第5話「禁忌」

 セツはほっそりした体つきの娘だったが、背が高く、飯もよく食べた。仁太はセツの食いっぷりを見て、こりゃあ、父っつぁんの倍は食うんじゃねえか? と驚いた。だが清吉も死んで、ひとりぽつねんと暮らしていかねばならないと思っていたところに、こんな若い嫁をもらえたのだ。嬉しくて、たまらなかった。

 


 お山さんの頂上から渡ってくる風に、枯れ葉が舞い始めた秋の頃、セツが身ごもった。仁太はまだほとんど膨んでもいないセツの腹をさすっては、

「この冬は、しっかり飯を食わねえといかんなあ」

 力んだ顔でそう言った。

 極度に食糧の乏しいこの村では、母体に子が宿っても、産まれるとは限らない。産まれないことのほうが多かった。母体が極端に栄養不足であるためにとか、妊婦だが野良仕事を休むわけにいかず体に負担をかけすぎて流れてしまった、ということではない。もっとはっきりした、大人たちの意図があった。しかし、はじめて身ごもった子供は、育てるのが習わしのようになっていた。仁太も、死んだ清吉とそのもっと昔に死んだ母親のはじめての子だ。仁太のあとの子供たち、つまり仁太の兄弟たちは、生まれてすぐに捨てられた。仁太が五つか六つの頃、一人だけそうならずに育てられた妹がいた。二人目からを捨てるのは絶対の決まりごとではないのだ。しかしその子はいつでも痩せこけていて、それを越えれば三つになるという冬に、あっさり死んでしまった。

 セツの腹に手を当てながら、

「こりゃあ、猟に、うんと精を出さねえと」

 仁太はよくよく自分に言い聞かせた。それに、お里からのもんが、前の年よりも米をたくさん持ってきてくれなきゃあ困るぞ! とも思ったのだった。

 お里の男たちはいつも、冬になる少し前に村へやってくる。これはずっと昔から続けられていることだ。いつ、どのように始まったのか、仁太などはまるっきり知らない。そんなことには興味もなかった。それは村の、他の者たちも同じだった。お里からどれだけの米が運ばれてくるか、それだけが、村の者たちの関心ごとなのである。

 ただ、仁太は小さい頃に、清吉からこう聞かされた。この村をつくった、一番はじめのご先祖さまは、ずっと昔にお里からやってきたのだぞ。

 お山さんのずっと下、ずっと遠くにあるらしいお里から、人間など立ち入ったこともない、険しい山の深い森を、ひたすら登ってきてこの村をつくったのだという。だから村とお里の者は縁戚ということになるのだが、交流は年に一度、お里から米を担いだ男たちがやって来ては帰る、それだけだった。村には、山を降りて里へ行った者などいないし、お里までの道を知る者もいなかった。

 お里の男たちはいつでも、森から吐き出されたように森の口にぱっと現れ、そしてすっと吸い込まれるように、また森の中へ消えていった。頻繁に来るわけではなかったので、森の草木が踏み慣らされて道らしい道ができるということもなかった。



 肌に刺さるような、冷たく厳しい風が吹き荒れるようになってきた。村の誰もが、お里からの男たちの話ばかりしていた。

 仁太は毎日猟に出かけたが、森で獲物を見かけることもなくなってきた。

 その日、猟から戻ってきた仁太は、

「だめだな、てんで」

 セツの顔を見もしないで、ぶっきらぼうに言った。

「鹿は、もう、おらん?」

 セツは不安そうな顔をしている。

「おらん、おらん。姿も見せん。それより、お里からは、どうだ?」

「まだまだ。明日あたり、来るらしいと皆は言ってるけど」

「そうかあ。どうだかな、前の年より、米が多けりゃいいが」

「ほんとだ。多けりゃいいけど」

 セツの腹はもうだいぶ膨らんでいる。その腹を自分でさすりながら、

「食い物がねえんじゃ、生まれたって、大きくもなれねえもんなあ」

 そう呟いて下を向く。

 仁太はセツをじっと見た。

「なあに、食い物がなきゃあよ、そもそも、腹から出てくるほど大きくもならんさ」

 彼女を慰めるつもりで言った。だが言ってしまってから、自分がひどいことを口走った気がした。セツは押し黙っている。仁太は慌てた。

「明日にはきっと来るだろうよ、持ってくる米だって、前の年より多いのに違えねえさ」

 早口にそう言った。セツは何も答えず、ただ腹をしきりにさすっていた。

 次の日も、その次の日も、お里の男たちはやってこなかった。村では、「お里も苦しいから、もうきっと、来ねえのだぞ」などとすっかり諦めた口ぶりで言う者や、「また道にでも、迷ってるのさあ。前の年だって、ずいぶん迷ったということだから」と、やってくるのを信じて疑わない者もあったが、「やっぱり、お里だって楽じゃねえのだから、もう、来ねえんじゃねえのか? おらたちは、見捨てられたんじゃねえのか?」そんなふうに、お里への怒りを露わにする者がほとんどだった。


 

 丸平が騒ぎを起こしたのは、それから十日ばかり経ったある日だった。

 丸平は家の者に、

「お里へ、行ってくる」

 とだけ言って、仁太の家の先の森の口から、お里へ向かおうとしたのだ。そして家の者たちに泣きつかれ、村の男たちにも止められて、 森の口で「放せ、放せ」と大暴れしたのである。

 粉のようではあるが、雪もちらつき始めていて、仁太は猟には行かず家にいた。そこへ突然聞こえてきた、叫び声や怒号にびっくりして、外へ飛び出した。 丸平は、何人もの男たちに組み伏せられていた。顔じゅうに土をくっつけて、あー、あーと呻き声をあげていた。普段は大人しい丸平の、その暴れように、誰もが驚き、不安そうに顔を見合わせている。

 丸平は組み伏せられても、まだもがいていた。だが、家の者におぶわれた徳婆が村の上方から降りてくると、ようやく静かになった。徳婆が今何歳なのか、仁太は知りもしなかったが、村の誰よりも長生きの徳婆もすっかり足腰が弱って、自力ではもう歩くこともできない。

 家の者の背におぶわれた徳婆が、ヌッと、肩越しに顔を覗かせた。睨みつけるように丸平を見下ろして言った。

「許されんぞ、お里へ行くのだけは、許されんのだぞ」

 罪人を裁くような重々しい口ぶりだった。



 村には、決まりごとなどほとんどない。だが、山を下ることは決して、してはならないことだった。山を下るということは、つまりお里を探すということだ。お里に何があるのか、誰も、長生きの徳婆でさえも知らなかった。お里と村は、ただ、お里の男たちが持ってくる米によってつながっていた。

 堅く禁じられていたために、村の誰も、お里へ行こうなどとは思わなかった。森は深く、道は険しい。実際にお里へ行くことなどできるはずもない。そんなことはわかりきっているので、禁は一度として破られたことはなかったのだ。

 それを丸平が、よりによってあの大人しい丸平が破ろうとした。そのために、村の者たちは揃って度肝を抜かれた。丸平の嫁は、仁太の家から逃げ出したあの徳三の家の娘だったので、丸平は徳婆の親類である。

 だが村の禁を破ろうとした丸平は「二度と、馬鹿な真似をしねえように」と、その場で男たちに両足を叩き潰されてしまった。地べたに仰向けに寝かされた丸平の両足を二人の男が押さえつけ、別の男たちが、丸太で何度も、彼の腿と脛を叩いた。横槌で叩かれるわらのように、丸平の足は次第に硬さを失い、やがてぐじゃぐじゃになった。

 家の者を食わせるために猟に出なければならない、働き盛りの男が、足を潰されたのだ。それも両足であるから、ひきずって猟に行くこともできない。一家はこれからどう食っていけばいいのか。だがそんなことよりも、お里へ行こうとする行為は、決して許されない。

 家に戻ってきた仁太は、

「丸平も、馬鹿なことをやった」

 そう言ったが、顔はひどく緊張していた。禁を破った丸平は、悪いことをしたのには違いない。それはわかっている。それでも、仁太はどこか割り切れない。

「お里の奴らが来ねえのだから、こっちから行こうとしたのだ、丸平の奴は」

 気づけば、丸平の肩を持つような言葉が口から出ていた。これには自分でも驚いた。セツはさらにびっくりしたのか、

「まったく馬鹿なことだよ、お里のもんは、きっとそろそろ来るってのに」

 丸平にというより、仁太にクギをさすように言った。

「そうは言うが、来る来るといって、ずっと来ねえじゃねえか。前だって、もっと早くに来たぞ。今年は寒さもうんと厳しいし、お里からだって、来ねえかもしれねえ」

 仁太はすっかり諦めたような物言いだ。

「そんなこと言ったって……でも、ほんとに寒いよなあ。空も分厚い雲のせいで、曇ってばっかりだもの。いつからかわかんねえけど、もう、ずっとそうだ」

 天井を眺めながらセツが呟く。

「ああ。こりゃあよ、お里だって、えれえことになってるかもしれねえぞ」

 仁太も一緒になって、天井を見上げた。手入れのされていない、汚れたわらぶきが見えるだけだった。

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