第10話「疲弊」

 平太が消えた日の晩飯どき、

「平太の奴は、明日にでもひょっこり、戻ってくるんじゃねえかなあ?」

 セツは昼間思っていたことを口にした。村の皆には言えないことも、家族にならば言ってよいと思った。

 すると親父が間を置かずに、

「馬鹿、神隠しにあったのだぞ、帰してもらえるわきゃあねえ」

 セツは、あんまりすぐに否定されたので、

「気まぐれだってあるかもしれねえ。神様だって、気まぐれの一つや二つ、あるかもしれねえよ」

 負けじと言い返してやった。

「だから、馬鹿だなあ、あるわきゃねえんだ。これまでいっぺんだって、あった試しはねえんだから」

 と、親父も譲らない。意地でもセツを言い負かしたいのだ。

「まあ、今まで一度もねえからなあ。けど神様だって、気まぐれぐらい、確かにあるかもしんねえよなあ」

 二人を交互に眺めていた母親が、うまく間をとったようなことを言い、得意顔をした。だが親父が目を鋭くして、

「気まぐれなんぞ、あるものか。神様だぞ。わしらみたいな、人間なぞとは違うのだぞ」

 追い詰めるように声を荒らげた。母親は慌てて、

「ほんじゃ、バアちゃんは、どう思うかねえ?」

 セツの隣に座るバアちゃんに聞いた。バアちゃんは村一番の長生きの徳婆と、たいして変わらぬ年寄りである。いつでも、眠っているみたいに、筵の上に正座している。

 バアちゃんはほとんど喋らない。「歳で頭も働かないのだ」と家族は皆思っていた。まえにバアちゃんが口を開いたのは、いつだったのか、セツは思い出せない。だが昔から物静かだったので、一日中黙っていてもセツは心配しなかった。ちゃんと呼吸さえしてくれていれば、それで十分だとセツは思っていた。

 セツはバアちゃんが好きなのだ。バアちゃんの顔は皺だらけである。目のまわりや頬の皮膚は、だらりと垂れ下がっている。そのせいだろう、いつもにんまり笑っているように見える。だからセツはバアちゃんを見ていると、自分まで笑顔になるのだった。

 どう思うかと聞かれても、バアちゃんは何も答えなかった。家族もそんなことはわかりきっていた。だが母親に水を差されたので、セツも親父も黙っていた。

「……セツが言うのだから、そうなんじゃねえか」

 いきなりバアちゃんがそう言った。信じられないほど小さな声で。隣のセツには辛うじて聞こえた。向かいの親父は聞き取れなかったのか、

「何だって、バアちゃん」

 でかい顔を突き出し、耳をバアちゃんの口元まで近づけて聞き直した。バアちゃんはまたしばらく黙っていたが、

「……この子が、そう言うんだから、きっとそうなんじゃねえのか」

 聞いているこっちが眠くなるほど、ゆっくり途切れ途切れに答えた。しながら、わずかに手を動かした。セツを指しているつもりらしい。それに気づいて、セツは、嬉しくなった。バアちゃんが自分に賛同してくれたのだ。これなら平太も明日の朝には、けろっとした顔で帰ってくる気がした。セツは思わず笑顔になった。

 すると、なぜか親父まで、にやりと唇の端を上げた。

「ほれ見ろ、バアちゃんは、わしの言うように思っとるだぞ」

 などと言い出すので、セツは呆れた。親父は、バアちゃんが言った「この子」は、自分のことだと思っているらしい。バアちゃんはセツを指したのだが、その手は本当にわずかしか動かなかったので、親父はそれを見逃してしまったのだ。バアちゃんは、顔が、正面を向いたままだったので、「この子」と言えば向かいの伜、つまりセツの親父だと聞こえなくもない。だから親父はバアちゃんが、伜の自分に賛同したものと勘違いしているようだ。だがセツは「バアちゃんが、おらのことを言ったのだと知ってて、あんなことを言ってるに違いねえ」と親父に腹が立った。しかしそのことは黙っていた。言えば怒り出すに決まっている。わざわざ親父を怒らせる必要などないのだ。大好きなバアちゃんが支持してくれた、それだけでセツは満足だった。

 平太は明日にでも帰ってくる。セツは明日が待ち遠しくて、思うように寝つけなかった。

 だが帰ってこなかった。平太は帰ってくるものと勝手に思い込んでいたセツは、がっかりした。とっくに諦めていた村の者たちは、何にも変わった様子がなかった。

 神隠しは神様の為すことである。人間ごときには防ぎようもない。いつ起きるかわからないが、一度起きてしまえば、その先数年はまず起きない。村の親たちはほっとしていた。平太の家族には悪いがこれで、自分の家の子が消える心配は当分なくなった。親としては一安心だ。親たちは神隠しを恐れてはいたが、よその子が連れていかれた時は、むしろ喜んでいたのである。

 平太が帰ってこなかったので、

「ほれ、あるもんか、気まぐれなんぞ」

 セツは親父に嫌味を言われた。「気まぐれなんて、やっぱりねえのか」とセツは神様が憎らしくなった。

 何日か過ぎた。セツの家では、平太の話はもう出ない。村でも、そんな話など、すぐに誰もしなくなった。



 お山さんの頂上から吹き下ろす風は、日ごとに冷たくなっている。冬が近づいていた。

 ある日の朝、森の口から、男たちが出てきた。村の者たちが待ち望んでいた、お里の男たちである。報せを聞いて、セツの両親は飛び出していった。セツは、昨晩から調子を崩したバアちゃんの面倒をみていて行けなかった。だがお里の連中が来た、そう聞いただけで、躍り上がるような気持ちだった。

 少し経って、両親が戻ってきた。

「お里から来たのは、二人だけみてえだぞ」

 親父が眉を寄せ首を捻り、口を尖らせてそう言った。

「えっ、二人?」

 セツは思わず聞き返した。二人というのは少なすぎる。まえの年は、そのまえの年より、やってきた人数は多かったのに肝心の米の量は減っていたのだから、人数が多くてもアテにはならない。だがそれにしても、二人というのはあんまりである。そのうえ母親が言うには、「荷を、米を、持ってきていなかった」という。

「なあにバカを言って。そんなこと、あるわけがねえ」

 両親にからかわれているような気がし、「そんなふざけたことを言ってる場合じゃないだろう」とセツは気分が悪くなってしまった。

 本当かどうか確かめようと、セツはバアちゃんの世話を母親に任せて徳三の家に向かった。家のまえにはすでに村の者が何人も集まっていた。皆、同じ思いなのだ。だが家の戸は閉められている。セツは家の中を透かし見るように木戸を睨んだ。中の様子はわからない。苛立つばかりである。じっとしていられず、何となく裏手に回ってみた。すると家の壁に頬ずりしている者がいて、セツはぎょっとした。近づくと、徳三の家の裏手の壁に、顔を押しつけて、少しでも中の様子を探ろうと聞き耳を立てているのだった。

「ほんとに二人しか来なかったのか? 米も、持ってきてねえのか?」

 セツは男に、責めるような勢いでそう聞いた。男はいきなり後ろから怒鳴られて、飛び上がらんばかりだった。しかもセツは、男にすべての責任があるような口ぶりなのである。男はただの村人で、セツと同じ思いでやってきただけだから、もちろん何にも悪くない。そんなことはセツもわかっている。わかっているはずだが、腹の奥で煮えたぎる怒りを抑えることができない。何に対する怒りか、誰に向けた怒りかわからぬが、無性に腹が立っていた。目のまえの男に全部ぶちまけてやろうと思った。もう疲れたのだ。

 だが男が、

「そんなこと知るか、おらにわかるわけがねえだろう!」

 と怒鳴り返してきて、その剣幕に、セツは驚いた。一瞬頭に血がのぼったが、すぐにさがり、同時にさっきまでの怒りが、不安に変わっていった。

 セツは「待つしかない、待つしかない」と自分に言い聞かせながら、家の正面まで戻り、そこで待つことにした。まわりの村人たちも、いつの間にか押し黙っている。誰もがすがるような顔つきで、身じろぎもせずに家の中から誰か出てくるのを待っていた。

 だがしばらく待っていても何の動きもなかった。家を睨みつけても、中の様子はわからない。これだけ待たされれば、普段ならみんな家に帰ってしまうのだが、この日は誰もが「絶対に確かめてやる」 という肚なのである。

 セツも「いつまででも待っていてやるぞ、一晩じゅうでも」と 鼻息を荒くして、刺すような目つきを徳三の家に向けていた。いくらでも待っていてやるぞと思うと勢が出てきた。が、中の様子があまりにも気になるので、すぐに、「早く早く、教えてくれ」 と思い、泣き出したくなった。まわりの連中も同じらしかった。

 そのうちに、しびれを切らしたのか、男がひとりパッと立ち上がった。狂ったように戸口のほうへ駈け寄って、思いきりの力で戸をこじ開けようとした。だが中からつっかい棒で閉められているらしく、ほんの少し開けることすらできない。ありったけの力を込めて開けようとしたので、男は、ビタッとその場に固まってしまったのである。

 セツや他の連中は突然のことに呆気にとられ、その様子をぼけっと眺めていた。男はすぐに右手を振り上げて、力まかせに戸を叩き始めた。

「開けろ! 開けて、わしらにも話を聞かせろ!」

 自分が叫んでいるその声がかき消されてしまうほど強く叩くのである。すぐに、家の中から誰かが戸口まで寄ってくるのが聞こえた。

「こっちで話が済んだら、教えるから! いったん帰ってくれ!」

 中からそう返してきたのは、徳バアの伜の豪太らしい。徳三の家の男にふさわしく、しっかり者であったが、気性は穏やかな奴だった。だが丸太のように太い腕が、村の誰より力持ちであることを証していて、村では「あの豪太だけは、怒らすなよ」と誰もが大まじめに言い合うほど一目置かれていた。その豪太が、珍しく語気を強めて、帰れと言うのだ。ぶっ壊してやろうというほどの勢いで戸を叩いていた男も、すぐに手を止めた。まわりで見ていた連中もしょげ返っている。

 セツも「だめだ、これは」と思い、ため息をついた。大人しく家に帰ることにし、立ち上がって、尻についた土を手で払った。セツが徳三の家に背を向けて帰り始めると、他の連中も、あとを追うように次々立ち上がり、無言のまま家々へと散っていった。

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