第19話「予感」

 野良仕事の手を止めて、セツはぼんやりと村を見下ろしている。

 あれから元太の嫁は時折、発作のように気狂いになって叫び散らした。喚き立てながら自分の家のまえを行ったり来たりするのである。そのたびに、元太が嫁の口を押さえて家の中へ連れ戻した。丈夫だった元太もくたびれ果て、すっかり腑抜けてしまった。

 元太の嫁の、あの甲高い叫び声を聞くとセツは胸を締めつけられるような息苦しさを覚えた。野良仕事をしていても、飯の仕度をしていても、あの声が耳に入ると胸が苦しく、何も考えられなくなるのだ。

「あんまり気にしたって、元太の伜が戻ってくるわけじゃねえのだし」

 そう言って笑う五平は、もう元太の家のことなど気にもしていないらしい。神隠しは神様のやることである。どうしようもないのだ。だが一度起きてしまえば当分は起きない。よその家は安心していい。

 前の年に続いて起こるなど大変におかしなことで、誰もがそう思っているはずである。それでも、神様の為すことではどうしようもない。「しかたがない」と諦めるよりほかないのだ。

 五平はそれをよく承知していて、セツにもわかってほしいと思っているのである。だがセツには五平の言葉は聞こえず、うわの空で腹をさするばかりだった。

 ある晩、セツはうっかり五平の膳をひっくり返してしまった。この頃セツはますます惚けて、元太の嫁が騒いだりしなくてもいつでもぼけっとしていた。

 五平はさすがに腹を立て、

「おい、いい加減にしねえか! いつまでそうやって!」

 殴りつける勢いである。五平の真向かいにいたケイが、自分が怒られたかのようにうつむいた。だが当のセツはまったく気にしていないのである。五平を見もしないで膳を片づけようとした。

 だが突然その手を止め、自分の腹に当て、

「おらは、この子を育ててやりてえ」

 涙声で言った。五平はきょとんとした顔で見ていたが、セツは、

「おらはこの子を、育ててえ」

 追いすがるように言う。五平が慌てて、

「そうは言うけんど、バアちゃんも達者だし、ケイもこれから食いっ盛りに」

 言いくるめるようとしたが、

「それでもおらは、育ててえよお」

 しまいには涙をこぼしながら叫ぶので、五平も気圧されて何も言えなくなってしまい、いかにも困ったというふうに腕を組み、黙り込んだ。

 セツも押し黙り、二人は、「腹の子をどうするか」と話し合いもしなかった。だがセツはもう決めていたのだ。

「おらは、この子を」

 何が何でも育てると、決めてしまったのである。五平がどう考えているか、わざわざ聞かずともセツにはわかっていた。だが自分が決めてしまえば、もうそれでいいのだと思った。この子は自分の腹の中にいる。産むのはほかでもない、自分なのだ。

「森になど、絶対捨てさせねえ」

 そう思うと、ぼけっとなどしていられない。セツは翌日からまた野良仕事に、飯の仕度に、精を出すようになった。



 何日か経った夜だった。

 セツは真夜中に突然目を覚ました。嫌な夢を見たのだ。暗い森を歩いていて、夢中で何かを追いかけ、崖から落ちた。底のない奈落へ落ち込んでいくようだった。飛び起きると顔も体も、べっとり汗を掻いていた。

 そっと寝床から這い出て、戸を開けて外に出た。夜風に当たりたかった。

満月が空に明るい。月に向かって伸びるお山さんの頂きを眺めた。ふいに仁太が思い出された。久しく浮かんでこなかった顔だ。腹が痛んだ気がした。

 何とはなしに、村を見下ろした。何かの気配を感じたように思えた。セツは目を細めて視線を下へ下へ這わせていく。かつて仁太と暮らした村の一番下の空き家のすぐ先で、動く何かが目についた。獣だろうか。よく見えない。森の口へ向かうようだ。セツは何となく嫌な予感がしたが、足が勝手に動いた。村の中央を走る一本道を音も立てず足早に下りた。道沿いの家々の者はいずれも深い眠りの中にいるらしい。まえを通り過ぎる時、どの家からも一切声が聞こえなかった。

 森の口までたどりつき、門柱じみた太いブナの片方の幹の陰から森の中を覗いてみた。だが何が見えるとも思わなかった。山の森は広く、そして深い。まん丸の月と満天の星々が投げかける光も、まだ葉を落とさぬブナや欅や榎、それに一年じゅう葉の茂るモミや檜の群生に阻まれて森の中までは届かないのだ。しかしセツがブナの冷えた幹に手を添えながら見据えた先には、ぼんやりとだが、確かに光るものがあった。セツはそれを、火の玉と思った。

 十年近くまえだったかもしれない。セツはバアちゃんに聞いた話のせいで眠れなかったことがある。あまりに怖かったからだ。何かの用で両親が家を空けたその晩、子守唄がわりにバアちゃんが寝床でいろんな話を聞かせてくれた。普段もの静かなバアちゃんがいつになく喋るのでセツは無性に嬉しかった。夢中になって聞いた。小さく貧しい、何の娯楽もない村である。夜は早く、誰もが夕飯まえには家に戻る。家人の誰かを欠いた晩などセツは初めてだった。不思議と胸が弾んだ。バアちゃんもそうだったに違いない。それぐらいバアちゃんは休みなく喋り続けた。

 幼いセツには覚えきれぬほど長い時間語ったあと、ふっと、バアちゃんが小声になった。家には二人しかいないのに、内緒話でもするようである。眠気も手伝い飽きかけていたセツは急にわくわくした。バアちゃんはセツの片耳に触れるほど口を近づけてぼそぼそと語り出した。セツも、目を閉じ片耳を突き出して聞き入った。一度本当にバアちゃんの唇が耳の端に触れた。十五、六の頃の体験だと前置きしてバアちゃんが話し始めたのは、今、セツが目にしているのと同じ――真夜中の暗い森の中に、ぼんやり浮かぶ火の玉のことだった。

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