第14話「珍事と祝福」

 何日か経ったある日だった。とびきりの寒さにセツはたまらず目を覚ました。 便所をすませてから、家の下に広がる村をぼけっと見下ろしていた。すると村のずっと下の、ぽっかりと開いた森の口から何か動くものが出てくるのが見えた。

「あーっ!」

 セツはその場で飛び上がり、村を駆け下りていった。森の口から出てきたのは、背板をしょったお里の男たちだったのだ。

「お里から、お里から」

 セツは夢でも見ている気分だった。地面を蹴っている両足は軽やかで、宙にでも浮いてしまったような気さえする。

「お里から来たぞお、来たぞお!」

 それを聞いて家々から村の者たちが出てきた。セツのあとを追うようにして、あっという間に行列になった。まるでセツの率いる行列である。お里の男たちも向こうから歩いてきて、ちょうど村の一番下の、かつてセツが仁太と暮らしていた家のまえで会った。

「お里から、お里から」

 村の者たちが口々に言う声は声にならない。

 お里の男たちの一人は、

「遅くなっちまって。申し訳ねえことで」

 頭を下げて、詫びるような格好である。

 豪太がまえに出てきて、

「あれま、こりゃ、夢みてえだ、さあ家へ家へ」

 頭を下げている男のしょっていた背板を、奪い取るようにして自分でしょうと、まわりの者たちにも、

「さ、荷を持って、お連れして」

 そう声をかけ、村を上り始めた。豪太に従うように行列はぞろぞろと、来た道を戻った。

 いつの間にか行列に加わっていた親父が、一番うしろを歩いていたセツのそばに来て、

「な、やっぱり来たぞ、やっぱり」

 まるで自分の手柄のような顔をして言った。セツはすっかり呆れ返ってしまった。



 お里からの男たちは、全部で五人だった。十人よりもっと多い年もあったのだから、ずいぶん少なくなったものである。

 だが「お里から、来てくれただけで」と誰もが救われたような気持ちだった。少しまえにやってきた時はたった二人で、しかも荷を何も持たずにやってきたのである。それが今回は、背板に米俵をしっかり括りつけてやってきたのだ。人数など少なくても、気にもならないほど嬉しかった。

 次の朝早く、お里の男たちは帰っていった。

 昼ごろ、お里からの米が家々に配られた。米を届けにやってきた豪太に、セツはお里がどんな具合であるか聞いてみた。

「お里もやっぱり、楽じゃねえそうだ」

 はじめ、豪太は暗い顔でそう言ったが、

「それでも、これくらいの米は用意してくれるのだから」と笑い、

「やっぱり、お里は頼りになるなあ」

 しまいにはお里を崇め立てるような口ぶりになった。

 セツは、

「お山が火を噴いたって話は、お里の人たちは何か?」

 いつか聞いたあの話を、もう一度確かめたくて聞いたのだが、

「ああ、お里も空はまだ曇ったままらしい。そんでも、そろそろ雲もどこかへ行くだろうと言っていたぞ」

 何の心配もいらん、という顔で言うので、セツもほっとした。

 家々に配られた米はわずかなものだった。持ってきたのがたかだか五人なのだから当たりまえである。それでも、お里の連中が来てくれたというだけで、誰もが救われた気分だった。村では食料が常に不足しているので、どの家でも腹一杯に食うということがなかった。分量など、よほど少なくても平気なのである。

 村や森を覆い尽くす大雪が降るだろうと言われたほど寒い秋だったが、冬になると寒さは落ちつき、雪はほとんど降らなかった。

「こんなことは、珍しい」

 セツの親父は首を傾げてはそう言い、

「こりゃ、お山さんの神様のおかげに、違えねえぞ」

 などとお山さんの頂上に手を合わせて拝む様子に、セツは苦笑いした。親父が拝む姿こそ、珍しかったのである。

 雪のない森ではわずかながら鹿や野うさぎが獲れる日もあり、どの家も、その冬は無事に越せることになった。ただ徳三の家のトミだけが、晩秋から具合を壊して、あっけなく死んだ。



 村を吹き抜ける風の中からすっかり寒気が消えた。春である。この頃は空の分厚い雲も少しは薄くなったのか、雲の隙き間からお日様が差し込む日もあった。

 村では、

「火を噴いたお山っちゅうのが、きっと収まったんじゃねえか?」

 誰もがそう言っていた。いつかお里の者たちから聞いた、「火を噴いた」どこかのお山がようやく落ち着いたのだろうということだ。セツもそうだと思った。他にすることもなくて、よく家のまえに立って空を見上げていたセツは、少しずつではあるが、空を覆っていた灰色の雲が薄くなってきたのがわかっていたのである。

 セツの親父などは近頃、

「これからは、あったかくなるぞ。きっと、そうなるだぞ!」

 そんなことばかり言っている様子は、よほど嬉しいらしい。村には朝も昼も訪れはしたが、あの雲のせいでいつでも何となく薄暗かった。それがやっと、少しずつではあるが、筵から藁が一本ずつ抜かれていくように、分厚い雲が薄くなっていくのが皆嬉しくてたまらないのだった。

 セツの母親も、

「きっとそうだ、あったかくなるぞぉ!」 

 もう野畑の作物も山盛り採れることが約束されているような口ぶりである。セツもどうしようもなく嬉しくなってきて、

「お里の連中も、米を、たんまり持ってくるに違えねえぞ」 

 親父がしつこいほどそう繰り返すのを、にこにこしながら素直に聞いていた。



 馬鹿で嫌われ者の正吉がえらい大物を仕留めたのは、それから数日が過ぎたある日だった。

 お山さんの森にも、獲物たちが姿を見せるようになっていた。村の働き盛りの男たちは、毎日のように森へ入っていった。だが鹿も野うさぎも、獲れるのは小粒ばかりだった。小粒でも獲れるのはありがたいことであるが、

「一つ、でっけえのが欲しい」と誰もが思っていた。

 大物は特別な意味を持つ。森で獲れる獲物はお山さんの神様からのお恵みである。中でも大物は特別なお恵みなのである。特別ということは村は祝福されているということになるのだ。

 そうなれば、「これからもきっと、お恵みがあるぞ」と皆気が楽になり、ほっとして、村全体に勢が出てくるのである。大物を仕留めれば仕留めた当人は誰からも褒められていい気分になれる。何より、多くの分けまえにあずかることができる。だから猟に出る男たちは誰でも大物を仕留めたいと思っているのだった。

 正吉はまえにも、ひょっと鹿を仕留めて村の皆を驚かせた。他の者がやったのなら驚くことではないが、正吉は頭の回りが遅く、だらしのない、誰からも馬鹿にされている男である。風のように森の中を駆ける鹿であるから、松っちゃんでさえうまく仕留めるのはひと苦労なのに、あの正吉が一発で見事に仕留めてしまったので皆目を丸くした。

 それも今回はえらい大物なのである。弓の名手であった清吉や、伜の仁太もえらくでかいのを仕留めたことがあったが、正吉が仕留めたのは、

「今までに見たこともねえ」と松っちゃんも舌を巻くほどの大鹿だった。正吉は狂わんばかりに高ぶって、

「おらが仕留めたのだぞ、おらが仕留めたのだ!」

 ちょっとした広場のようになっている、森の口のまえに置かれた大鹿の死骸を見に来た者たちにくり返し自慢していた。だが村の者たちは、

「まぐれだよ、あんなのはまぐれだ」とたいして面白くもない様子だった。

 その晩、セツの家でも、

「あんな大物は見たこともねえぞ」

 両親は鼻息を荒くしてしきりにそう言った。だが「正吉の奴も、たいしたもんだあ」などとセツが正吉を褒めると、

「なあに、まぐれだ、あんな馬鹿の奴は」

 やはり馬鹿にするような口ぶりなのである。正吉が仕留めた大物には感心するが、当の正吉のことは馬鹿にしていたいようだ。

「とにかくえらい大物だから、お山さんの神様も、機嫌がいいってことだ」

 セツが神様のおかげだと言おうとしても、

「そうだぞ、お山さんの神様の機嫌がいいからだぞ、だから正吉なんぞでも仕留められたのだ」

 親父はどうしても正吉を馬鹿にしたいらしい。セツはそんなことより「えらい大物を恵んでもらったし、あの分厚い雲も薄くなったし」などと考えていた。これから先は獲物もよく獲れて、この冬はきっと無事に越せるぞ、そう思うと嬉しくなった。雲が薄くなっていく空を明日も眺めるのが、楽しみでしかたなかった。

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