第24話「悪鬼」

 死んでいるタキの肩に触れた時のように、セツは固まっていた。

「――聞いてるのか、お里へ行くことになったぞ、わしと松とで」

 もう一度五平が言って、セツはようやく我に返った。

「お里へ? 何で 」

 そう聞き返すのが精一杯だった。セツは五平の顔を見ながら、頭の内では、丸平のことを思い浮かべていた。村の禁を破ってお里へ下ろうとし、丸太で足を叩き潰された丸平のことを。

「とにかくそうと決まったのだ、だめだという奴もおったが、行けというのが大勢だったから」

 早口に言い、

「皆で行くわけにもいかんから、わしら二人だけで」

 そこまで言うと土間に視線を落とした。

 それを見てセツははっとした。今の様子では、五平も気乗りしないのだ。皆に行けと言われて、しかたなしに行くのである。五平が不憫に思えた。

「けど、しょうがねえのだ、わしらは若えほうだし、丈夫だと皆も言うし」

 嘘だ、とセツは思った。

 五平もわかっているはずだ。村は例の噂に冒されている。お使いを殺された神様がひどくお怒りだ、森へ入れば殺される。誰もが本気でそう信じているのである。それにお里へたどり着けるわけがない。お里がどこにあるかなど誰一人知らない。そもそも道らしい道もない。お里の連中は来る道を知っているが、村の者は行く道をまったく知らないのである。みすみす死ににいくようなものだった。そうとわかっているから、五平と松っちゃんの二人に行かせるのだ。真っ白の鹿を狩った張本人のこの二人に。

 これじゃまるでいけにえじゃねえか。

 セツはかっとしたものを覚えた。だが何に対してなのか、わからない。五平に行けと遠回しに迫った男たちだろうか、噂を言い始めた者たちだろうか。あるいは慈悲のない神様だろうか。

 怒りのために、にわかに体が熱くなった。狭い家の中をせわしなく動きまわり仕度している五平の姿が、どうもぼやけて見える。セツは泣いていた。自分の涙に気づいた途端、馬鹿にすんじゃねえ! と叫びが口をついて出た。

 驚いて五平が振り返る。隅の床で横になっていたケイも目を開けて土間に立つセツを見ている。窓や戸板の隙間から差し込むわずかな明かりに光るセツの涙を認めて、五平がふっと息をついた。

「しかたねえのだ」

 セツの足元にしばらく視線を向けたあと、五平は仕度を再開した。誰も喋らない。セツは叫び声をあげたことで、張りつめた何かが途切れた気がした。その場にしゃがみこみ、膝の上に重ねた腕の間に顔をうずめた。目を閉じる。五平の仕度の音だけが聞こえる。

 ふいに音が消えた気がして、セツは目を開けた。自分の膝に触れんばかりの距離に、五平の足が立っていた。

「行ってくる」

 セツは顔を上げなかった。目のまえの、嫁いだ頃よりいくらか細くなった五平の足が、さっきみたいにぼやけてきて、また顔を腕の間にうずめた。

 草鞋が土間を摺る音がして、斜めに遠ざかり、戸が開いた。だが閉まる音はしない。背中に五平の視線が痛いほど感じられる。顔は上げなかった。

 やがて戸が閉められた。足音は聞こえない。五平はまだそこにいる。だがセツはやはり顔を上げない。またふっと息をつくのが聞こえたかと思うと、草鞋の音が遠ざかっていた。

 セツは顔を伏せたまま、声を押し殺して泣いた。足音はもう聞こえなかった。



 目からようやく涙が引いた。セツは鼻をすすり目元をこすりながら、顔を上げた。

 寝床から出たケイがセツのまえに立っていた。

「お父ちゃんが森に入ったら、神様が……」

 ケイもあの噂を知っていたらしい。五平が心配になったのだ。

「きっと大丈夫だから。お父ちゃんは殺したりしてねえさ」

 立ち上がって言った。嘘ではなかった。殺したのは松っちゃんなのだから。

 だがケイは、

「はじめに矢を当てたのはお父ちゃんじゃねえか、それじゃあ、殺したのとおんなじだ」

 白鹿の肉を持ち帰ったあの晩に五平が言ったことを、しっかり覚えているらしい。

「おんなじじゃねえぞ、とどめを刺したわけじゃねえのだから」

 セツはそう言うほかなかったが、

「お父ちゃんが神様を怒らせたからだ、玄平が死んだのも、こんなに早く冬が来たのも、お父ちゃんが殺したからだぞ」

 などと言うのである。

 セツは胸を衝かれた。ケイは五平を心配しているわけではなかったのだ。五平を悪く言いたいのである。五平のせいで玄平が死に、寒さが厳しくなったと言いたいのである。

 自分の父親をそんなふうに言うとは……とセツは腹が立ってきて、

「馬鹿言うな、そんなこと、二度と言うな!」

 ケイを怒鳴りつけた。普段声を荒らげることなどないセツがそう言ったのだから凄い剣幕である。ケイも度肝を抜かれたのか大人しくなった。だが目だけは違った。矢でも射るようにセツを睨みつけている。その目を見て「こんな奴だったか? ケイはこんな奴だったのか?」 とセツはすっかり勢が抜けてしまった。

 ケイは睨みつけるのをやめない。悪鬼のような目である。かつての快活さはまったくなかった。

 食い物だ。セツは思った。

 すべて食い物がねえのが悪いのだ。腹が減るだけで、ケイでさえこんなふうになっちまう。同じ村の連中が五平らに罪をなすりつけるような真似を平気でするようになっちまう。夜の森で子供にナタを振り下ろしたり、腹を痛めて生んだ子をその日に捨てるなどということまで、できるように。

 セツはわけのわからない悔しさを覚えた。ケイを見る。変わらぬ目つきで自分を見ていた。

「ケイが、あの優しいケイが、こんな目つきになっちまって……」

 セツはまた涙が出てきた。うつむいて袖で顔を隠すようにして泣く。その自分を、ケイが同じ目つきのまま睨みつけているのが、セツにはどうしてかはっきり感じられてわかった。

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