第21話「狩人の目」
二本の松明が少しずつ大きくなってきた。
セツは松明を見据えながらまえのめりに歩いている。
あの子を守る。
顔は見えないが、元太の伜と決めつけてしまった男の子を、絶対に助けてやるぞとセツは肚に決めているのだ。
木々のあいだを風が渡り、頬をなぶる。冬の到来はまだだというのに、真冬の冷たさだ。セツの鼻は真っ赤になっている。
だがセツはそんなことに気づきもしないのである。あの子を守るのだ。セツの頭に元太の伜の顔はもうなかった。あるのは我が子だ。かつて腹に宿し、苦痛に耐えて産み、一度も腕に抱くことなく見捨てた子である。あの時セツは諦めたのだった。今回は違う。救うのだ。おらが助けるのだ。親父が森へ捨てた我が子の顔をセツは一度も見ていない。それでもセツの頭には我が子の顔がはっきりと浮かんでいた。セツの足は止まらない。
松明はどんどん大きくなる。掲げている二人の男の顔が灯りに照らされている。だが風で揺らめく松明の灯りでは男たちの顔ははっきりしない。見えそうで見えない。
ふいに風が凪いだ。揺れていた松明の火が安定した。次の瞬間には一段と強く吹くはずだ。だがセツの目はその瞬間を逃さなかった。セツの足が止まった。
松明を手に足元の子供を見下ろしている一人は、豪太だった。間違いない。徳三の家の家長だ。死んだ徳婆を継いだ、村のまとめ役である。一体豪太が、こんなところで何をしているのだ。足を止めたセツの口と腹を、背後からすっと伸びた手が捕らえた。
心臓が口から飛び出そうになった。だが心臓どころか声さえ出ない。口は大きな手のひらでしっかり封じられていた。腹と胸のあいだに伸びる太い腕は、腹の子を気にするように遠慮がちにまわされている。鼓動は信じられないほど速く打っているが、不思議と恐怖はすぐ収まった。耳元でこう囁かれたからだ。「おらだ、五平だ、やめとけ」
セツは首だけ回して振り返った。五平と目が合う。五平が頷いて言った。
「ちょっと落ち着け、こっち来い」
口を封じられたままのセツの返事を待たず、抱きかかえるようにして脇の大木の陰に引きずった。口から手を離して、セツをじっと見る。セツも睨み返すように五平を見つめた。
「帰るぞ」
セツは耳を疑った。あの子を放っておけるわけがない。五平をきつく睨んだ。
「おらたちは何にも見てねえのだ、な」
五平がセツの両肩をつかんだ。痛いくらいである。五平が本気で言っているのだとわかった。
「何でだ、どうして。おらはあの子を――」
肩をつかむ手に力が込められ、セツは痛みに顔を歪めた。憤りに驚きが勝って、セツは思わず口をつぐんだ。そのセツに五平はただ一度大きく頷いた。何も言うな、と目が語っていた。
五平の目がセツを射抜いている。森を吹き渡る冷たい風にも、薄くなった五平の前髪は動かない。脂でぴったりとおでこに貼りついている。村の男は誰でもそうだった。顔など誰も洗わないのだ。今日を生き延びることができるかどうかの瀬戸際にある人間は、顔にたまった脂など気にしない。そんな余裕は誰にもないのである。セツの顔も、年頃の女にしては不憫なほどに汚れていた。セツはそれを気にしたことも、気にされて誰かに言われたこともなかった。
セツは五平をじっと見返したまま、何も言えず黙っていた。普段温厚な五平が見せたことのない様子だ。ただごとじゃねえ、と今さらながら思った。
五平が無言のまま、首を横にひねり顎を出した。森の口の方角だ。村へ戻るぞと言うのである。目はセツの目に合わせたままだった。獲物を絶対に逃がしまいとする狩人の目のようだとセツは思った。喉がからからになっている。体の奥からせり上がってきた唾を呑み込んでから、五平に頷いた。五平はセツを見つめたままゆっくり立ち上がる。セツもあわせて腰を上げた。腹がいつもより重く感じられた。
ふいに五平の目が動いた。帰るのと反対の、松明のほうを見たのだ。つられてセツもそちらを見た。子供を肩に担いできた男の一人が、勢いよく何か振り上げたのが見えた。
ナタだ、とセツは思った。別の男が掲げる松明の灯りはそれを照らしてはいない。だがセツにはわかった。村であんなふうに振り上げる物はナタしかない。丸太は両手で握られる。まえに寡黙な丸平が禁を破ってお里へ下ろうとした時、奴の足を潰そうと男たちが丸太を振り上げた。セツはその光景を思い出した。口の中に苦いものが広がった気がした。あんなふうに片手で振り上げ、肩をいからし引きつけて振るうのは、ナタだけだった。ナタは松明の灯りもまったく反射していない。
五平がはっとして、覆いかぶさるようにセツの肩に腕をまわした。強い力が肩と首にかかり、セツは腕の力に逆らえず森の口のほうへ体ごと向いた。背にした向こうでは何の音もしない。だがわかっていた。ナタは今、振り下ろされたのだ。地面に転がされた筵巻きの子供に向かって。セツには信じられなかった。そこで起こっていることよりも、冷静にそれを想像している自分が信じられず、恐ろしかった。
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