吹き下ろす風が、背を押してくれる。

 飛ぶように走るケイの表情は、玄平が死んでから今までのいつよりも若々しく、そして子供らしかった。

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