第11話「喪失」

 その晩、村中に報せが走った。徳三の家からの報せである。家ごとに一人ずつ代表を出して、徳三の家で話を聞くのである。家々を回ったのは豪太だった。

 昼間のことで皆が気落ちして押し黙り、寂しい膳を囲んでいたセツの家では、

「今からうちに来てくれ、一人寄越してくれ」

 戸を小さく叩きながらそう告げてきた豪太の声に、誰も答えようとしなかった。両親もセツも疲れていた。怒りもあった。どこへ向けていいかわからぬが、どうしようもない怒りがあった。それにバアちゃんは具合を壊して、床の隅で横になっているのだ。

 だが豪太が「それじゃあ、あとで」と次の家に駆けていってしまうと、皆慌てた。互いに顔を見合わせて、無言のままどうするか相談しあった。

「じゃあ、わしが」

 腕を組んで黙っていた親父が言い、ひょこひょこと出ていった。親父の背中は丸く、小さかった。長く生きた人間の年寄りというより、飢えて痩せこけた、ましらか何かのようだった。

 セツは親父が閉めていった戸のほうをしばらくの間向いていた。だが戸を見ているわけではなかった。親父が出ていったあの戸から目を離し、うつむいてまたじっと待つのが辛かったのだ。腹の子を待ち、お里の男たちが運んでくる米を待ち、山から戻らぬ仁太を待ち、神隠しにあった平太まで待った。だがいつでも期待は裏切られた。米はいつだって期待したほどもたらされなかったし、仁太は戻ったがすぐに死んで、平太は帰ってすらこなかった。腹の子に至っては、セツはその身に抱くことさえなかった。セツは我が子を、捨てるために産み落としたのである。森のどこかで親父に放り捨てられる、そのためだけに自分はあの子を腹に宿し、腹の皮を通して頭を撫で、返事もないのに繰り返し話しかけたのだ。何ヶ月もそんなことを続け、空腹を忘れるほどの重いつわりに耐え、やがて子が内側から腹を突き上げてきたのをはっきり感じた時、セツは「待つ」という行為がはじめて苦ではなくなった。待つことが楽しみになったのだ。

 だが待ち遠しく思えば思うほど、不安の影も大きくなった。今も食うだけでやっとの自分たちが、子を育てられるだろうか。村では毎年のように、どこかの家の嫁の腹が膨れ、やがて産声があがり、それがすぐに遠ざかって、二度と聞こえない、ということが繰り返されていた。セツも当然それを知っていたが、切実に捉えたことはなかった。どの家でもそうしていたのだ。当たり前に行なわれていることが、当たり前に受け止められているうちは、わざわざ意識にはのぼらない。疑問を感じないのである。しかしセツは身ごもった。すると当たり前のことが、どうも違って感じられ出した。「子を産み、育てる。そんなことは虫も獣もやってることだ。当たり前のことのはずだ。なんで人間にそれができないのだ? そんなのは、おかしいじゃねえか」と思って眠れない晩もあった。「絶対に、育ててやるぞ」と決めた晩もあった。

 ところが思いがけぬことが起こった。仁太の死である。怪我して帰ってきた晩から、何となく嫌な予感はしていた。だがセツはどうにかなると思っていた。仁太の怪我は死ぬほどのおおごとではないし、食い物だってどうにかなる。そう思っていたのだ。しかし仁太はあっさり死んだ。セツは実家へ戻ったが、結局同じ村の中である。食い物の心配がなくなるわけではない。育てられぬ子は捨てる習わしを、五十年以上も見て聞いて行なってきた両親とまた暮らすうち、セツもそんなような気になっていた。いよいよお産が始まり、半日呻き続けてようやく産んだ子の顔を、セツは一度も見なかった。産声も、できれば聞きたくなかったが、股の間から出てくると赤ん坊はすぐに大きな声で泣いた。お産の直後のことで、耳を塞ぐ時間も気力もなく、我が子を抱いて外へ出ていく無言の親父を引き止めようともしなかった。何日かすると笑うこともできるようになった。はじめは両親につられて、演技のようにそうしていたのだが、いつの間にかこれまでどおりの日々に戻った。しかしそうではなかった。何か割り切れぬものが、体の芯にべったりと張り付いている気がした。捨てられたはずの我が子が、村中が寝静まった頃に、森の奥からもぞもぞと這い出してきて、傾斜のきつい道を腹這いにあがり、家の戸をまだ柔らかい小さな額で押し開けて、自分の股の間から、腹の中に帰ってくる夢をセツは何度か見た。そうして飛び起き、ぐっしょり汗ばんだ額を汚れた袖で拭う時、気づけば決まってもう片方の手は膨らみを失った自分の腹に置かれているのだった。そんなふうに目覚めるたび、セツは、腹の子とともに、取り返しのつかぬ何かを失ってしまったような気がするのだ。

 それが何なのか、今でもわからない。が、どうしてか、少しずつ、わかりかけている気がする。親父の閉めていった戸をぼんやり眺めながら、セツはそう思った。もう少しで、はっきりわかる気がする。そう思ったのだ。

「おせえなあ、何話してるだか」

 ふいに母親が言った。セツははっとしてそちらを向いた。母親もセツを見ていた。母親の小さな目には、不安と怒りとが渦巻いている。覗き込むようにその目を見つめているうちに、セツは、たった今わかりかけていたことを見失った。



 親父はまだ帰ってこない。

 セツは、早く親父から話を聞きたかった。きっと徳三の家では、代表で集まった男たちが車座になって話を聞いているのだ。徳婆はもう年も年だから、伜の豪太が話をしているのかもしれない。今日お里からやってきた二人の男たちも場を共にするのだろうか。本当に二人しかいなかったら、本当に米も持たずにやってきたのだとしたら、怒りで気狂いのようになった村の男たちに叩っ殺されてしまうのではないか。豪太が、家々を回るまえに、そっと男たちをお里へ送り返したのかもしれない。そうに違いない、セツはふとそう思った。すると、「お里の男たちがたった二人で米も持たずにやってきた」ということは、いよいよ間違いないことのように思えてきた。見捨てられたようで、馬鹿にされたようで、セツは悔しくて唇をぐっと噛みしめた。


 親父が帰ってきたのは、夜もしんと静まった頃だった。

 セツは寝ないで待っていようと思ったが、いつの間にかうつらうつら眠りかけていた。セツの隣では母親が、その向こうではバアちゃんが、すやすやと寝息を立てて眠っていた。

 入り口の戸が開いて、親父はみんなに起きろとでもいうように、やかましい音を響かせて床に腰を下ろした。

「えれえことになったぞ」

 投げやりに言ったその顔は、腹を立てているのか泣いているのかわからない顔つきである。腹を立てているには違いないが、どこか観念しているようだった。怒る気力もないらしい。セツは親父のすぐ近くまで膝で這うように寄っていって、聞いた。

「やっぱり、米も持ってこずに?」

「そうだぞ、それよりえらいことだ、お里もえらいことになってるぞ」

 そう言っている親父の声はかすかに震えていた。

「えらいことって? お里で何が?」

 セツまでつられて声が震える。

「お里も、食い物がねえらしい。都にもやっぱりねえらしいぞ」

 親父は言って少し黙った。深く息を吸い込み、やっと落ち着いてから、

「どっかのお山が、火を噴いたんだと。それからずっと、お里の空も都の空も、こっちみてえな曇った空らしい」

 そう聞いてセツは、「やっぱり空が!」と合点がいった。分厚い雲が隙き間なく敷き詰められたような灰色の空が、お山さんのずっと下のお里や都にも広がっているらしいのである。

「お日さんも差さねえから、寒さも厳しいし、食い物もできねえのだ」

 すべてがつながったように思えた。だが、それがどうしたというのだ、とセツは何となく怒りが湧いてきた。すべてがわかったところでどうにもならないのである。食い物が手に入るわけでもないのだ。この場合はあべこべで、食い物がやっぱりどこにもない、ということがはっきりわかってしまっただけなのである。

「これじゃあ、もう冬を越すことなんて……」と思うと、体中から力が抜けてしまった。セツはうつむいた。親父も、セツの真似をするようにうなだれてしまった。ついさっき目を覚ました母親も、やはり二人を真似るように、何も言わず下を向いている。バアちゃんは死んだように眠ったままだ。

 どこかのお山が火を噴いたという話は、徳三の家に集まった者たちを圧倒したそうである。集まったのは男ばかりで、怒りや不安がない交ぜになった異様な熱気は外の寒さを少しも感じさせないほどだったという。お里から来た男たちはすでに帰らされていたが、そのことに対して文句を言い出す者など一人もなかった。どこかのお山から、ごうごうと火や岩が飛び出し、もくもくと煙が立ちのぼったのだと豪太から聞いて、誰もが恐ろしくなり、呆然としてしまったらしい。

 お山さんの頂上を神様の住処だと崇めているこの村の者たちにとっては、どこのお山であろうと、お山が火を噴くということは、神様の怒り以外の何物でもなかった。神様が怒っているのならば、神様のお恵みである森の獲物も、畑の作物も、取れなくて当たり前なのである。だからお里や都で食い物がないということも、驚くことではないのだ。

 親父も、豪太のあとを追って家を出る時には、「何がなんでも、食い物を手に入れなきゃあ」などと勢があった。だが豪太の話を聞いて、すっかり気落ちてしまい、何も聞けないまま大人しく帰ってきてしまったのである。セツは親父が、まさか何も聞かずに帰ってくるなどとは夢にも思っていなかった。しかしこの場合は仕方がないことだった。セツは、自分がもし親父の代わりに行っていたとしても、同じように豪太の話に圧倒されて、

「お里がえらいことになったぞ!」

 などと言いながら帰ってくるのがせいぜいだとわかっていた。

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