第26話「歓声」

 死んだように横になって動かないケイに背を向けて、セツはじっと考えている。

 バアちゃんは死んだ。

 息を引きとったバアちゃんをしばらくのあいだ見下ろしていた。涙は出なかった。これだけ生きたのだ、数えきれぬ冬を越えたのだ。耐えがたい飢えに耐えたのだ。もういいではないか。

 一度だけ手を合わせ、セツは立ち上がって戸口に向かった。敷居をまたぐ際、振り返ってバアちゃんを見つめ、もう一度手を合わせた。

 


 下り坂をケイらのいる家まで戻る途中、何となく立ち止まり、村全体を眺め渡した。まだ昼だが、外に出ている者は一人もいない。子供たちの声も聞こえない。村を囲む森も静かで、この山に、つまりこの世界に生きているのは自分だけなのでは、との考が頭をよぎった。

 ふいに、五平をもう死んだことにしている自分に気づいたが、あえて取り消そうとも思わない。きっとそうだろうと思うほうが自然なことだと感じられた。五平は三日まえの晩に村を出て、まだ戻らない。今どのあたりにいるのかもまったく見当がつかない。いつまで待てばよいかすらわからないのだ。待つのには慣れているセツでも、こんなに絶望的な待ち人はかつてなかった。

 家に戻ると両親はぼんやりした様子で座っていた。セツの姿を見てはっと思い出したように目を見開いた。セツは何も言わなかった。ただ目を伏せた。察した両親は体を起こし、とぼとぼと帰っていった。涙も見せず、声すら上げなかった。

 ケイはぐったりしたままだ。だがどうすることもできない。病気なら食い物がなくてもお山さんの神様に祈ることができる。しかし今回はできそうにない。その神様の怒りでこうなっているからだ。セツは噂など真に受ける己ではないと思っていたが、やはり信じてしまっているのだと今、覚った。

 床に腰を下ろし、息をつく。ふと天井を見上げた。

 そして頭に、バアちゃんの最後の言葉が浮かんだ。

「森の口」

「鹿の肉」

「ナタ」

「焼いて」

「食った」

「ぎらぎらした目」

「騒ぎ声」

「松明」

「祭」

 不思議なほどよく覚えていた。頭の中でくり返し呟いていると、ふいにそれらの言葉が結びつき、ある意味を持ち始めた気がした。

 同時にセツの頭に、鮮明な情景が浮かび上がってきた。夜。森の口のまえの小さな広場。限界まで腹を空かせた村人たちが何やら叫び声をあげている。歓声にも似た叫び。人々の目は異様な光を放っている。手には松明、そしてナタ。ひときわ大きい叫び声があがり、それを合図に、足もとに横たえられた鹿にナタが振り下ろされる。飛び散る血しぶき、切り落とされる手足、頭。焚かれた火に次々投げ込まれたそれらに、すぐさま飛びつきかぶりつく者たち――

 セツは気分が悪くなった。同時に強烈な空腹を覚えた。腹はずっと減っている。減りすぎてこのごろでは容易には空腹であることを思い出さないほどに。

 ふとあることに気づいた。

 鹿だ。

 たった今浮かんだ空想の中で、目をぎらつかせた者たちがナタで切り刻んだ、鹿。

 だが鹿がどこにいるというのだ。

 人々はまるで狂人のようだった。飢えていたのだ。今の自分たちのように。

 そんな状況で、いるだろうか。

 鹿が。

 バアちゃんは言った、「鹿の肉を食った」と。

 違う。鹿ではない。

「神隠し」

「あれもだ」

「子供をナタで」

 バアちゃんのそれらの言葉が思い出された時、ある考えが浮かび、セツはぞっとするものを覚えた。と同時に、その考えに異様な確信を感じた。間違いねえ、とセツは思った。

 奴らが切り刻んで食ったのは鹿じゃねえ。

 鹿じゃねえ、別の肉を食う。

 それが――祭なのだ。



 その晩、豪太の呼びかけで話し合いが行なわれることになった。豪太自身が家々を回って声をかけたのだが、その痩せようにセツは驚いた。全部の家を回り切るまえに死んでしまうんじゃないかと思ったほどだった。

 家主が不在であるため、五平のかわりにセツが、そして松っちゃんのかわりに嫁が出るのである。

 ケイを残して家を出ると、同じく豪太の家に向かう村の者たちがぞろぞろと歩いていた。話をしている者などいない。まるで死人の行列だ。

 セツの頭からはあのことが離れずにいた。昼間思い浮かべていたことである。セツはそれを考えながら、こんな村、と吐き捨てたくなった。

 ――こんな村、なくなっちまえばいい。

 実際に唾をひとつ吐いて、セツは坂道を下りていった。

 山の高みから吹き下ろす風は、雪が降らぬのが不思議なほど冷たかった。



 豪太の家――徳三の家にはセツが最後に着いた。セツの少しまえに家に入った者が最後の参加者だと思われたのか、セツが戸を開けて入った時、豪太がすでに話しを切り出し始めていた。セツを見て話を止める。他の者たちもセツのほうを向いた。セツが家に上がり、松っちゃんの嫁の隣に座ったところで、再開した。まじまじ見ると豪太の痩せこけかたは凄まじいものだった。村のまとめ役らしい威厳はもうない。だが他の者たちも大差なかった。ただどいつも、目が、その目だけが、異様な光を放っていた。

 セツは背筋に寒いものを覚えた。

 豪太が話し出した。

「食い物のことだが……」

 すると豪太を遮って、参加者の中から野次のように声が上がった。

「もうねえぞ! 食い物なんぞ、どこにも!」

 この声を合図とばかりに、次々と叫びに似た声が上がった。

「神様の祟りなのだ!」

「そうだ! 祟りだ!」

 さらにはこんなことまで叫ばれた。

「五平と松を森にやったが、祟りは収まらねえ! もう食い物はねえのだ、お恵みはねえのだ!」

 セツは隣の嫁と顔を見合わせた。

 夫はやはり生け贄になったのだ、森の神様に捧げられたのだ。

 その怒りを鎮めるために、村を救うために。誰も二人がお里へたどり着けるなどとは考えていなかったのだ。

 その時誰かが叫んだ。

「足りねえのだ、捧げ物が!」

 別の誰かが呼応する。

「そうだ、神様はまだ足りねえとおっしゃるのだ! もっと捧げるのだ!」

 異様な熱気が家の中に満ちている。

 セツは思った。どいつも目がぎらついている、普通じゃねえ、まるで獣だ。

場のざわめきは大きくなるばかりである。

「捧げるのだ」

「もっと神様が喜ぶもんをだ」

 そういう声に混じって、誰かが叫ぶ。

「子供だ!」 

「そうだ、汚れを知らねえ子供がいい!」

「女だ!」

「若い娘だ!」

 途端、セツははっとした。

 知らずのうちに、皆の視線が自分に向けられていたのである。

「ケイだ、ケイがいい!」

「そうだ、神様の使いに矢を当てた五平の娘だ」

「それがいい、ケイだ、ケイを捧げるのだ!」

 皆の叫びはこれ以上ないほど大きくなった。あとは誰かが号令をかければ、この家を飛び出してケイを捕まえに村の坂道を駆け上っていくだろう。

 豪太が何か言おうとしている。あいつは号令をかけるつもりだ、セツは思った。

「祭だ!」

 場が、静まり返った。

 甲高い声でそう叫んだのはセツである。野太い男たちのざわめきの中で、セツの声はよく通った。

「祭を、祭をやればいいのだ、祭をやるのだ!」

 セツはわざと狂ったような口ぶりで言った。男どもをたきつけるために。  

 ――ケイを、ケイまで、お前らの好きになんか、させねえ。

 不気味なまでの沈黙の中、誰かがぽつりと言った。

「……そうだ、やるぞ」

 別の誰かが言葉を継いだ。

「祭をやるのだ!」

 大きな歓声があがった。誰もが抑えられぬほど高ぶって見える。

「祭だ、祭しかねえ! やるぞ、祭を!」

 ひときわでかい声で豪太が叫び、これ以上ないほど男たちが沸いた。誰の目も妖しくぎらついている。隣の松っちゃんの嫁だけは青ざめていた。

 セツは嫁の手を握りしめ、囁いた。

「逃げるぞ。この村は、もうおしまいだ」

 嫁は怯えた顔のまま、震えのように小さく何度も頷いた。

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