第8話「曇天」

 春の暖かい空気が村をすっぽりと包んでいる。

 セツは腹をさすっていた。その腹はもう臨月に入っている。仁太のいなくなった、村の一番下の家を捨てて、実家である米屋に戻っていた。

 セツが子供を産んだのは、四月も終わる頃だった。

 子供は耳をつんざくような産声とともに腹から出てきた。だがセツがその子の泣き声を聞いたのは、ほんのわずかの間だけだった。子供はすぐに、厳しい表情をしたセツの親父に抱えられて出ていった。親父は産まれて間もない孫を胸に村を下り、かつてセツと仁太が住んでいた家のまえを過ぎて、森へ向かったのだ。しばらく経って親父が、出ていった時と同じ顔で帰ってきた時、その手に子供の姿はなかった。森のどこか、ちょうどいいところへ、捨ててきたのである。子供の父親である仁太が死んでしまい、次の嫁ぎ先も決まっていないのだから、しかたがないことだった。セツは気落ちした様子を見せたりはしなかったが、以来、表情にはどこか暗い影が差した。

「また嫁にいきゃあ、子供なんぞすぐできる」

 セツを励ますようにか、親父は時々そんなことを呟いた。

 セツの母親も、

「五平の嫁の奴は、ずいぶん調子が悪いらしい。夏までもたんとゆうぞ。嫁が死んだら、きっとおめえを後添にもらいにくる」

 よくそんなふうに言った。五平は米屋の三つ下の家に、年老いた母親と嫁と、子供ふたりと暮らしている男である。

 自分を励ましてくれる両親に、セツも、

「もう少ししたら……夏のうちには、きっとまた嫁に」

 ちょっとだけ笑みを浮かべては、言った。

 だが夏が過ぎてもセツは後添にいかなかった。五平の嫁は、今死ぬか、今死ぬかと思われたが、いつまで経っても息をしていた。そのうちすっかりよくなってしまい、今では、野良仕事まで元のとおりこなしてしまうほどだ。一度死にかけたために病気の素まで弱ったのか、まえよりずっと調子がよさそうに見える。

 セツは大層がっかりしたが、こればかりはどうしようもなかった。すでに嫁がいる家に、自分が嫁に行くわけにもいかない。今、村で嫁のない男は、頭の回りが遅くて誰からも馬鹿にされている、あの正吉ぐらいだ。他には、まだ十五歳にもならない若造が何人かいるだけだった。そんなところに嫁に行くわけにもいかなかった。


 

 村を渡る風から夏の熱気が抜け、秋の冷たさが混じり始めた。

 セツは村で一番高い場所にある自分の家のまえから、遠くに薄ら見えるお山さんの頂上を眺めていた。「やっぱり雲が、おかしい」と考えているのだ。分厚い雲はもう随分の間、空を覆ったままである。「まえの年から、ずっとそうだ」とセツは思った。お日様の光も通さない、灰色の雲が隙間なく詰まった空を見ていると、空に押し潰されてしまうような息苦しさを覚えた。 

 いつだったかセツは「お日様が、消えてしまったんじゃねえか?」と、気になって親父に聞いてみた。だが、

「馬鹿言うな。お日様が消えるだと。もしそんなことになったら、朝も昼も、来ねえはずだ。真っ暗になるんだから、夜だけになるっちゅうことだ。んだけど朝も昼も来てるじゃねえか」

 確かにその通りである。村には毎日、朝も昼も来る。夜に比べれば、少しは明るい。ただ、どんよりした厚い雲が空を覆い尽くしているために、豊かな日の光りが降り注ぐいうことがまったくないのだ。

「まえの年から、ずっとだなあ」と、お山さんの頂上の上の空を眺めながらセツは思った。だがよくよく考えると、もっとまえからのようでもある。「もしそうなら、きっとこれから先もそうだ」と思えてきて、セツは無性に恐ろしくなった。

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