第12話「見舞い」

 秋も半ばを過ぎた頃から、一段と冷たい風が吹き荒れるようになった。

「こんな寒さじゃあ、すぐに雪が降るぞ。獲物もみんな、雪の下になっちまうぞ」

 誰もが不安を口にした。

 セツの親父も、

「こんなに寒いんじゃ、どうしようもねえ」

 とため息を洩らしては、すっかり諦めたような顔をしていた。

「雪がいつもより早く降ったら、お里の連中はもう来るはずもねえ」

 村中でそんな声が飛び交っていた。お里はもう「えらいこと」になっているのだから、いくら待っても男たちがやってくることはない。誰もがそれをわかっていた。それでもやはり、冬をまえにすると、きっと来るぞと期待してしまうのだった。


 

 その年、村に冬が訪れる少しまえに、徳三の家の徳婆が死んだ。

「ちょうど八十だった」

 と言う者もあれば、

「八十五くらいのはずだぞ?」

 などと言う者もあった。セツは、「やっぱり、八十ぐれえじゃねえか?」と思っていた。

 徳婆が危ないらしいと噂が聞こえてきたある日だった。筵の上に眠ったように正座していたバアちゃんが、

「見舞いへ、徳ちゃんの家へ」

 と言い出したのでセツはびっくりした。バアちゃんはまえに具合を壊して寝込んだが、無事持ち直していた。

「バアちゃん、見舞いに行きてえのか?」

 耳の遠いバアちゃんにも聞こえるように、大きな声で聞き返した。そばで聞いていた親父は、

「へえ、バアちゃん、見舞いに行きてえのか!」

 感心したように唸り、しきりに頷いた。だがそうするばかりで、自分は億劫なのか、バアちゃんを連れていく気もないらしい。バアちゃんの横に座っていたセツは、バアちゃんの顔を覗き込むようにじっと見た。

「きっと会いてえのだ、小せえ頃からの仲だから」と思うと、どうにかして会わせてやりたくなった。

「よし、おらが連れてってやっから!」

 セツは、バアちゃんを背負って連れていってやることに決めた。



 まだ宵の口だったが、外には人っ子一人いなかった。静まり返った空気の中にぴんと張りつめた寒さは、いよいよ雪でも降るらしい。大柄のセツはバアちゃんを軽々背負って、徳三の家まで下りていった。

 徳三の家のまえまでやってきて、

「バアちゃんがどうしてもって、見舞いに」

 小さく戸を叩きながら言った。返事はなかったが、ごにょごにょと幾つかの声が聞こえるのは、家の者たちが何か相談でもしているらしかった。

 戸がわずかに開いた。豪太がひょっと顔を出し、入れ、と手招きした。

 徳婆は床の真ん中に寝かされていた。枕元で見下ろすように徳婆を眺めているのは豪太の嫁である。そのすぐ横に座っているのは、ずいぶんまえに丸平の家から帰ってきた孫娘のトミだった。足を潰された丸平が死んで、すぐに実家のこの家に戻ってきたのだ。それからどこの後添にも行かずにいるらしい。トミには小さい子供がいたが、実家に帰ってくる時に丸平の家へ置いてきたそうである。丸平が死んでしまったので、トミは次の嫁ぎ先を探さねばならなくなった。そうなれば丸平との子供は連れていくわけにいかないのである。結局丸平の家で面倒を見てくれることになって、そのまま置いてもらっているのだ。だがいまだに次のもらい手が見つからないのはセツと同じなのだ。村には後家のもらい手などないのである。

 トミは下を向いているが、よくよく見ればこっくりこっくりと頭を揺らしている。眠っているらしい。だいぶ痩せてしまっていて、こいつも具合が悪いのでは? とセツは思った。

 豪太のあとについて家に上がり、トミの隣にバアちゃんを座らせた。バアちゃんはぼけっとした様子でしばらく徳婆を見つめていたが、

「徳ちゃん。徳ちゃん」

 のんびりした調子で徳婆の名を呼び始めた。乳飲み子でもあやすような、歌うような口ぶりである。徳婆はぴくりとも動かない。だが徳婆に聞こえているかなどどうでもいいように、バアちゃんはまたゆっくり、

「徳ちゃん。徳ちゃん」

 声などかけても聞こえていないだろう、とセツはバアちゃんが可哀相に思えてきた。バアちゃんは構わず声をかけ続ける。するとそれまで、死んだように閉じられていた徳婆のまぶたが、ギギギと音でも聞こえてきそうなほど重々しく開いて、ノブちゃん、とバアちゃんの名を呼び返したのである。セツも豪太も豪太の嫁も、目を丸くし、身を乗り出すようにして次の言葉を待った。

 バアちゃんは、

「徳ちゃん。徳ちゃん」

 またくり返して、

「あんたも、いよいよか」

 と震えた声で呟いた。セツは、泣いてるのか? と思ってバアちゃんの顔を斜めうしろから覗き込むように見た。バアちゃんの皺だらけの顔は、泣いているのか笑っているのかわからない。豪太は死にかけているはずの徳婆が口を利いたことによほど驚いたらしく、徳婆がまだ喋るかどうか、息を吞んで見つめていた。

 徳婆は、ひと言ずつ、絞り出すように、

「サイを、祭を知ってるのは、あんただけに」

 と言った。セツは「祭のことを言ってるぞ!」と、聞き耳を立てるような姿勢になった。祭は、徳三の家のご先祖様である徳三が為した、ずっと昔に村を救った伝説じみたものである。だがそれがどんなものなのか、セツはほとんど知らなかった。村の年寄りたちは知っているらしかったが、誰もおおっぴらに語ろうとはしなかったのだ。 セツの親父も、

「とにかく村を救ったという、えらいことらしい」

 などと言うだけで、詳しく教えてはくれなかった。誰に聞いてもそんな調子であったから、セツは、きっと誰も詳しいことは知らないのだと決めつけていた。大人たちに聞いて回ることも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。村一番の長生きで、物知りでもある、徳婆に聞きにいったこともあったが、

「ご先祖様は祭をやって村を救ってくださったのだ」

 そう言うだけで細かいことはもう憶えてもいないらしかった。何しろずっと昔のことだと言われていたし、村には昔のことを記録した書物など一切ないのであるから、徳婆だって知らなくて当たりまえだと、セツは諦めることにした。

 それが今、徳婆の口からはっきりと、バアちゃんも知っていると言われたのである。徳婆の口ぶりから、バアちゃんは「ちゃんと」知っているのだとセツは見抜いた。

「祭っていうのは、いったいどんなものなんだ?」とセツはよほどここで聞いてしまいたいと思った。だが徳婆の伜で今やすっかり村のまとめ役になっている、豪太でさえ黙っているのだから、セツなどがしゃしゃり出るのは気が引けることだった。聞きたいのをぐっとこらえて、セツは何も言わず、前かがみになってじっと耳を立てていた。

 バアちゃんは徳婆の言葉に深く頷きながら、

「そうだよ、わし一人になっちまうよ、祭のことを知るのは」

 やはり泣いているように見えるのである。

「この冬は、もしかしたら、祭を」

 徳婆が弱々しくそう呟いた。

「そうさ、やらなきゃならんかもしれんさあ」

 バアちゃんの声は、徳婆にだけ聞かせようとしているような小さな声だった。バアちゃんの返事に安心したのか、徳婆はすっかり黙ってしまった。かろうじて開いていた両目も閉じてしまい、いつの間にか、眠りについたようだった。

 徳婆が眠ったので、

「じゃあ、茶でも」

 と豪太の嫁が、セツとバアちゃんに茶を淹れてくれた。二人して、味のほとんどしない茶をすすっていると、外から、

「あの、セツと、バアちゃんは」

 と声が聞こえた。ついさっき目を覚ましたトミが、あくびをしながら入り口へ行って戸を開けた。中を覗き込むように、開いた戸の隙間から顔を出したのはセツの親父である。

「あの、わしも、見舞いに」

 ずけずけと上がり込んできた。セツは、徳婆の様子が気になってやってきたのだろうと思った。親父は眠っている徳婆をじっと見てから、そばに座っていた豪太に、

「よく眠ってるみてえで」

 挨拶のように丁寧に言い、茶をすすっているセツの隣に腰を下ろした。親父にも茶が出され、すするのであるが、やたらに響く音を立ててすするのである。誰も口を利かない静かな家の中に、親父が茶をすする音だけが聞こえていた。

「ちょっと、便所へ」

 豪太がひょっと立ち上がり、戸口から出ていった。途端、親父がセツの耳元にくっつつくほどに口を近づけて、

「こりゃあ、今夜あたりだな」

 その目は徳婆のほうを向いているのである。徳婆は今夜あたり死ぬだろう、と言っているのだ。セツもそうだろうと思ってはいたものの、徳三の家の者たちにも聞こえてしまったのではないかと、一人気を揉んだ。親父が茶をすする音が、また響いた。

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