第17話「安堵と覚悟」

 五平はよく働いた。くたくたになって猟から帰ったあとも、野良仕事までこなしていた。

 暖かい日が続いたためか、森で獲物を見つけることも多くなってきた。猟の腕がいい五平は、持ち帰る分けまえも多かった。まえに正吉が仕留めた大物ほどではないにしろ、鹿も野うさぎも実によく仕留めた。

 それでも家に五人もいるとなれば食い物は十分ではない。セツは冬越えのことを考えると、「腹の子は、今度もまた森へ……」と胸の張り裂ける思いだった。腹の子を育てたいと、強く願っていたのである。まえに仁太との子を身ごもった時よりも、その思いは強かった。セツは子を育てたことがない。だが五平の家に来て、死んだ嫁の子ではあったが、まだ十歳にもならないケイや玄平と暮らすうちに母性が膨らんできたのである。

 強い風が夜明けまえから吹いていたある日、玄平が寝込んだ。

 もともと痩せこけていた玄平はしょっちゅう咳込んでいた。それを知っている五平は「たいしたこたあねえ」と呑気に猟に行ってしまった。だがセツは何となく落ち着かない。ケイに玄平の面倒を任せて野良仕事をしていても、玄平のケホッケホッと乾いた咳が聞こえてくる気がして集中できないのである。しまいには途中で家に戻ってきてしまった。

 玄平の掠れた咳は一日中続いた。猟から帰ってきた五平に、

「玄平が、玄平が」

 セツは言ったが、

「馬鹿、たいしたこたあねえって、いつだって咳込んでるのだから」

 と呑気なものである。今にも泣き崩れそうなセツを困った顔で眺めながら、

「そんなら、お山さんの神様にどうにかしてもらうしか、ねえんじゃねえか?」

 この場合、五平の言うことは正しかった。身内が病気になっても、家人にしてやれることなどほとんどない。せいぜい、飯をいつもより食わせてやるぐらいで、あとはお山さんの神様に拝むほかないのである。

 飯を食わせるといっても、お里から届けられる米はぎりぎり冬を越せるかどうかの量だ。よくよくの重病人でもなければ、余分に食わせることなどできない。だから病人が出ても、実際にしてやれることは、お山さんの神様に拝むことぐらいなのである。

 セツはその晩、つきっきりで玄平の胸をさすってやった。

 セツのそばでは、タキがセツの真似をして自分の胸をさすっていた。この頃タキはますます言動がおかしい。だがじきに眠ってしまった。五平は普段どおり床につき、ケイは、心配そうに玄平のそばに座っていたが、やがて眠りに落ちた。セツだけは一睡もしないで、玄平を見守っていた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。セツが目を覚ました時、家の者はまだ皆寝ていた。玄平もひとまず咳が収まったのか、静かに寝息を立てている。セツは安堵した。

 便所に行こうと、皆を起こさぬようそっと外に出た。お日様は見えなかった。雲のせいではない。夜が明けていないだけだった。遠くの空には、月に照らされたお山さんの頂きが、ぼんやりと浮かんでいる。

 セツは便所の用も忘れて、

「どうか玄平を、どうか、玄平を」

 霞む頂きに手を合わせて、そうくり返した。


 

 夜が明けた。玄平はまた咳き込み始めた。だが五平は今日も変わらず猟に出かけようとしている。

 セツはその五平に、

「あの、あんたも、お山さんの神様に」

 玄平のことをお祈りするように頼んでみたものの、

「たいしたことねえって、平気だから」

 五平はやはり心配もしていないのである。

 五平が森へ出かけたあと、セツは五平の分までそうするように、

「玄平を、どうかお助けくだせえ」

 もう一度お山さんの頂きに拝んだ。昨晩そうした時より、頂きの姿ははっきりと眺められた。玄平はきっと大丈夫だ、セツは思った。

 

 

 だが何日経っても、玄平は持ち直さなかった。床に臥せたままで、今にも消え入りそうな、弱々しい咳をくり返した。そのうち飯も食わなくなり、これまでだって痩せこけていたのに、

「まだ痩せるか!」と家の者も驚嘆するほどにがりがりの姿は、骨と皮だけの年寄りのようである。

 セツは毎日お山さんの神様に祈った。夜どおし、玄平の世話をした。おかげで衰弱して、自分まで倒れてしまいそうになった。いっこうに良くならない玄平が心配らしく、ケイまで飯を食わなくなった。

 すっかり病人じみてきたセツとケイを見て、さすがに五平も、

「あんまり根つめて、おめえたちまで病気になったら」

 などと心配した。これは玄平ではなく、セツとケイのことを気にしているらしい。五平にとっては、一人目の子供であるケイや、後添えのセツまでが具合を壊してしまっては馬鹿らしいことなのだ。だが結局、セツも病人と変わらぬほどに弱ってしまった。足腰が立たなくなり、家の中もまともに歩けなくなった。

 五平の家の者もセツの実家の者も、セツをえらく心配した。実家の親父と母親は毎日のようにやってきては、

「しばらく、暇をもらえばいいじゃねえか」

 実家に帰ってこい、とセツに言うのである。だがセツは聞く耳を持たなかった。というより、そんな声は耳にも入ってこないのだ。目のまえでは、十歳にもならない玄平が何日も咳き込み、苦しんでいるのである。五平などはもうすっかり諦め顔だった。ケイはよく手伝ってくれるが、まだ九つ足らずの娘で、気力も体力も十分ではない。無理はさせられないのだ。「自分だけが玄平の面倒を見てやれる」と気負い込んで、セツは一心不乱に玄平の面倒を見た。何かに取り憑かれたような迫力だった。セツは玄平と一緒に死んでいく肚をすっかり決めていたのだ。見かねた母親が五平に向かって、

「あんな、二人目のガキなど、弱っちいガキなど、どうしてでかくしたっ」

 目に涙をためて言い寄るほどだった。



 また何日か過ぎた。もう誰もが、玄平の死ぬのがすっかり決まったように諦めていた。だがセツだけは世話を止めなかった。

 五平が森から珍しい物を持ち帰ったのは、まったく風のない暖かい日だった。

 いつもは声も出さずにのっそり家に帰ってくる五平が、この日は息を切らせて躍り込むように入ってきた。

「えれえのが獲れたぞ! 雪みてえに真っ白の鹿だぞ!」

 仕留めたのは松っちゃんらしいが、姿を見つけてはじめに矢を射たのは五平だったという。

「わしが尻に当てたのだ、それで動きが鈍くなったのだ」

 目をぎらつかせて言う。よほど珍しい鹿なのである。雪を思わせる白い鹿など、セツは見たことも聞いたこともなかった。子供のようにはしゃぐ様子では、五平も同じらしい。

「お山さんの神様からの、お恵みじゃねえか?」

 ふと閃いてセツが言うと、

「わしもそう思った、きっとそうに違えねえぞ、こいつを食わせりゃ、玄平も」

 セツは嬉しかった。五平も神様のお恵みだと考えていたからではない。ほとんどはじめて、五平が玄平の身を案じる言葉を口にしたからだ。セツは涙ぐみながら土間へ行って飯の仕度を始めた。五平の持ち帰った、分けまえの鹿肉を小さく切って煮込んだ。

 一番大きな、といってもやはり小さ目の肉が入った汁を、セツは玄平のところへ持っていった。玄平は食うというより、汁だけを何とかすすった。鹿肉はお椀の汁に浮いたままである。唇へ押し当てるようにして食わせようとしたが、駄目だった。だがほんの少しであっても、玄平が汁をすすったので、

「これなら、鹿肉を食ったとおんなじだ」

 セツはほっとした。ありがたい鹿肉が溶け込んだ汁が効いたのか、玄平の咳は一時的に落ちつき、セツは久しぶりにぐっすり眠ることができた。

 


 朝になって目を覚ました時、セツはまだ夢の中にいるような心地だった。頭と体はまだ眠っているのに、目だけが先走って勝手に開いてしまったような感じがした。

 両肩を、五平がもの凄い力で揺すっているのに気がついた。五平の横にはケイがいて、何かに怒っているような目をして、黙ったままセツを見つめている。

 セツは目を丸くして、二人を交互に見た。

「玄平が死んだ」

 五平は絞り出すように呟いた。

「えっ」

 セツの口から、声にならない声が洩れた。瞬きもせずに五平を見つめたあと、セツは寝床から飛び起き、押し退けるように五平とケイの間を抜けて玄平にすり寄った。

 玄平は咳も、息もしていなかった。仰向けの姿、その顔は、眠っているだけのように見える。咳ばかりして苦しそうだった玄平が、今は安らいで見えるのだ。

 セツは玄平が死んだことが信じられず、確かめるように、玄平の顔に手を伸ばしかけた。 

「真っ白の鹿なんぞ、食ったからだ」

 ケイがいきなりそんなことを言い出した。泣き腫らした目を、睨みつけるように細めている。セツと五平が悪いのだと言いたいらしい。

 五平は呆気にとられた顔でケイを見ていたが、すぐ我に返り、

「馬鹿、お山さんの神様からのお恵みだったのだぞ」

 声を荒らげた。ケイはそれでも、

「お恵みじゃなくて、神様の、使いだったのじゃねえか? それなのに、殺して、食ったりしたから」

 まだ五平たちのせいだと言うのである。

 セツは言い争う二人など見向きもせず、さっき伸ばしかけた手を止めたまま、眠っているだけのような玄平の顔を見下ろしていた。ケイは興奮するばかりで、

「神様の使いを殺しちまったからだぞ!」

 お山さんの頂上の神様にまで届くような、でかい声で言った。だが五平に、

「いい加減にしろ、馬鹿!」

 横っ面を思いきり叩かれた。倒れたケイは声を出して泣き始め、五平も、気が抜けたのかその場に座り込んでしまった。声を押し殺しながら、五平も泣いていた。

 セツは二人が泣くのを黙って聞いていた。聞きながら、宙で止めていた手をそっと伸ばした。震えた指先で触れた玄平の頬は、厳冬に村を襲う吹雪のように冷たかった。セツは火がついたように、わあわあと声を上げて泣き崩れた。

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