第28話「始まり」
森の口が見えた。門柱のようなブナの大木の幹にもたれて立つ松っちゃんの嫁らしい人影がぼんやり目に入った。まだ小さい一人息子もすぐ隣にいる。
「逃げろ! 中へ!」
駆けながらセツは声を出した。だがうまく出ない。嫁たちには届いていない。
「ケイ、ケイ」
セツは走ったまま、掴んでいるケイの手を強くまえへ引いてケイを自分の横に立たせた。ケイが険しい顔でセツを見る。
「あいつらに……中へ逃げろって」
片手で前方を刺す。もう一方の手は腹を押さえている。ケイはセツの言わんとすることを察したのか、すばやく頷くとセツを追い越してまえを走った。
形相で迫ってくる二人の様子に不穏な何かを感じたのだろう、嫁は息子を背に隠して片腕を胸のまえに構えて警戒している。全力で駆けるケイはあっという間にそこへ着いた。
嫁とケイが何か短くやりとりし、真っ暗の森の中へ走り入っていく。セツはよし、と呟いて、自分もあとを追った。
ふと振り返った。男たちは村はずれの空き家のまえを過ぎたあたりだ。激しく揺れる松明の明かりでそうと知れた。だが向こうからはこちらの姿はよくは見えないはずである。
森の口から中に入る。いつかの真夜中に火の玉のあとをつけて足を踏み入れた時と同じだった。光はまったくない。思わずあの夜が思い出されて足がすくんだが、体が覚えている森の道をまっすぐに進んだ。
男たちも森の口に迫っている。一度足を止めて振り返ったセツの目に、入り口のすぐ向こうに浮かぶ大きな火の玉が映った。男たちはすぐそこまで来ているのだ。
「こっち、こっち」
と声が聞こえた気がした。 そのほうを向くまえに、暗い中からにゅっと手が伸びてセツの細い腕を掴み、引き寄せた。悲鳴をあげる間もなく、セツはそちらへ倒れかかった。それをケイが支えた。掴んでいたのはケイだったのである。そのケイの背を、松っちゃんの嫁が押さえて支えてくれていた。目が慣れてきて、二人と、嫁のうしろにいる息子の姿がうっすらと見えた。四人は姿勢を低くして少し奥に下がり、こんもり茂った灌木の陰に身を潜めた。そのすぐそばを、数個の火の玉が駆け抜けた。火の玉の数だけ、ナタもあるに違いない。そして奴らの目は、獣のようにぎらついているのだ。森の奥へ遠ざかっていく火の玉を見つめながら、セツはそう確信していた。
数個の火の玉は森の奥へ消えた。引き返す様子もなく、あのままどこまででも行ってしまいそうだ。
「どうするのだ、逃げるったって、どうやって」
松っちゃんの嫁が聞いてきた。顔はよく見えないが、不安だけははっきりと伝わってくる。
セツは場違いなほどほっとしていた。ともかく、いったんは村から逃れ、追ってきた連中もうまくやり過ごせたのだ。
だがこのあとのことをセツは考えていなかった。お里へ行く、というより、村から出ることだけを考えていたのである。徳三の家では、生贄にしようとする奴らからケイを守るために、とっさに祭のことを口走った。これ以上ないほど高ぶっていた連中は焚きつけられ、祭に向けて動き出した。セツのせいであることは間違いない。しかし遅かれ早かれこうなっただろう、セツはそう信じて疑わない。奴らのあの目は、けだものそのものだった。村の仲間である五平や松っちゃんを捧げ物同然に森へ向かわせたり、まだ子供のケイを生贄にしようとしたり、奴らは自分が助かるためなら何だってするだろう、ならばいずれは祭にたどり着いていたはずである。奴らはもう気狂いも同じだった、神様の祟りがあるからとあれだけ恐れていた森に、セツらを追って駆け込んできて、どこまでも走っていったのだ。まともにものを考える頭をすっかり失ってしまったに違いない。
「なあ、どうするのだ、明かりもなしに」
答えぬセツにしびれを切らしたらしい嫁が、セツの肩を手探りに掴んで揺すった。だがセツは答えを持っていなかった。
「どうするのだ、こんな暗い森を、いったい」
また嫁が言ったとき、セツはあることを思いついた。
「なあ、ここで待ってるのだ、いいな」
セツはまず嫁に言い、すぐそばにいるケイと嫁の息子にもそうくり返した。
「すぐ戻るから、動くんじゃねえぞ」
そして低い姿勢のままうしろを向いて、来た道を戻った。森の口のすぐ向こうはぼんやりと明るい。そこを目指した。
ふいに背後の森から雄叫びが聞こえた。男たちが迫ってきたのだ。今しがたセツたちを追い越した連中が、どこまで行ったか知らぬが引き返してきたのである。
男たちはまっすぐ森の口へ向かっていく。セツはすぐに近くの大木の陰に身を隠して助かった。連中は気づかずに過ぎたのである。
今度はセツが男たちを追うようにして森の口へゆっくりと歩いた。
森の口の近くまで戻ってくると、すぐ向こうの広場のようになった場所に、大勢の人々が集まっているのが見えた。男たちがずらりと半円状に立ち並び、その手前の地べたに、年寄りや、幾人かの子供が転がされている。年寄りの中にはまったく動かない者もいた。子供たちは怯えきっているのか泣き声すら立てず、自分たちを取り囲む異様な男たちを見上げている。
男たちの中にはちらほらと女も見える。働き盛りの男と女が、年寄りと子供を見下ろしているのだ。その目は松明の明かりを受けてぎらつきながら、どこか信じられぬほど冷たいものに見えて、セツはぞっとした。
――祭が、祭が始まるのだ!
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