第23話「風説」
その年、冬の到来は早かった。あまりの早さに誰もが驚き、打ちひしがれた。家々の食い物は、いよいよ底が見え始めていた。
男たちは不安と空腹を背負い、足を半ばふらつかせながら、毎日のように森へ入った。だが獲物など期待していない。冬越えは村の一番の悩みであるが、備えて何か手を打つ者など一人もなかった。唯一の望みはお里である。お里からの男たち、というより連中が背板に載せて運んでくる米を待つこと。それだけだ。
今まではそれでよかった。米の量が目を疑うほど少ない年もあった。信じられぬほど来るのが遅れた年もあった。だがやってこない年はなかった。待ちさえすればいつかは来る、村の者たちはそう信じていた。
だが来ないのである。今年はまだ来ないのだ。まえの冬も遅かった。今年もそうかもしれない。しかしこの寒さである。まだ暦の上では秋。にもかかわらず空気は今にも雪が降り出しそうなほどに冷えきっている。雪が降ればお里から上がってくることはできない。森へ猟に行くこともできなくなる。毎年その危険に怯えているはずなのに、ではどうすればいいのか、誰もわからないのだ。
五平も森へ入った。もちろん獲物がとれるとは思っていない。弓は一応携えていくが、外気に触れる手を休みなくさすって温めなければならず、構える暇もない。手が凍えてしまいそうになるのだ。
森へ入る男たちは日を追うごとに減っていった。ほんのわずか残っていた惰性が、諦めに屈したのである。五平も屈した頃、森へ出かけるのは徳三の家の豪太とほか数名だけになっていた。
五平の行動とは無関係にセツの家でも食い物がなくなってきた。汁物の食材も残りわずかだ。どの家も同じことだろう。無事に冬を越せる家はどれだけあるだろうか。すでに死人が出た家もあるかもしれない。実家のバアちゃんは大丈夫だろうか。
ある晩の飯どきだった。セツはいつものとおり、いや、だんだん少なくなり、ゆうべよりさらにみすぼらしくなった汁物をそれぞれのお椀によそった。義母のタキにはもうずいぶん飯を食わせていない。タキは隅の寝床で横になったまま動かない。今朝はまだ息をしていた。だが長くはないだろう。まえに汁の入った椀を口許へ運んだら、五平にそれを止められた。実の息子が、母に飯を食わせるなというのである。
そのことをふいに思い出してセツは、どうしようもなくタキが哀れに思えた。
「なあ、おばあやんに」
汁をよそった椀を五平に突き出す。五平は何も言わない。うつむいて自分の椀を眺めているだけだ。
腕を引っ込めてセツは膝立ちでタキの枕元へ行った。こちらに背を向けて横たわった体が薄く小さな綿入れにすっぽり収まっている。息をのむほどに小さく見えた。土から抜けて倒れひからびたゼンマイに何かの枯葉がかぶさっているようだとセツは思った。
肩に手をかける。はっとした。冷たい。空気の冷たさとはどこか違う。
思わず放した手のひらに残った感触は、驚くほど硬かった。
タキはぽっかり口を開けたままぴくりとも動かない。
後ろの五平が汁をすする音が妙に耳に響いた。
タキの遺骸は五平が埋めた。山の斜面にぽつぽつと並ぶ家々のちょうど、中段にある「徳三の家」の裏手を少し森のほうへ行ったところにある、村の墓地に。
動かぬタキをまえに固まるセツをよそに、五平はタキの死にまったく気づかぬようなそぶりで汁物をすすり続けていたが、ようやく食い終わると、
「しょうがねえ」
とだけ呟いたのだった。どうともとれる言い方で、何の感情も読みとれない。だがそれはセツの耳に妙にこびりついた。
同じ夜の、村中が寝静まった頃、背板にタキを縛りつけて五平は墓地へと下りていったのである。五平のうしろ姿を見送っているうち、セツには背板のタキがタキではなく、何か別のものに見えてきた。「あれは米俵ではないか?」などと馬鹿なことがふと、だが真に迫って、頭に浮かんだ。
その頃村では妙な噂が囁かれていた。誰もが不安と空腹に苛まれ、日がな家の中で押し黙ってはいたものの、それでも森へ行く者もわずかにいたし、便所に出た時に隣近所の者の姿を見つけて世間話になることも、まったくないわけではないのだった。
「森の獲物がいなくなったのは、これは神様の祟りだ」
セツもこんな噂を聞いた。どこで耳にしたか五平も知っていて、
「神様が森の獲物を、根こそぎ持っていってしまったらしいぞ」
などと大真面目に言うのである。そのうえ、
「あの、真っ白の鹿を殺して食っちまったからだ」
そんなことまで口にした。これも噂で聞いたらしい。
死んだ玄平が最後に口にした真っ白の鹿が、神様の使いだというのだ。そいつを村の皆して殺して食った。だから神様がえらく怒ってしまわれたのだという。五平だけでなく誰もが言っているのである。
やがて森に入る者がまったくいなくなった。五平が諦めてからも、村のまとめ役の豪太などはまだ森に入っていたが、結局行かなくなってしまった。村の人たちの考えでは、山と同様、森にも神様がいる。その神様がひどく怒っているのだ。怒らせたのは自分たち村の人間である。これ以上神様を怒らせれば命まで持っていかれる。「森に入ったら、とって食われちまうぞ」と言う者までいた。
噂がひととおり語られ尽くした頃、豪太の呼びかけで話し合いの場がもたれた。家々の代表の男たちが豪太のいる徳三の家に集まり、村人の共通の、そしてもっとも切実な悩みについて意見を交わすのである。もちろん五平も出かけていった。セツはどうも落ちつかない。どういうわけか、森で見た松明と子供とナタを思い出した。
いつまでも帰らぬ五平をセツは待つともなく待っていた。というより、眠ろうとしても眠れなかった。そこへ五平が帰ってきた。セツの目を、しばらく見たあと、言った。
「――お里へ行くことになったぞ」
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