第20話「悔恨」

 火の玉がゆっくりと森の奥へ吸い込まれていく。

 一つではなかった。火の玉は二つ、少し間を開けて奥へ奥へ漂いながら遠ざかっている。

 セツは手に冷たいブナの幹の陰から身を起こし、追いかけて森に入った。頭の半分は醒めていて、もう半分は何かに憑かれ、冒されているような感じがしていた。

 バアちゃんも十五、六のある晩、同じように火の玉を追いかけたのだ。セツは醒めた半分の頭で自分にそう言い聞かせた。

 森は暗かった。だがしばらくは道がわかる。森の口からすぐのあたりは、村の子供たちの貴重な遊び場だ。セツもよく遊んだ。体が覚えていた。道は、わかる。同じことをしたバアちゃんの話を聞いていたから勇気づけられていた。

 火の玉はゆっくりと進んでいるが、けっして止まらない。淡々と森の奥へ向かっていく。

 かなり奥まできた。セツは怖くてしかたなかった。もうこの辺りは、体に染みついた場所ではなかった。火の玉はまだ奥へ進んでいる。バアちゃんが諦めて引き返したのも、きっとこの辺りだった。

「神様を、見たのだぞ」二人きりのあの晩、バアちゃんはそう言ったのだった。

「誰にも言うじゃねえぞ、おらは、神様を見たのだ」セツが思わず目を開け見つめたバアちゃんの目は、真剣そのものだった。どんな神様だったか、セツは聞いた。「人間みてえなお姿だった」バアちゃんは言った。

 だが暗くてはっきりとは見えなかったはずだ。火の玉はぼんやりと遠い。セツにはまだ火の玉しか見えない。バアちゃんはもっと近づいたのだろう。それでもこの深く暗い森の中では、何かの姿がはっきり見えることなどないはずである。

 セツは歩を速めた。走ることはできない。腹はもう大きかった。セツは片方の手をしっかりそこに当てていた。足元の道はもうわからない。だが不思議と蹴つまずくことはなかった。忘れているだけで、子供の頃こっちのほうまで来たことがあったのかもしれない。

 火の玉が少し近くなった。セツは追い続けた。火の玉との距離が縮まっていく。

 ふと、セツは気づいた。あれは。

 あれは、火の玉なんかじゃねえ。松明じゃねえか? 

 バアちゃんが見たのは、神様なんかじゃなく、人間……村の人間なんじゃねえか?


 

 森の中、セツの吐く息は白い。

 松明を掲げた者たちは、森の口からだいぶ奥に入った、少しだけ開けた場所で、止まった。

 火の玉ではなかった。松明だったのだ。顔はよく見えないが、着ているぼろ布で村の者と知れた。

 女もいるらしかった。人間たちは列になっていた。列の一番まえとうしろを、松明を持った男が挟んでいる。あいだには三人ばかりいた。一人は女で、その後ろの男二人が、丸太でも運ぶように肩に何か担いでいる。森の口でそうしたように、セツが手近な木の幹に隠れて目を凝らしていると、男たちは担いでいた荷を下ろした。

「あっ」

 セツは小さくそう漏らした。口から思わず出てしまったのだ。吹き抜ける風に木々の葉が揺れて森全体がざわめいているし、離れているから、幸い聞こえはしなかったらしい。セツは空いた手で口を押さえた。そうしないと耐えられなかった。手は小さく震えていた。

 地面に置かれたのは人間だった。筵でぐるりと巻かれ縄で縛られた、子供である。セツは元太の伜だと思った。ちょうど背中がこちらを向いていて、顔は見えない。だが背丈と後ろ髪の感じは、男の子だ。あれは元太の伜に違いない、そう思った。

 家のまえから村を見下ろし、動くものが目に入った時に抱いた、あの嫌な感覚が急に膨らみ始めた。今すぐ引き返したい。

 しゃがんだままうしろを向いて、来た道を戻ろうとした時、ふいにバアちゃんの言葉が浮かんだ。あの晩に、聞いたものだ。

「あれは、神様だった。だけど、途中で引き返したよ、人の姿をした神様が森で何をしてたのか考えたら、恐ろしくなって」

「恐ろしい、何が」

 セツが聞き、バアちゃんは答えた。

「わしは神様が村から森へ入っていくのを見た。何か抱えてた。子供だ。神隠しだったのだ。見つかったら、きっと、わしまで」

 声が震えているのに気づいてセツが見ると、バアちゃんは泣いていた。セツはそれで怖くなって、その晩いつまでも眠れなかったのだ。

 だが今わかった。バアちゃんはあの時、恐ろしくて泣いていたのではない。

 苦しそうな顔だった。恐怖に歪んでいる顔ではなかった。あれは、悔やんでいたのだ。神様に連れていかれる子供を見捨てて逃げ帰った自分を、責めていたのだ。

 おらは――。

 セツは目を閉じ、胸に手を当てて、深く息を吸い込んだ。胸が膨らみ、萎む。

 しんと冷えた森の空気が、体の中を冷ましていく。目が覚めた気がした。さっきまでの嫌な、まとわりつくような重苦しい感覚は消えていた。

 あれは、あの感覚は、「後悔」だったのだ。いつか、豪太に呼ばれ徳三の家に出かけた親父の帰りを待っている間に、気づきかけた何か。母親の、不安と怒りの混じった目の中に見失った何か。セツはそれが何だったのか、はっきりとわかった。

 もう見捨てたりしねえ。

 おらは、あの子を守る。

 大きく吸った息をゆっくり吐き出し、目を開けた。

 胸に当てていた手をずらし、腹に置く。

 揺らめく二本の松明に向かって、セツは歩き出した。

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