第6話「暗転」

 お里から男たちがやってきたのは、さらに数日が過ぎたある日だった。

 外を舞う粉雪が日増しに大きな粒になり、その日仁太は猟にも行かず、家の中で弓を磨いていた。

「来たぞお」

「お里から、来たぞお!」

 突然外から、歓声と、大勢の足音が聞こえてきた。声と音は村の上のほうから近づいてきて、家の前を通りすぎ、下へと遠ざかっていく。仁太とセツは顔を見合わせ、目を輝かせた。仁太はセツに大きくうなずいて立ち上がり、

「来たぞ、来たぞお! お里から来たあ!」

 子供じみた甲高い声をあげながら家の外へ飛び出した。


 

 森の口で村人たちに迎えられたお里の男たちは、前の年よりも人数が少なかった。顔ぶれも違っているようだ。何里離れているのかもわからないこの村まで、険しい山の道を登ってくるのだから、前にも来たことのある男たちのはずである。そうでなければ、村に通じる道もわからず、どこかで迷ってしまうに違いない。だが男たちは、前の年とはまったく別の者たちのように仁太には見えた。

 いつものとおり、お里の男たちを囲んで徳婆の待つ「徳三の家」に向かいながら、仁太は彼らの背中をじっと見つめる。そして「あんまり痩せこけちまって、だから、前に来たのと違う奴らに見えたのだ」と気がついた。あの六尺を超える大男はいなかったが、よくよく見れば、他の奴らは以前にも来た男たちらしかった。だがどいつも、五尺半にも足らなそうだ。そう見えるのは背丈のせいというよりも、体つきが、細く弱っちくなったせいだと仁太は思った。

 あの大男は死んでしまったか、あるいは食うのに困って、もう村までの道を上がることもできないのかもしれない。お里もいよいよ厳しいのだ。

 そんな考えが頭に浮かんだ。もしそうだとしたら、男たちが持ってきた米の量もたかが知れているものと思えてきた。がっかりした。徳三の家まで行くのも馬鹿らしくなり、家へ引き返すことにした。

 帰ってきた仁太を見るなり、

「どうだった? 前より、米は多そうかあ?」

 自分の腹をさすりながらセツが聞いた。仁太は返事もせず、乱暴に座って、黙り込んだ。腕を組み首をひねって押し黙っている仁太に、セツはそれ以上聞くのもやめて、一緒になって黙りこくった。

 その晩は、徳三の家も静かなものだった。いつもならお里からの男たちをもてなして賑やかな宴が催されるのだが、そのひっそりとした様子はまるでお弔いでもやっているようだ。そしてそれは、他の家々も同じだった。仁太だけでなく、村の誰もが、お里への期待をあっさり裏切られたことにとっくに気づいていた。村全体が、決して這い上がることのできない沼の底に沈んだかのように静かだった。

 あくる朝早く、男たちはお里へ帰っていった。徳三の家の者だけに見送られ、放免された盗人が逃げるような足どりで、森の口から中へと消えていった。村の者たちが殺気立っていることに彼らは気づいていたのかもしれない。もしそうでないにしても、誰だって、こんな寒々しい村になど長居したくないだろう。お里の男たちが朝も早くに帰ったらしいとあとで聞き、「もしおれがあいつらなら、同じように早足で逃げ帰るだろう」と仁太は思った。

 その日の昼、お里から運ばれた米が村の家々に配られた。

「おめえんとこは、嫁も孕んでいるから」

 そんなことを言われながら渡されたのだが、米は前の年よりもずっと少ないように見えた。

「これっぽっちじゃどうしようもねえ」と腹も立ったが、わざわざ「嫁が孕んでいる」などと言うのは、これでもよその家よりは多くしてやっているのだぞ、ということなのだ。仁太は、麦やおからばかり混じった米の入った桶を見つめて、

「いよいよ、この冬は、どうしようもねえぞ」

 そう呟いた。口に出してみると、本当にどうにもならないと思えてくる。諦めがついた気がした。

 しかし隣で腹を撫でているセツと目が合うと、「まだまだ、どうにか、食い物をとってこなけりゃあ」とすぐに考え直した。



 夜が明けた。仁太は久しぶりに猟に出た。深い森は、弓の弦に触れた指が切れてしまいそうなほどに冷え切っている。だが森にくれば、野うさぎの一匹だっているかもしれないのだ。食えそうなものなら何でもいい。とにかく動く物がいたら矢を射るぞ、と細い目をギロつかせて、雪を被った草むらを踏みしめ森中を歩き回った。だが、へとへとになるまで歩いても、獲物はいっこうに現れない。手も足も寒さを感じなくなってきた。頭がぼーっとする。しかたなく村へ戻ることにした。いつもよりずっと長く森に入っていたが、獲物どころか、虫一匹見つけることができない。

 いつだったかセツが、「雲が分厚くてお日さんも差さねえ。寒さも、いつもよりずっと厳しいなあ」と言っていた。確かにそうだ。今、仁太はそう思った。いつもの年より、この冬は、ずっとずっと寒さが厳しい。鹿も野うさぎも、鳥も、虫までもがすっかり消え失せたような静かな森を見渡しながら、「生き物はみんな消えちまったんじゃねえか? この寒さじゃ、鹿もうさぎも、とっくに死んで雪の下に埋まっちまってるんじゃねえのか?」と思った。きっと、この山の上で生きているのは、村の人間たちだけなのだ。だがそんな人間たちも、お里から運ばれたほんのわずかばかりの米があるだけで、もうこの冬を越せそうにない。

 お里の、あの六尺もある大男だって、きっと死んだのに違えねえ。あんな丈夫そうな奴まで飢えてしまうのだから、これじゃあ、いったいどこに食い物があるというのだ。そう思うと、頭がますますぼーっとしてきた。

 ふらふらとぼろきれのように雪の上を歩いていた、その時だった。五、六間ばかり離れたモミの木の陰で、何かが動いた気がした。

「あっ!」

 思わず声をあげた。鋭く光った仁太の目は、動いたその影を見逃さなかった。

「鹿だ! 大物だぞ!」

 仁太は叫んでいた。足元に薄く積もった雪を踏みつけながら、夢中で鹿を追う。仁太の目は森の奥だけをまっすぐ見つめて、両足は白い雪を容赦なく踏みつける。

 ふと、時間が止まったような気がした。下を見ると両足が、地面を踏み抜いていた。足の下に土はなく、あるのは宙だけだった。

しまったと思う間もなく、仁太の体は山の斜面を転がった。転がっているうちに意識は薄れていき、ふいに、視界と頭の中が、真っ暗になった。

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