第22話「汚泥」
セツは五平と向かい合っている。森の中ではなかった。自分たちの家のすぐ裏、便所の陰である。二人は森をあとにしたのだった。ナタを降り下ろされた、筵に巻かれた子供がどうなったか、セツにはわかっている。目のまえに立つ五平だってそうに違いない。しかしなぜあの子がそんなことをされねばならないのか、あの男がしなければならないのか、それがわからない。五平はわかっているのだろうか。
五平は何も言わない。セツを睨んでいるだけだ。目には怒りが滲んでいる。セツの無事に安堵しているふうでは、まったくない。なぜあんなところへ、そういう非難の色が目から溢れていた。
ふいに五平が背を見せて家に戻ろうとした。セツは思わず手をのばし肩をつかんだ。
「ちょっと、さっきのあれは何――」
振り返った五平の顔に、セツは続きを呑み込んだ。すごい剣幕だった。相手に物言わせぬ凄みと、別の何かが、顔の上で混ざり合った凄まじい表情である。
セツが呑み込んだ言葉をさらに喉の奥に押し込むように、五平は重々しく言った。
「おらたちは何も見てねえ、いいな」
返事も確かめず肩の手を振りほどいて五平は家の戸口へ行ってしまった。一人残されたセツはしばらく立ち尽くしていた。頭にはたった今目にした五平の顔だけが浮かんでいる。すっと、合点がいった感じがした。諦めだ。セツは思った。五平の顔に表れていた、凄みとは別の何か、あれは諦めだ。五平は諦めたのだ、すべてを。そういう人間だけに差しかかる暗い影を、セツは感じとったのである。
セツはその場にへたりこみたくなった。立っているのもつらい。思い出すのも嫌な夢、予期せず目にした森での出来事、頭から離れぬ五平の表情。疲れてはいた。だが今セツを冒しているのは疲労ではなかった。それは諦めだった。自分の顔にも、五平と同じ深い諦めの影が差していることだろう。
一度だけ村を見下ろし森の口を眺めたあと、セツは膝をおさえて一歩ずつ、のろのろと家の戸口に向かった。五平はとっくに寝床で横になっているに違いない。セツもそうしようと思った。
おらはあの子を守る――。
森で胸に決めたはずの思いは、いつの間にか消えていた。
セツはそのことにすら気づいていない。
吹く風はもう肌に痛い。村を囲う山の木々の大半はすっかり葉を落とし、一年じゅう豊かな杉やモミの木と、緑と茶色のまだら模様を作っている。横じまのように二色が分かれているところもある。冬が、迫っていた。
二色の段だら模様を遠くに見下ろしながら、セツはこの半月ばかりのうちに一気に冷え込んだ山の空気に体をなぶられていた。
あの晩から五平とはほとんど口を利いていない。珍しいことではなかった。いつでも食い物のことが頭にちらつく貧しい村である。とりたてて話題にあげるほどの出来事など滅多に起こらない。話すこともない。元気なのは子供ぐらいだ。大人はいつも食い物のこと、冬越えのことを考えている。心配ごとを持たぬ、子供が村に活気を与えているのである。
だがその子供たちの快活な笑い声も絶えて久しい。セツはずいぶん聞いていないとふいに思い、まえに耳にしたのはいつ、どこのどいつの声だったか思い出そうとして、虚しくなった。同じ屋根のもと暮らしているはずのケイの笑い声すら、いつ聞いたか思い出せなかったのだ。ケイは近頃、いやもう長らく、言葉らしい言葉を発していない。膳、とも呼べぬ寂しい食事――わずかに残されたとうもろこし、粟、稗を煮ただけの汁物である――をすする音以外に、音らしい音を立てない。生きたまま死んでいるようだとセツは思う。
タキに至っては寝床から這い出てすらこない。寝ているところへ汁の椀を持っていこうとしたセツをある晩五平が制した。椀を持つセツの腕をつかみ、ぐぐぐと顔へ押して向けた。お前が食え、と言うのである。腹の子を気づかう五平のその優しさに、セツは何も感じなかった。五平の顔にはあの、森から逃げ帰った夜便所の陰で見た諦めが貼りついたままだ。同じく貼りついていた怒りはどこかへ消えてしまった。
いや、怒りはまだくすぶっているはずだ。怒りは決して消えない。怒りには形がない。形を与えるのにはある種の燃料――燃し木が要る。体力である。栄養である。これがいよいよ底をつけば、怒りは形を成すことができない。沼の底にでも沈むように、心の奥にしまいこまれる。だが消えはしない。溜まるだけだ。ずっと前の怒り、少し前の怒り、ゆうべの怒り、たった今の怒り……そうやって怒りは心の沼の底に澱を作っていく。やがて何に対する怒りか、もはやわからぬごちゃまぜの熱を持った汚泥が、火山のように噴火を待つだけだ。五平だけでなく、セツの中にもそれはある。村のすべての大人たち、今となっては子供でさえ、噴出の機を窺う薄暗い感情の澱を胸の底に抱えていた。
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