第25話「遺言」
戸口から土間に足を踏み入れた時、セツは家の中に嫌なにおいが立ち込めているのに気づいた。
実家でこんなにおいを嗅いだのははじめてだった。どうしてか死んだ仁太が頭に浮かび、すぐに合点がいった。
バアちゃんはまもなく、死ぬのだ。
ついさっき、バアちゃんが危ないと親父が知らせに来た。実家へ向かおうと立ち上がり、一度ケイのほうを見た。ケイは三日前の晩の勢もすっかり失せて、あれから寝床でぐったりしたままだ。空腹がもう限界に近いのかもしれない。食い物は昨夜の汁でとうとう尽きていた。だが空腹であるのはセツも同じだ。腹を空かせていない者など、この村にはいないのである。
結局ケイを置いて実家に来た。だが家のまえまで来て急にケイが気になり、セツは親父を家へ向かわせた。母親もついていった。二人とも驚くほど痩せていた。実家も食い物はねえのだ、セツは思った。
寝床に仰向けになったバアちゃんはかすかに息をしているだけだった。近くで見なければこと切れているようにしか見えない。セツはそばに座った。
見下ろすバアちゃんの顔は皺があまりに多くて元の顔はまったくわからない。自分も、とふと思った。自分も、長生きすればじきにこういう顔になるのだろうか。だがこんなに長生する自分を想像することができない。この冬を越すことすらできる気がしないのである。
そばに座りながらセツは何も話しかけない。そっとバアちゃんの手に触れた。もう冷たくなっている気がした。
するとバアちゃんがふっと大きく息をした。
そして言った。
「セツ」
絞り出すような声である。
「ああ、バアちゃん」
思わず手を握りしめた。
バアちゃんは何も言わない。だがセツにはわかる。バアちゃんは何か言おうとしている。ただもう命も残りわずかで、一つ一つの動作に恐ろしく時間がかかる、それだけだ。セツは辛抱強く待った。待つのには慣れている。
やがてバアちゃんは口を動かした。まったく聞こえない。セツは耳をその口元に近づけた。ようやく聞こえたが、断片的でしかなかった。
「森の口」
「鹿の肉」
「ナタ」
「焼いて」
「食った」
「ぎらぎらした目」
「騒ぎ声」
「松明」
「神隠し」
「あれもだ」
「子供をナタで」
そういうことを言った。聞き取れない言葉もあった。ぽつりぽつりと言うので、前後のつながりもわからない。バアちゃんは時間をかけてこれらの言葉を喋ったため、まだ何か言うのではと、セツはそのあとも耳を近づけたままでいた。身重のセツにその姿勢はこたえたが、バアちゃんの死が間近であることはもう間違いないように思われた。遺言を聞き漏らすまいと、セツはしばらくそうしていた。
「祭」
もう何も喋らないか。そう思って耳を離そうとした時、ふいにバアちゃんが言った。セツは思わず聞き返した。
「バアちゃん、今、祭って」
バアちゃんは唇をわずかに動かして、
「祭が、また」
確かに言った。
「逃げろ」
そして、
「お里へ」
それが最後の言葉だった。握った手に、一瞬、力が込められたかと思うと、ふっとそれが抜けた。セツははっとして肩を揺すった。だが何の反応も返ってはこない。
バアちゃんが、死んだ。
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