第30話「錯覚」

 松明を手に現れたセツを見て、松っちゃんの嫁が危うく気を失いかけた。

 隣のケイが彼女の背に手を置いて落ちつかせてやり、嫁は何とか意識をとどめた。たいした奴だと、セツはケイを見直した。

 嫁が、戻ってきたセツにひどく驚いたのは、ずっと目を閉じて縮こまっていたからだ。ふいに目のまえに松明が現れれば、この状況では誰だって村の追手に見つかったと思うだろう。嫁はその瞬間、生きた心地がしなかったに違いない。

 だがケイはどうだ。ケイはセツが森の口へ向かってから、おそらく今まで気を張ってあたりを窺っていたのだ。そして遠く村のほうから松明が一つだけゆっくり近づいてくるのに気づいた。高く掲げられるのではなく、足もとを照らすように控えめに低く持たれた松明に、村の追手ではないと察したのだろう。あれはセツだ、と考えたのだ。

 セツは誇らしい気持ちになった。それとともに、この子がいればどうにかなる、そんな楽観的な思いを抱いた。嫁の息子は状況がわかっていないらしい。嫁の肩に頭を預けて眠っている。無理もない。死んだ玄平よりも幼いのだ。こんな子供に、何がわかるはずもなかった。松明の明かりと熱に気づいたか、ふいに息子が目を覚ました。いったい何が起こっているかわからずとも、村を包む異様を肌で感じているのだろう、息子はぐずりもせずに幾度か目をこすって、しっかりした目で母である嫁を見つめている。

 セツは息をついて、言った。

「さあ行くぞ、お里へ」

 四人はセツを先頭に、森を奥へと、下へと進んだ。葉の落ちた木も多いものの、それでもなお深い森は雪をうまいこと防いでくれており、森の口で見たほどには降りしきっていないように見える。これなら松明の炎が消えることもない。松脂は朝までもつだろう。一晩で着くとは思えぬが、朝になったら別の手段を考えればいい。種火さえあれば、ここは森だ、燃やすものには事欠かないだろう。存外何とかなる、セツはそんな気がした。



 密度高く立ち並ぶ木々の間を雪が舞い落ちる。月の見えぬ闇夜に、雪の白さが残酷なほど際立っていた。

 セツたちは黙々と森を下った。歩き始めてしばらくすると松っちゃんの息子が疲れからくる眠気に耐えられなくなり、嫁がおぶった。だが息子は決して自分からそれを望みはしなかった。嫁に手を引かれて歩く中、すとんと膝が抜けるようになり、見かねた嫁が半ば無理やりに彼を背負ったのである。セツはそんな二人を好もしく眺めた。勇気づけられる気がした。

 ケイは自力でよく歩いた。空腹はとうに限界を迎えているはずだ。それでも泣き言ひとつ口にせず、松明を掲げ先頭を行くセツのすぐうしろで、しっかりした足どりで地を踏みしめた。時折、あとに続く松っちゃんの嫁と息子を振り返って気にさえする。嫁はそんなケイに支えられて寒さと背中の重みと腹の空しさに耐えているようにセツには見えた。唯一の明かりを手にしているのは自分だが、この一行を底で支えているのはケイなのだ、とセツは血のつながらぬ娘を改めて誇らしく思った。

 下へ下へと進むうち、セツは妙なことに気づいた。人間の通る道らしい道など存在しないはずの森の中に、延々と、人が歩くためと思われる道がのびているのだ。村の中央を通る坂道のようにはっきりしたものではない。茂った草木の中でわずかにそこだけ、どこか周りと異なる感じがする、という程度のものである。といって、うしろのケイらに言葉で説明できる自信もない。自分には感じられてわかる、というだけだ。それでもセツはどういうわけか、この道を進めばよいという確信めいたものを抱いていた。他に行く道もない、というだけのことかもしれない、ふとそうも思えたが。

 さらにしばらく下った頃、セツは思わず足を止めた。うしろのケイが背中に頭をぶつけて小さな声をあげる。息子を背におぶった嫁も止まる。

何も言わぬままセツが松明を高く掲げて行く手をできるだけ遠く、広く、照らした。セツの背中越しに顔を覗かせたケイと嫁が息を吞む。

 目のまえには、それまでより幾らか落ち込んだ傾斜が続いている。

 そこに、道があった。明らかに人間がこしらえたものである。今まで下りてきたそれよりもはっきりと、誰にでもわかる道だった。背の高い草が、そこだけ踏みしだかれたように低く、薄くなっている。長い年月をかけて踏みならされたものに違いなかった。

 ケイと嫁が、両脇からセツの横顔を見つめた。二人の目はようやく道らしい道にたどり着いた安堵よりも、この先にきっとある未知の里に対する怯えを映しているようにセツには思えた。セツも同じ思いだった。

 どこまでも続くかのように落ちこんでいるその道に、セツが一歩を踏み出す。うしろのケイと嫁は、自然とそれまでより間隔をつめて、セツに続いた。



 下れども下れども、景色は変わらない。

 セツは今自分がどこを歩いているのか、どこに向かっているのかさえわからない気がする。夢の中で得体の知れぬ何かに追われ、必死に逃げようと足を進めながらうまく走れないときのようなもどかしさがあった。だが夢ではないと気づいた。すぐうしろにはケイらが続いていたからだ。

 どれほど下っただろうか。背の高い木々の隙間から覗く空はかすかに白んでいる。だがそれは本当にかすかに、でしかない。雲が低く、厚く垂れ込めているらしい。夜どおし山を下りてきて、それはかなりの距離になるはずなのだが、空はまるでいつかの村のように重苦しい雲に覆われている。どこかのお山が火を噴いた、お里の者から豪太が聞いたというその話が、ふいに思い出された。嫌な予感がした。だが何より、もう疲れはこれ以上ないほど体に蓄積されていた。

 不思議な感覚を抱いた。あたりの景色がぐにゃりと歪む。木々がしなる。空が目のまえにすっと降りてきて、ぱっと反転した。ケイの小さく叫ぶ声が耳を打った気がする。セツは知らずその場に倒れ込んでいたのだ。

 ケイが顔を覗き込んでくる。何か呼びかけてきた。かろうじて返事をする。だがもう歩けそうにない。足に感覚がないのだ。今なら丸太で足を潰されても、痛みも何も感じないだろう。丸平はどうだったのか。痛みを感じていたのだろうか。

 いつの間にか雪はやんでいた。もっとも、木々深いこの森では雪は行く手を阻むほどには積もらないらしい。それよりも、飢えと疲れがセツをはじめ皆の体力を容赦なく奪い尽くした。

 セツは自分を覗き込むケイのうしろで、嫁がぐったりしているのを見た。セツの視線に気づいたケイが振り向き、嫁と、おぶわれた息子の肩を交互にさする。息子はすぐに気がついて目を開けた。だが嫁は動かない。ケイが力を込めてもう一度肩を揺らす。

 嫁がかすかに目を開いた。呼吸もわずかにではあるが続けている。嫁にまだ息があることと、セツと同様もはや歩けはしないことが、はっきりわかった。息子はいくらかましに見えるが、実際はたいして変わらないだろう。少なくとも今立ち上がって自らの足で歩くことができるとは思えない。

 セツは自分の腹に手を当てた。二度、三度、小さくさする。腹のうえで手が震えているだけのようだ。力が、入らない。ふっと、セツは息をついた。

 目を閉じる。真っ暗になった視界に、何かが現れ、すぐに消えた。それが何であるかセツはわかっていた。体が震える。唇を噛んだ。

 腹の子は――もう助からない。

 くやしい。だが、わかりきっていたことのような気もした。体力を使いすぎた。あれだけ動けば無理もない。他に方法があったかもしれない。なぜ自分はこんなことをしたのか。どうしてこんな場所に倒れているのか。だが他にどうしろというのだ。けだものばかりのあんな村に、なぜ残らねばならないのだ。

 セツの頬を涙が伝った。どう察してか振り返ったケイがそれを見た。セツは顔を隠そうともせず、わずかに開けた目でケイをまっすぐに見上げ、言った。

「もうだめだ」

 ケイの目に力がこもった、セツには少なくともそう見えた。自然と口が動く。

「ケイ、お前は、行け。お里へ、行け」

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