第3話「幻の鹿」

 次の朝、清吉は珍しく寝過ごした。

 目を覚ますと、仁太はすでに出かけているらしかった。泥を落としておいた土間の弓もない。猟に出ていったのだとわかると、ほっとした。

 清吉はまだ寝ぼけていて、ふらふらと覚束ない足取りで外へ出た。そして遠くにそびえるお山さんの頂上に、

「お願えします、今日こそ、お願えしますだ」

 頭を下げながら手を合わせた。村へ吹き下ろす強い風は起こらなかったが、

お山さんも今日はきっと機嫌がいいのだ、そう考え、嬉しくなった。

 便所をすませて家に戻ろうとしたところで、村の、上のほうに人が集まっているのが見えた。不思議に思い、清吉は右足をひきずって村を上がっていった。

 集まっている者たちに近づくと、連中の話し声が聞こえた。

「おい、やっぱり米が、少なかったらしいぞ。お里も、いよいよ苦しいらしい」

 それを聞いて、やっぱりか! と清吉は思った。

「十二人もいたのに。前の年より、多いってのに」

 呻くようにそう言いながら、清吉は人々の輪に加わった。

「持ってくる人数を増やしたのは、米俵の数が増えりゃ、中身だって増えた、とおらたちが思うとでも考えたに違えねえ。馬鹿にしてやがるのだ」

 一人が土を踏みつけながら、苦々しく言う。

「お里も楽じゃないと言うのだから、食うに困って体力もなくなって、前の年ほど持ってこられなかったのかもしれんぞ」

 清吉の横にいた男がお里をかばうような口ぶりで言ったが、

「馬鹿、あの大男を見てねえのか? がっちりしててよ、ありゃあ、食うに困ってるわきゃねえぞ」

 土を踏みつけていた男がでかい声を出した。清吉もそのとおりだと思った。清吉も目の前であの大男を見ていた。軽く六尺はあるだろう身の丈に、岩のような筋肉で、血色もすこぶるよかった。食うに困っているようには、到底見えなかった。

「やっぱり馬鹿にしてやがるだ。人の数を増やしゃ、おらたちが喜ぶと思って、馬鹿にしてやがるのだ」

 誰もが、むずかしい顔をして腕を組み、ウンウンとうなずくばかりだった。



 お里の男たちはその日のうちに帰っていった。

 村の者たちは清吉の家の先の村はずれまで下りてきて、背板をしょった男たちを見送った。お里の男たちは、これから駈けるようにして森を下っていくのだが、それでも何日もかかるらしい。米俵を降ろした背板には、帰り道で食うわずかな食料が入った包みだけが括りつけられていた。食料は村で用意した。お里から持ってきた荷は少なかったくせに、十二人もの大勢でやってきたために、村が用意する食料は前の年より多くなってしまったのである。村人たちはそれが面白くなかった。

 森の口で男たちを見送るのはいつもの年と同じ、習わしみたいなものだが、今回はどの村人も浮かない顔をしている。やはり馬鹿にされたと思っているのだ。それにお里からの米が少ないのは、村では重大な問題だった。見送りをすませたあと、その、わずかばかりの米が村じゅうの家々に配られる。米といっても、少しばかりの白米に、麦やおからを混ぜ込んで量を膨らませただけのものである。それでも粟や稗が常食のこの村では、米は贅沢な食い物には違いなかった。

 お里はお山さんの深い森を下った、さらにずっと遠くにあると言われていた。都とも少しばかりだが交流があるという。ほとんどお山さんの頂きに近い、たいそうな山奥のこの村からは、山裾を見下ろしてもお里も都もまったく見ることができない。目に見えないのであるから、お里や都がどんなところであるか、村では誰も興味すら持たなかった。



「こんだけか、こりゃあ、困ったもんだ」

 今しがた徳三の家の者から配られた米を見つめて、清吉はため息を洩らした。

「おめえんとこは、伜と二人だから、こんだけで」

 米を受けとる時に、徳三の家の者からそう言われたのだが、そんなふうに言われては清吉も何も言い返せない。畑でとれる作物もあるにはあるが、冬を越すのにはそれだけではまったく足りない。あとは仁太が森で獲ってくる獲物だけが頼りだった。

 村では猟は働き盛りの男たちが行なう。仕留めた鹿や野うさぎは皆で分け合うのだが、獲物に矢を当てた者が多く受け取る決まりだ。食料の乏しいこの村では森の獲物は貴重な栄養源で、獲物を仕留めることもできないのろまは、誰の役にも立たないということでほとんど分け前などない。清吉が猟に出ていた頃はいつでも分け前にありつけたものだが、狩りに行くのが仁太だけになってからは、その頃の半分以下に減ってしまっていた。



 その日も仁太は森から何も持ち帰らなかった。

 冬が近づき深山の冷気が森を満たし始めたために、獲物はただでさえ姿を見せなくなっていた。たまに姿を現しても、遠くに顔を出すばかりで、すぐサッと消えてしまう。射止めることなどできない。この日も結局、誰も、獲物に矢を掠めることすらできず、仁太もがっくり肩を落として帰ってきたのだった。

「だめだ。獲物がもうめっきりおらん。ろくに見かけることもできねえ」

 淡々としているが、どこか、お山さんの神様を責めるような口ぶりだ。

「そんな時もあるさ、しょうがねえよ。そんでも毎日やってりゃ、そのうち……」

 清吉はそうなだめたが、

「だめだ、だめだ。毎日出かけても獲物がいねえのだから、馬鹿みてえじゃねえか。明日はやめだ」

 仁太は不機嫌そうに呟き、横になってしまった。清吉は、しょうがねえ奴だ、と呆れた。

「それだって毎日出ていかなきゃ、仕留められるわけもねえ」

 口の中でそう呟いて、ふがいない伜だと、情けなくなった。

「わしだって、足さえよけりゃ……」

 いつまでもそんなことを思って、その晩、清吉はなかなか寝つけなかった。



 朝になった。だが、仁太はいつものようには起きなかった。猟には行かないつもりなのだから、わざわざ早く起きる必要などないのだ。仁太が床から這い出たのは、夜明けをかなり過ぎてだった。

 だが、すぐにおかしいと気がついた。清吉がいない。見回すと、弓矢がなくなっている。

 まさか猟に? と驚いたが、あの足で何ができるものか、すぐに帰ってくるだろう、そう思い、心配もしないで、家でのんびり待つことにした。

 昼も過ぎた頃だった。他にやることもないので、清吉が編んでいたムシロを気も入れずにいじくっていると、松っちゃんが戸を開けて駆け込んできた。

「あれ、松っちゃん、どうした?」

「おい! 清吉っつぁんが死んだぞ!」

「えーっ!」

 仁太はムシロもほっぽって飛び上がった。松っちゃんに掴みかかるように近寄って聞く。

「どういうこった、何で」

「足が悪いから、やめておけって言ったのに、聞かねえもんだから」

 あべこべに怒るように言い、松っちゃんは出ていってしまった。仁太も慌ててついていく。外には、森から戻った連中が集まっていた。

 仁太がそこへ近づくと、一人が責め立てるように聞いてきた。

「おい、なんでおめえでなくて、清吉っつぁんが猟に来たのだ?」

 仁太は言い訳でもするように、

「知らねえ、起きたらもういなかった、弓も矢もなくなってて」

 そう言うほかなかった。村の連中はブツブツ言いながら、散りぢりに帰っていった。

 聞いたかぎりでは、清吉は足をひきずりながら森へ入り、崖から落っこちて死んでしまったらしかった。ずるずると足をひきずって歩く清吉は皆の足手まといでしかなかったが、誰も、止めもせずに放っておいた。じきに疲れて帰るだろうと思ったのだ。だが清吉は、遅れながら、いつまでもついてきた。

 森のかなり深くまで来たところで、いきなり、

「おい、向こうに、鹿だ!」

 清吉はそう叫んで前のめりに走り出したのだという。皆はあたりを見回したが、鹿などどこにもいない。清吉は走り続け、周りの連中が止める間もなく、木の根か何かにつまづいて前に倒れ、急な斜面を転がったそうだ。転がり続けた先には、崖があるのみだと、誰もが知っていた。誰も死骸を見ていないが、清吉が死んだことは疑いようがない。ずっと以前に、同じようにそのあたりから落っこちた村の若い者がいたが、そいつも、結局戻ってこなかった。

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