第27話「悪寒」

 男たちの叫び声は止む気配がない。腹を空かせている彼らのどこにこんな活力があるのか、セツは恐ろしくなった。

「病気の者や、年寄りを運び出せ! 要らねえ子供でもいいぞ!」

 豪太の号令に、男たちは立ち上がる。戸口に駆け寄り、我先にと走り出ていった。

「上からだ! 上の家から順に回っていくのだ!」

 豪太がまた言い、男たちがわっと応えて、家のまえの坂道を上っていく。

 セツは松っちゃんの嫁の手を握ったまま、男たちが出ていくのを待った。全員が出ていってから、

「子を連れて、森の口に行くんだ、おらもすぐ行くから」

 と嫁に言い、その肩を、励ますように一度叩いて、家をあとにした。すぐうしろについてきた嫁は、一人だけ反対の方向、村の下へと向かう。だが男たちは誰ひとりそんなことには気づかない。

 セツは坂道を上がった。膨らんだ腹のセツには楽ではなかった。男たちとの距離は開いている。ちょうどよかった。

 セツは足を緩め、遠ざかっていく男たちのうしろ姿を眺めた。彼らが向かっている自分の実家の、その三つ下にある我が家へと戻る。実家のことは考えないことにした。家には母親がいて、バアちゃんの死骸もあるはずだ。死んだのは今日の昼で、親父は墓地に埋めになど行っていないだろう。狂った男どもはバアちゃんの死骸を運び出すのだろうか。母親はきっと大丈夫だ、連れ出されはしない。だが、わからない、親父が守ってくれるとは思えない。さっき豪太らと気狂いじみた雄叫びを上げていた連中の内に、親父もいたのだから。親父の目も確かに、獣じみた異様な光を放っていた。


 戸を開けて家に入ると、ケイが体を起こしてこちらを見ていた。たった今、外を通り過ぎた狂った集団の騒ぎ声にさすがに驚いたのだろう。目を見開いている。

「ケイ、逃げるぞ!」

 セツは土間からでかい声で呼びかけた。

 だがケイは固まっている。その目にセツは映っているだろうが、どうも見えないらしい。セツは急いで家に上がり、近寄ってケイの肩を揺すった。ケイはやっと気づいてセツを見上げた。

「逃げるぞ、村はおしまいだ!」

 セツは言った。だがケイは見ているだけである。

 村がおしまい、セツはそう言ったが、それはセツの願望かもしれなかった。これから行なわれることのせいで、村が絶えることはない。むしろそのおかげで、生き永らえるだろう。実際に、かつて祭を行って村を救った「徳三」という偉い人がいたのであるから。

 だがセツには、そんなことはどうでもよかった。

 セツにとって、この村はもう死んだも同然なのだ。

 こんな村はなくなったほうがいい、セツはそう考え、そして願っているのだ。

常に食い物に悩まされ、子は森へ捨て、仲間を生贄にし、そして……。

 祭。

 こんなことまでやるなんて、獣以下だ。けだものだ。虫ケラだってこんなにひどくはねえ。

 だからセツは思った。こんな村なくしちまえ、と。出ていくのだ。いつか丸平が、先日には夫の五平が、目指したお里に向かって。

 禁断の場所へ。

 ――行ってやろうじゃねえか!

 セツはケイの頬を力のかぎり張った。

 ケイは気がついたらしい。頬を押さえる。

 ケイの手をつかみ、立ち上がらせると、戸口のほうを向いて言った。

「行くぞ、お里へ、行くぞ!」

 外からは男たちの騒ぎ声が、粒の大きくなった雪と無慈悲な風とともに、家の中に入りこんできた。


 

 ケイの手を引いて家の外に出た。雪の粒は目に見えて大きくなっている。いずれ牡丹雪になるだろう。だがこんなところからは出ていくのだ、セツの肚は決まっていた。

 男たちの集団はセツの実家の下の家のまえで喚声をあげている。松明を空に突き刺すように掲げている者が見える。同じようにして腕を突き上げている者もいた。ナタを天に向けている者まで。

 その中に、何か担いでいる者たちがいた。四、五人で寄り集まって大きな何かを担いでいるのだ。セツはそれがバアちゃんだと気づいて背筋が寒くなった。あいつらはバアちゃんの死骸を運び出した。何のために? わかりきっている。祭のためだ。

 男たちがまえで騒いでいるあの家の中には今、奴らのうちの何人かが踏み入っている。すぐに家の誰かが、きっと年寄りの定吉あたりだろう、バアちゃんと同じように担がれて出てくる。すると次はその下の家に来る。そのあとはここだ。うかうかしていられねえ、セツはケイを握る手に力を込めた。痛みを感じてか、ケイが小さく呻いた。

 その声にセツは我に返った。こんなところで立ち止まっている場合ではないのだ。逃げなければ。捨てるのだ。この気狂いばかりの、けだものの村から、逃げ出すのだ。

 ここからでは暗くて見えないが、森の口で松っちゃんの嫁が待っているだろう。小さな子供と一緒に。すぐに合流し、森へ入る。そして、お里へ向かうのだ。

 セツはケイの顔を見つめ頷いた。ケイは大きく開いた目でセツを見返すだけである。もう一度頷き、セツはケイの手を握ったまま坂道を下りる。勢いよく走ることはできない。膨らんだ腹を守るように片方の手をそこに当てて下っていく。何に呼応してか、男たちのひときわ大きな叫び声があがった。怯んだらしいケイが足を止めたが、セツは振り返らず、構わずケイの手を引いて先を急いだ。

 徳三の家のまえを通り過ぎる。村の中段まで来たのだ。あと半分下れば村の下のはずれである、今は空き家の仁太の家があり、その少し先に森の口がある。松っちゃんの嫁たちはきっと、森の口の門柱じみた大きなブナの幹のそばに立っていることだろう。セツは握る手にまた力を込めた。急ぐ気持ちが足に伝わり、思わずまえのめりになる。

 さらに村を下り、かつてセツも住んでいたはずれの家のまえまできた。村はここで終わりだ。この先には森の口があるだけである。そこから森に入り、ひたすら下れば、お里へたどり着けるはずだ。

 男たちの喚声がまた耳に届いた。ケイが足を止める。セツはその手を強く引いたが、今度はケイが踏ん張ったためにセツまで足が止まってしまった。

「何してる、早く行かなきゃ――」

 そう怒鳴りつけようとして振り返ると、ケイもうしろに顔を向けていた。見上げるケイの視線の先には、村を駆け下りてくる男たちの姿があった。数人である。集団はまだ家々を順に襲っているはずだ。あいつらは何をしている? セツはケイとともにそこに立ったまま彼らを見上げている。男たちが手にした松明が、風に揺れて火の玉のように見える。いつか森で見た光景を思い出した。はっとした。あのとき見た、ナタが思い起こされた。今、駆けてくる男たちの手にも、同じ物が握られている気がした。その時、男たちの一人と目が合った。そう思っただけだ。だが確信めいたものを感じた。悪寒が走った。

 ――あいつらは、おらたちに向かってきてる!

 ケイはまだ固まっている。セツは「おい!」と怒鳴った。引っこ抜いてやるつもりでケイの腕を引いた。さすがに気づいてケイが向き直る。

「行くぞ!」

 ケイが頷く間もなく、セツはまた駆け出した。だが大きな腹を抱えて踏み出す一歩は、焦るセツの思いほどには速くなかった。

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