第15話「義母」

 空に雲は低いが、切れぎれで、お日様があちこちから差し込む暖かい日が続いた。

 春が終わる頃、セツが嫁にいくことになった。相手は五平である。

「今死ぬか、今死ぬか」と言われていたのにすっかり持ち直した五平のまえの嫁は、春先から、空の雲が薄まっていくのと同じように顔色が薄くなり、あれよあれよと弱って死んでしまった。

 セツの家では、嫁が死ぬずいぶんまえから、

「もうすぐ死ぬぞ、もうすぐ」

 母親が言っては、

「ほれ、いつか言ったとおりだぞ、きっとおめえは、すぐに後添にいくことになるぞ」

 親父も、鹿でも仕留めたような得意顔でそうくり返していた。

「わからんよお、また、何もなかったように持ち直すんじゃねえか?」

 セツは親父の言うことなぞアテにならないというように振る舞っていたが、「これでまた嫁に」と内心では期待していた。

 嫁がそろそろ危ない、という噂が聞こえてくると、母親が毎日のように嫁の具合を確かめに行き、「今夜あたり、きっと」と言った。ある日など、五平の家の中を覗いてきたらしく、

「まえの時より、ひでえ顔だ。ありゃいよいよ駄目だぞ」

 舞い上がった様子でそんなことまで言うのである。セツは「そうは言ってもまえだってよくなったのだし」と以前のことを思い出しては、

「そんなにうまくはいかねえんじゃ?」

 両親より落ち着いていた。

 だがある朝、

「死んだ、死んだ。ついさっき死んだと」

 母親が、そう言いながら転がり込むように帰ってきた。「今度は持ち直さなかったか」と、セツは死んだ嫁が少し可哀相にも思えてきた。だがこれでまた嫁にいけると思うと、やはり嬉しいのだった。

 五平のほうもすぐに後添を見つけたいのは、これは村では誰でもわかっていることだった。こんな小さな村の中で嫁を見つけなければならないのだ。独り者がいたらすぐにもらわなければ、よその家に取られてしまう。だからどの家の誰が独り者であるか、独り者になりそうか、村では皆いつでも気にしているのだった。



 五平の後添になって、セツは五平の家に住むことになった。といっても実家からたった三つ下の家である。

 五平には老いた母がいた。嫁いだその日から、セツはこの母の世話に忙しかった。母はセツのバアちゃんに比べればうんと若いが、腰も足もすでに弱っていた。その上、頭も少し変になっているのか、時々わけのわからないことを言った。

 飯を食ったばかりなのに、「さあ、早く飯をくれ」などと大真面目に催促するのである。

 セツは時折実家へ帰っては、茶をすすりながら、「うちのバアちゃんのほうがよっぽど達者だ」と誇らしげに笑った。

 そのたびに親父も、

「そうだぞ、バアちゃんは達者も達者だ、村一番の長生きなのだぞ」

 威張るように言った。

「五平のとこのバアさんは、もう頭も働かねえのかあ」

 母親は少し気の毒そうにそんなことを言っては、

「うちのバアちゃんは、ほんとに達者だなあ、たいしたもんだ」

 と、一人満足そうに頷きながらバアちゃんの肩を揉んでいた。当のバアちゃんは、いつもと何一つ変わらず、ただ、眠っているように正座していた。



 五平の母は名をタキといった。だが家の者たちは「おばあやん」とばかり呼ぶので、セツはしばらくこの義母がタキという名だとは知らなかった。小さい村ではあっても、よく話題になる者と、そうでない者がいる。話題にならない者の名は、どうしても覚えられにくいのである。

 嫁に来てまだ間もないある夜、みんなが寝静まった頃に、

「もし、もし」

 セツは誰かの声を聞いた気がした。だが眠かったので目は閉じたままにしていた。隣には五平が寝ている。反対の隣は内壁である。五平か? と思ったが、地響きのようないびきはずっと鳴っているので、そうではないと思い直した。五平はいびきがひどかったのである。目をつぶったまま耳をすましてみた。小さな声である。

 いきなり、その鼻や口から出る息が、フゥフゥとセツの耳にかかった。

 セツは驚き、

「だ、誰で?」

 パッとうしろに跳ね退くように起き上がって聞いた。

「もし、もし、おタキでやんす」

 義母の声らしい。

「あれ、おばあやん、どうしたあ?」

 セツは聞いてみたが、

「もし、もし、おタキでやんす」

 そればかりくり返す義母の様子に、何だか恐ろしくなり、隣で寝ている五平を「起きて、起きて」と目一杯の力で揺すった。地響きのようないびきが鳴り止み、五平が目を覚ました。恐ろしさのあまり引きつった顔のセツと、そのうしろで何か呟いている義母を交互に眺めて、

「ああ、いつものことだから、気にせんでいいから」

 それだけ言うと目を閉じてまた横になり、すぐにいびきをかき始めた。

 セツは「そんなこと言っても」と腹が立った。だが五平はもうすっかり眠ってしまったのである。

 おそるおそる振り返ってみると、

「もし、おタキでやんす」

 セツがさっきまで寝ていた枕元で、そればかり言っているのである。同じことを阿呆のようにくり返すさまは見ていて不気味だったが、セツを追いかけてきて、また耳元に口を近づけて言おうというわけではないらしい。

 セツは少し考えてから、床に戻り、今度は義母に足を向けて眠ることにした。布団がわりの薄い綿入れで足元を覆う。こうすれば義母の息が足にかかることもない。それから耳の穴に指の先を突っ込んで体を丸めた。そっと目を開けてみた。思ったとおり、義母はセツの足元に同じことを呟いているらしい。家の者たちは誰もそんな義母を気にしていない。五平が言ったように、いつものことなのだ。皆慣れっこなのである。そう思うとセツは少しほっとした。そしていつの間にか眠ってしまった。

 次の朝、目覚めの早い五平に、

「昨夜のことだけんど、おタキというのは?」

 そっと聞いてみた。義母はいつ戻ったのか、自分の床で眠っていた。

 五平は、こいつは何を言っているのだ、という顔つきになって、

「おばあやんのことじゃねえか、なーにを今さら!」

 そこではじめて、セツは義母の名を知ったのである。五平は呆れたような、驚いたような顔をしながらタキのほうを見て、

「いっつもブツブツ何かくり返しとるが、自分の名を言うってのは、はじめて聞いたなあ」

 不思議そうに言った。それを聞いたセツは、「きっと、おらに名乗ってくれていたに違えねえ」と一人合点がいった。タキも頭がおかしくなっているばかりではないのだろう、と思えてきて、セツはそれから、この義母の面倒をよく見るようになった。

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